第6話 迷子のマリア

 わたしはマリア。

 狐族の少女でご主人様に仕える、ごく普通のメイドです。


 わたしのご主人様は、シリウスさんといいます。

 代書人をしていますが、わたしと同じくらいの年齢という若い方です。

 ご主人様は、わたしをよく褒めてくれます。

 そんなご主人様のおかげか、最近はメイドとしても自分に自信を持てるようになってきました。


 そして今、わたしは夕食の買い出しに出かけています。


「今夜はどんな料理をお出ししたら、ご主人様に喜んでもらえるのでしょうか……?」


 ご主人様が、わたしの作った料理を美味しそうに召し上がっている姿を想像してしまいます。

 そんなことを考えながら歩いていますと、市場に辿り着きました。


 市場に行くのは、わたしの毎日の楽しみの1つでもあります。

 色々なものが売っていますし、売っているものも毎日変わります。見ていて飽きることなど、考えられません。


 さぁ、今夜はどんな夕食にしましょうか。

 わたしは市場に並ぶたくさんの食べ物を、吟味していきます。




「わぁっ! 大きな鶏肉です!」


 わたしは市場でとっても大きな鶏肉を見つけ、思わず声を上げました。

 普通に売られている鶏肉の、倍はありそうな大きな鶏肉です。


「やぁ、かわいいメイドさん。お買い物かい?」


 肉屋の店主さんらしき男性が、声をかけてきました。


「すごく大きな鶏肉ですね」

「あぁ。こいつは今日の目玉商品だ。メイドさん、もし買ってくれるなら、ちょっとオマケしてもいいよ?」


 店主さんからそう云われて、わたしは悩みます。

 大きな鶏肉なので、ご主人様とわたしで食べれば、十分すぎる量になるでしょう。


 そのとき、わたしの頭の中に、グリルチキンを食べているご主人様の顔が浮かんできました。

 ご主人様は嬉しそうな表情でグリルチキンを、次から次へと口に運んでいきます。


 こうして、わたしの心と今夜の夕食は決まりました。


「これ、ください!」

「まいどありっ!」


 店主さんの元気な声が、市場にこだましたように感じられました。




「だいぶお得に買えちゃいました」


 わたしは、大きな鶏肉を持って来た道を引き返していました。

 店主さんはこの大きな鶏肉を、値引きして売ってくださいました。

 おかげで、とっても得した気分です。


 それに、これだけ大きな鶏肉でグリルチキンを作れば、きっとご主人様は喜んでくれると思います。

 わたしはすっかりご機嫌になって、ご主人様の喜ぶ顔を思い浮かべてウキウキしながら家路を急ぎます。


「……ん!」


 そのとき、わたしの鼻をとてもいい匂いがくすぐってきました。

 一瞬にして、わたしの意識はその匂いに向いてしまいました。


 その匂いが何の匂いなのか、わたしはすぐに分かりました。


「これは……!」


 すぐにわたしは、匂いが漂ってくる方角に目を向けます。

 案の定、そこにはドーナツを販売している馬車が走っていました。

 いつでもドーナツを販売できるようにしているためか、走る速度はとてもゆっくりとしています。


「ドーナツです!!」


 わたしは堪え切れずに声を上げ、馬車に向かって駆け出してしまいました。

 まだご主人様にも伝えていませんが、わたしはドーナツが大好きなのです。


 最近、ドーナツを食べることがほとんどありませんでした。

 それに今の手持ちのお金でしたら、ドーナツ1個か2個は買えるはずです。

 我慢できず、わたしは「ドーナツを買う」という目標に頭を支配されてしまいました。


 もう少しで、馬車に追いつきます。

 そう思った矢先でした。


「え……!?」


 突然、馬車のスピードが上がったのです。

 馬車はどんどん、わたしの前から遠ざかっていきます。


 急がないと、馬車が行っちゃう!


 わたしは焦り、馬車に追いつこうと走り出しました。


「ま、待って――!」


 わたしは走りますが、馬車には全く追いつけません。

 馬車はどんどん遠くなっていきます。

 今このチャンスを逃してしまったら、次はいつ出会えるかわかりません。


 なんとしても、馬車に追いついてドーナツを買いたい。

 わたしはその一心で、必死になって馬車を追いかけました。



 しかし、結局馬車に追いつくことはできませんでした。

 馬車は走り去り、わたしは走ったことで体力を消耗してしまいました。息が切れてきて、足が重くなってきます。

 それにメイド服は、激しい運動をすることに向いた衣服ではありません。


「はぁ……はぁ……」


 わたしは肩で大きく息をしながら、立ちすくみます。

 馬車の姿は、もう見えなくなっていました。

 こうなってしまっては、もう追いかけることはできません。


 ドーナツは、また今度までお預けになってしまいました。


 少ししてある程度体力が戻ってきますと、わたしは衣服を手で払って直します。

 そしてわたしは、忘れていたことを思い出しました。


「……ご主人様!」


 そうです、わたしのご主人様。

 わたしは、ご主人様とわたしの夕食の買い出しの途中でした。


 家では、ご主人様がわたしの帰りを待っているはずです。

 もしかしたら、もうお腹を空かせているかもしれません。


 ご主人様の所へ、一刻も早く帰らないといけません!


「……あれ?」


 しかし、でした。

 わたしはその時、気づいてしまったのです。


 今わたしがいるこの場所は、知らない場所でした。

 わたしはドーナツを売っている馬車を追いかけて、自分の知らない場所まで来てしまっていたのです。


 どうして途中で気が付かなかったのか。

 わたしはそのときになって後悔しました。自分の好きなものに夢中になり、メイドとしての使命を忘れてしまうなんて、即刻解雇通告をされても文句を言えません。

 それと同時に、わたしは心細くなってきました。

 もしかしたら、もう二度とご主人様に会えないかもしれない。


 解雇を言い渡されても、文句は云いません。

 でもせめて、会えなくなる前にもう一度だけ、ご主人様に会いたい……。


「ご主人様……」


 わたしは大きな鶏肉を手にしながら、夕暮れ時で暗くなりつつある街を歩き始めました。




 オレは時計が定時を知らせる音で、時計に目を向けた。

 ちょうど時計は、5時を指し示している。


 マリアが、夕食の買い出しに出かけてから、1時間が経った。

 いつもなら20分か30分で帰ってくるはずだ。

 今日はどうしたわけか、遅い。


 少し気になったが、オレは特に慌てたりはしなかった。

 きっと、夕食を何にするかで悩んで帰りが遅くなっているだけだろう。


「……そのうち、帰ってくるだろう」


 オレはそう思ったが、どこか気分は晴れなかった。

 きっと仕事をして疲れたんだろう。新聞でも読んで、気分転換にしよう。


 新聞を持ってきて、応接スペースのソファーに腰掛けて、新聞を開いた。

 適当に記事を読んでいれば、いい気分転換になるはずだ。

 そのときまでオレは、そう思っていた。


 しかしオレは、ある記事に目が釘付けになってしまった。


『急増するメイドの誘拐!!

 その背景にあるのは、使用人保護団体?』


 オレはその記事を食い入るように見つめ、活字を追いかけていく。

 記事の内容を要約すると、こういう内容だった。



 最近になって、メイドが秘密裏に誘拐される事件が増えている。そして誘拐されたメイドの雇用主に対して、メイドが虐待されていたという証拠を突き付けて、訴訟を起こすという事件が発生している。

 そしてそれを主導しているのは、使用人保護団体ではないかという話だった。

 使用人保護団体は本来、メイドを保護するために設立されたものだが、現在はメイド禁止法を使い、雇用主に対する法的措置などを行うことで恐れられているという。



 オレは記事から目を上げ、もう一度時計を見た。

 マリアが買い物に出かけてから、1時間半は経過している。明らかに遅すぎる。

 しかし、オレはちゃんと知っている。マリアが途中で喫茶店に立ち寄ってサボったり、どこかで立ち話に華を咲かせるようなことを一切しないと。

 そうなると、考えられることは……。


 急病で倒れて運ばれたか、何らかの事件に巻き込まれたか、だ。


 急病の可能性は、すぐに消えた。

 マリアの首からは、使用人認識票が下がっている。認識票にはマリアの名前や性別の他、雇用主であるオレの名前と連絡先も書かれている。

 もしも急病でマリアが病院に運ばれたのなら、オレの所に連絡が入るはずだ。

 しかし今のところ、オレに連絡は入っていない。


 後に残った可能性は、何らかの事件に巻き込まれたことだ。


 虐待したことなどは、一度たりともない。

 それにマリアは、オレに対して献身的に働いてくれる。

 だがもしも、使用人保護団体に誘拐されたとしたら……!


 オレはソファーから立ち上がると、外出用のトレンチコートに身を包んだ。

 そして万が一に備え、仕事机の引き出しの奥から、リボルバーを取り出した。

 それを胸ポケットに入れ、オレは事務所を閉めて街へ飛び出す。


「マリア……!」


 街を駆けずり回ってマリアを探すオレにできることは、マリアが無事であるように祈ることだけだった。




 オレは、街を歩き回った。

 営業であちこちに訪問したときよりも、かなりの距離を歩いたような気がする。


 どうしてもマリアを連れて帰らないと。

 それまでオレは、眠ることが許されない。

 いや、たとえ寝ようとしても寝られないはずだ。


「マリア! マリア!!」


 道行く人がオレに不審な目を向けてくるが、今はそんなことはどうでもいい。

 マリアを見つけないと。どうしても見つけて帰らないとダメなんだ!


 大通りに出ると、西日がオレの目をくらませた。

 夕焼けが、もうすぐ近くまで迫ってきている。

 オレは自然と、焦りだした。


「マリア!! マリア!!!」


 こうやって誰かを探し回るなんて、最後にやったのはいつだろう。

 そういえば、探偵からの依頼で書類を作るためにこうやって証人となる人を探し回ったことがあったなぁ。


 ――そうだ、探偵だ!

 なんで今まで気がつかなかったのだろう!?


 オレには、探偵の旧友がいる。

 彼に頼めば、マリアをすぐにでも――!


 そう思ったその時だった。



「ご主人様!」



 聞き覚えのある、少女の声。

 オレの目は自然と、声がしたほうに向いた。


 夕陽の中にたたずむ、俺と同じくらいの年頃の、メイド服を身にまとった獣人族狐族の少女。

 手にしているのは、大きな鶏肉。

 そして今の、聞き覚えのある声。


 逆光で顔は見えなかったが、オレは誰が自分を呼んだのか、すぐに分かった。


「……マリア!」

「ご主人様!」


 少女が、駆け足でオレに近づいてくる。

 間違いなく、マリアだった。




 オレはやっと、マリアを見つけた。

 いや、マリアのほうがオレを見つけてくれたのだろうか?


「ご主人様!」


 駆け寄ってきたマリアの全体を、オレは観察する。

 衣服に目立った汚れや乱れはない。

 顔や手足に切り傷や擦り傷などの傷や、アザのようなものも無い。

 通り魔に襲われたり、誘拐されて逃げてきたというわけではないようだ。


 とりあえず、使用人保護団体に誘拐されたという線は消えた。

 事件性も、ないと見ていいだろう。


 マリアと再会して安心したオレは、すぐに別の気持ちが沸き上がってきた。


「マリア、どこに行っていたんだ?」


 オレが知りたいのは、そのことだった。

 普段なら、こんなに遅くなることはまずない。


 いったい何があったのか。

 オレはそのことを教えてほしかった。


「……ご主人様」


 すると、マリアの表情が曇った。立ち上がっていた耳と尻尾は力なく垂れ、大きな鶏肉を持つ手に力が入っているのがよく分かった。

 きっとオレから叱られると思って、自然と身構えているのだろう。確かにこんな状況では、叱られると思っても何らおかしくは無いよな。

 オレの言葉も、そういう捉え方をされても、仕方のないことだろう。


「マリア、話したくないなら無理に話さなくてもいい。無事だったみたいだからな」

「ご主人様……」

「今は話せないこともあるだろう。とりあえず、家に帰って――」

「いえ、お話します!」


 マリアはオレを見据えて、そう告げた。


「ご主人様に隠すことなど、わたしにはありません!」

「わかった。マリア、聞かせてほしい」

「はい!」


 オレの言葉を合図としたのか、マリアは話し始めた。




「……なるほどな」


 マリアの話を一通り聞き終えたオレは、そうつぶやく。


「マリアが遅くなったのは、ドーナツを販売している馬車を追いかけて、道に迷ったからだったのか。それで来た道を戻ったり、人気の少ない通りを進んだり、運よく遭遇した警察官に道を尋ねたりして、やっとここまで戻ってこれた……と」

「はい……」


 オレが確認するように云って、マリアは頷いた。


「マリア――」

「ご主人様、申し訳ございませんでした!」


 マリアがオレの目の前で、いきなり頭を下げた。


「ドーナツに気を取られて、仕事を放り出してしまったこと、深くお詫び申し上げます!」

「マリア……」

「もう2度と、このようなことは起こしません! どうかお許しください」

「マリア……!」


 オレは慌てて、辺りを確認する。

 よかった。人通りがほとんどない時間帯で。


 こんな大きな声で謝られても、辺りからの注目を集めてしまうだけだ。

 そうなると、かなり恥ずかしい。


「マリア、顔を上げて」


 オレがそう云うと、マリアは顔を上げた。

 マリアは涙目になっていて、あと少しで泣き出してしまいそうだ。


 あいにく、オレにはサディスティックな趣味はない。

 こんな状態のマリアを見ても、喜んだりはしないのだ。


「とにかく、無事で良かった。使用人保護団体に誘拐されたりしていなくて、良かったよ」

「ご主人様……本当に申し訳ございませんでした!」

「いいよ、いいよ。さぁ、帰ろう」


 オレはマリアに、手を差し出した。


「もうすぐ完全に日が暮れる。それに、お腹も空いたからな。マリアが作ってくれる夕食が、待ち遠しいんだ」

「ご主人様ぁ……!」

「さ、行こうか」

「……はい!」


 マリアがオレの手を取り、オレとマリアは並んで歩き始める。

 もちろん買える場所は、オレの事務所兼自宅だ。


 時折、すれ違う人から生暖かい視線を投げつけられたが、今はそんなことはどうだっていい。

 マリアが無事に帰ってきてくれた。

 オレはそれだけで十分だった。




 その日の夕食のグリルチキンは、いつもよりも大きなものだった。

 しかしオレとマリアは歩き疲れていたためか、2人で大きなグリルチキンをすぐに平らげてしまった。

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