第3話 昼食の時間
静かな事務所の中に聞こえてくるのは、ペンが紙の上を走る音。
そして時計が時を刻む音。
その2つだけだった。
あの時間が、訪れるまでは――。
ゴーンゴーンゴーン。
「んっ……」
仕事に集中していたオレは、ペンを走らせる手を止め、卓上に置かれた時計を見る。
時計はすでに、12時を指し示していた。
ということは、今の鐘の音は時計塔が正午を告げる合図だったか。
「もうお昼か……午前中も、よく働いたなぁ」
オレはペンを置き、大きく伸びをする。
ずっと机に向かっていたためか、すっかり身体が固まっていた。背中がバキバキと、小さな音を立てる。
すると、メイド服が事務所に入ってきた。
すぐにオレは、マリアがやってきたと分かって顔を向ける。
「あぁ、マリア」
「ご主人様、お昼の時間になりました」
マリアが、フリルをあしらえたエプロンをはためかせて告げる。
「お昼ごはんのご用意が、整っております」
「わかった。すぐに行くよ」
オレはイスから立ち上がると、事務所のドアに掛かっていた札を「OPEN」から「CLOSED」へと変えた。
これで昼食の時間帯に、お客さんが入ってくることは無い。
これから1時間ほどは、食事休憩の時間だ。
オレは事務所の灯りも落とし、居間へと移動した。
さて、今日のお昼はなんだろうか。
居間に置かれたダイニングテーブルを見ると、2人分のパスタが置かれていた。
パスタはできたてらしく、湯気が立ち上っているのが見える。
「本日のお昼は、ペペロンチーノにしてみました」
マリアがそう告げ、オレに席に座るように手で促した。
オレはそれに従い、そっとイスに腰掛ける。
そのときになって、オレはふと重大なことに気がついた。
ペペロンチーノには、ニンニクが使われている!!
しまったと、オレは思った。
もしも午後になって急な来客があったときに、ニンニクの臭いに気がつかれてしまったら、お客さんに不快な思いをさせてしまうかもしれない。
そうなったら、致命的だ。
せっかく依頼をしようとして来てくれたのに、嫌な思いを抱いて帰ってしまうかもしれない。
いや、それだけならまだいい。
もしも悪評をバラまかれたりしたら、事務所の今後に関わってしまう!
仕事が来なくなってしまったら、それは死を意味する。
どうしよう。
オレ1人だけならいい。
しかし、今のオレにはマリアという使用人がいる。
マリアが再び路頭に迷うような事態だけは、避けないといけない!
オレがそんなことを考えていると、マリアがスープとサラダも持ってきてくれた。
「ご主人様、冷めないうちにどうぞ」
「……よし、いただこうか」
そうだ、きっと大丈夫だ。
ペペロンチーノだけじゃない。スープとサラダもあるんだ。
きっとニンニクの臭いくらい、スープとサラダが中和してくれるはずだ。
オレはそう自分に云い聞かせながら、ペペロンチーノをフォークで口に運んだ。
「ご主人様、美味しいですか?」
「うん。美味しいよ」
マリアからの問いかけに、オレはそう答える。
マリアの作ったペペロンチーノは美味しい。そのことに間違いはない。
気になるのは、ニンニクの臭いだけだ。
オレはそれを気にしながらも、スープ、サラダと共に食べていく。
きっとスープ、サラダ、それに水がニンニクの臭いを消してくれる。
「よかったです!」
マリアが嬉しそうに云い、尻尾を振った。
すると、マリアは立ち上がって、調理に使ったと思われるフライパンを持ってきた。
フライパンの中には、まだペペロンチーノが入っていた。
「おかわりもございます。ご主人様、たくさん召し上がってくださいね!」
「ありがとう……」
まさか、おかわりまで用意されていたとは思わなかったな。
オレは少しうろたえながらも、水を飲み干してマリアにコップを差し出す。
「ちょっとだけ、水を貰えるかな?」
「はいっ!」
マリアはすぐにコップに水を汲み、オレに手渡してくれる。
なんとかして、このペペロンチーノを水とスープで攻略しよう。
もしも接客中にニンニクの臭いが出てしまったら、印象は最悪になってしまう。
それだけは、絶対に避けなければ!
オレはせっせとペペロンチーノを口に運び、水やスープで流し込むように食べていく。
とにかく、食べきってしまえばいい。
残すのはマリアに申し訳ないが、食べきったのならそんなことはないだろう。
しかしすぐに、オレはその考え方が甘かったことを知ることとなった。
「ご主人様……もしかして、お口に合わなかったでしょうか?」
「えっ?」
マリアの一言に、オレは耳を疑った。
見ると、マリアは少し悲しそうな表情で、オレのペペロンチーノを見つめている。
「申し訳ございません。ご主人様、ペペロンチーノを流し込むように食べているように見えてしまいまして……」
しまった。
オレはそのときになって、初めて気が付いた。
流し込むように食べていくのが、まさか気が付いていたとは!
「申し訳ございません」
突然、マリアがオレに謝罪する。
どうして謝罪されなくてはならないのか理解できず、オレは戸惑う。
「最初に、ご主人様の好みを伺っておくべきでした」
「いや、マリア……」
「ご主人様、もうこのようなことはいたしません。どうかお許しを……」
マズい。
このままでは、マリアが勘違いしたまま、気まずい雰囲気で昼食が終わってしまう。
マリアの誤解を解くためには、正直に話すしかない!
オレはフォークを置き、マリアに向き直った。
「マリア、すまなかった!」
オレがそう云うと、マリアは目を丸くした。
「ご主人様……?」
「ペペロンチーノを流し込むように食べていたのには、訳があるんだ」
オレはそう云うと、どうしてそんな食べ方をしていたのか、マリアに話していった。
ペペロンチーノを流し込むように食べていたのは、ニンニクの臭いを気にしていたから。
もしも来客対応をしている時に、ニンニクの臭いが出てしまったら、悪い印象を与えてしまうこと。
それだけは避けなければならないため、ニンニクの臭いをさせないようにしなければいけなかった。
そのために、流し込むように食べてしまったこと。
作ってくれたマリアに対し、とても失礼な食べ方をしてしまったこと。
オレはそれらを全て、マリアに話した。
オレが話している間、マリアは一言も発せず、オレの話に耳を傾けてくれた。
「マリア、本当に申し訳なかった!」
「ご主人様……」
しばらくの間、オレにとって気まずい時間が流れる。
その静寂を破ったのは、マリアだった。
「ご主人様、お顔を上げてください」
マリアの言葉で、オレは顔を上げる。
そこにいたマリアは、悲しそうな表情ではなく、納得した表情になっていた。
「ご主人様は、お客様と接する機会もあることを失念しておりました。ニンニクを使ったお料理は、休日にだけお出しするべきでした。全ては、私のミスが招いたことです。ご主人様、どうかお許しください」
オレには、どうしても分からなかった。
どうして、マリアがオレに謝らなくてはならないのか。
謝るべきは、オレの方だというのに。
「マリア、謝るのはオレのほうだ。ちゃんと最初にマリアに伝えておけば、こんなことにはならなかったんだ。本当に、申し訳ないことをした」
「ご主人様……」
言葉だけじゃ、伝わらないものもあるだろう。
そう思ったオレは、再びフォークを手にした。
目の前に置かれた皿には、まだ半分ほどペペロンチーノが残っている。
オレはそれを再び食べ始めた。
今度は、水やスープで流し込むようなことはしない。
舌で存分にペペロンチーノを味わい、飲み下す。
口の中が空になったら、また再びペペロンチーノを口に運ぶ。
それを繰り返していくうちに、ペペロンチーノが皿から無くなった。
皿が空になると、オレは皿をマリアに差し出す。
「おかわり!」
オレのその言葉に、マリアは目を真ん丸にした。
「ご主人様!?」
「美味しいペペロンチーノだったよ。まだおかわり、あったよね?」
「はい、ございますが……臭い、よろしかったのですか!?」
「来客が無ければ、いいだけだ。それに、もしものときは早じまいしてしまえばいい」
「かしこまりました」
マリアが運んできたペペロンチーノを受け取り、オレは再びペペロンチーノを食べ始める。
ニンニクの臭いを気にしないで食べ始めたら、美味しくて食べる手が止まらない。
「ご主人様……」
ペペロンチーノを食べながらマリアを見ると、マリアは目に浮かんでいた涙を、そっと拭って笑顔になった。
オレの選択に、間違いはなかった。
マリア、本当にごめんな。
もう2度と、こんな思いはさせないから。
オレはマリアに心の中で謝りながら、ペペロンチーノを食べ終えた。
その日、午後からも事務所を開けていたが、来客は無かった。
夕方になると、オレは事務所を閉めて、電気を消した。
こうして、今日の営業は終了した。
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