第2話 マリアとシリウスの1日

 オレは目を覚ました。

 ゆっくりとベッドから起き上がると、大きく伸びをする。


 そしてベッドのすぐそばに置いた手帳を開き、今日の予定を確認する。

 予定と云っても、大したものは無い。

 代書人の仕事は昨日までに終えてしまって、今は新たな依頼は来ていない。


 今日の予定は、午前中にカフェで担当者と打ち合わせをする。

 原稿を手渡して、OKが出たら戻ってきて、代書人の依頼が来るまで書斎で原稿を書くつもりだ。



 オレが居間に出ると、すでにマリアは起きていて、朝食の用意をしていた。

 いい匂いが、キッチンから漂ってくる。


「おはようございます、ご主人様」

「おはよう、マリア」


 オレはイスに座り、マリアが置いてくれた新聞を広げる。

 マリアがメイドをするようになってから、新聞も朝にポストから取って来てくれるようになった。


 新聞を読んでいると、マリアが紅茶を淹れ、ホットケーキを焼いて皿に盛りつけていた。

 そしてさらに、ベーコンエッグも作る。

 マリアがメイドをするようになってから、朝食はほぼ毎日毎日、この組み合わせだ。

 今のマリアは、朝食はこれしか作れない。


「ご主人様、朝食の準備ができましたよ!」


 マリアが焼き立てのホットケーキと、ベーコンエッグを運んできて、目の前に置いた。

 オレは新聞を畳み、ダイニングテーブルの空いているスペースに置いた。


「それじゃあ、食べましょうか」


 マリアの一言で、朝食が始まる。




 朝食を食べていると、マリアが訊いてきた。


「ご主人様、本日のご予定は……?」

「今日は午前中に、出版社の担当者と打ち合わせがある。午後からは戻ってきて、執筆の仕事をする予定だ」


 オレは手帳に書いてある、今日の予定をマリアに伝える。

 毎朝、決まっている予定を朝食の時にマリアに伝えておくのが、マリアが来てからできた新しい決まりだ。

 マリアはそれを頷きながら聞いていた。


「わかりました。わたしは、いつも通りメイドの仕事をします」

「うん、頼んだぞ」


 オレが頷くと、マリアの表情が明るくなった。


「はいっ! がんばります!」


 マリアは嬉しそうに答えると、ホットケーキを口へと運んでいく。

 オレは少しだけ口元を吊り上げ、ベーコンエッグを食べた。




 オレは事務所兼自宅を出ると、徒歩でカフェに向かった。

 いつも打ち合わせで使っているカフェは、ここからそんなに遠くはない。

 車を使わなくとも、辿り着ける場所にある。


 外に置かれたイスに腰掛け、紅茶を飲みながら担当者の到着を待つ。

 ポケットから懐中時計を取り出して、視線を落とした。

 もうそろそろ、やってくる頃だろう。


「あっ、シリウスさん!」


 そら来た。

 1人の黒髪の男が、こっちに向かって走ってくる。出版社でオレの担当をしている、アルタイルだ。鞄を抱えながら走り、オレのところまで走ってきた。


「お待たせしました! もしかして、待ちました?」

「心配ご無用。待ってはいない」


 実際、少し前に着た所だ。

 待ったのうちには、入らないはずだ。


「それじゃ、失礼しますね」


 アルタイルはイスに座り、オレと対面するようにイスの位置をずらす。

 やってきたウエイトレスに紅茶を注文すると、雑談に入った。

 オレが適当に話を合わせ、紅茶がやってくるまでの繋ぎにする。

 紅茶が到着すると、アルタイルはそれを一口飲んでから、云った。


「早速ですが、原稿をお願いします」


 そしてオレは、鞄から封筒に入れておいた原稿を手渡す。

 ここまでが、いつもの流れだ。


「ありがとうございます。では、拝見させていただきます」


 アルタイルはそう云って、オレが持って来た原稿に目を通す。

 この時のアルタイルの目は、まるで鷲のように鋭い。

 普段の大人しい彼からは想像もつかないほど、真剣な雰囲気を醸し出している。

 その間、オレは紅茶を飲みながらアルタイルが全ての原稿に目を通し終えるのを待つ。


「いいですね! 今回もバッチリですよ!」


 全ての原稿に目を通し、問題が無いことを確認したアルタイルは、笑顔になった。

 それに安心して、オレも口元に笑みが浮かぶ。


「それでは、原稿をお預かりさせていただきますね!」


 アルタイルは、原稿を封筒に戻すと、自分の鞄へと大切にしまい込む。

 そして紅茶を飲んで、一息ついた。


「それにしても、もうメイド禁止法が施行されてから、ひと月も経ちましたね」


 メイド。

 その言葉にオレは驚いて、アルタイルを見る。


「ど、どうしたんだ、急に?」

「いや、最近になってちょっと考えたんですけど……メイド禁止法なんて、誰が成立させようと思ったんでしょうね?」


 アルタイルは困った顔をして、首をかしげる。


「メイドが虐待や奴隷のように扱われていて、それを望まない人たちじゃないのか?」


 オレは新聞などで見た理由を、そのままアルタイルに伝える。

 しかし、彼はどうも納得がいかない様子だ。


「そんなの、ごく一部の人だけですよ。僕も多くのメイドを雇っている雇用主を取材してきたけど、メイドを虐待しているような雇用主はいなかった。あれは、本当にメイドを守るために成立したものなのかな?」

「どういうことだ?」


 オレは気になり、少し前かがみになる。


「つまりですね……メイド禁止法の本当の目的は他にあって、メイドを虐待や奴隷労働から守るためというのは、賛同者を釣るためのエサなんじゃないかと!」

「アルタイル、少し、声が大きすぎないか?」


 そう指摘すると、アルタイルは慌てて辺りを見回す。

 近くの人が、オレとアルタイルの様子を伺うように見つめていた。

 そこには、のどかなカフェの風景などはない。


「友人の探偵が話していた。どこで誰が聞いているか分からないから、命が惜しいなら内緒話は声をひそめるのが鉄則だ、と」

「そ、そうでした……」


 アルタイルはハンカチを取り出すと、汗を拭いた。

 冷や汗が大量に出ている。


「そ、それでは私は出版社に戻ります。また次回も、原稿をよろしくお願いします!」

「えぇ、待っていますね」


 アルタイルは鞄を手にすると、思い出したように再び口を開いた。


「あっ、そういえば使用人保護団体の中には留守中にメイドを保護という名で誘拐してしまうような奴らもいるらしいですよ! 世の中、おかしいですね」


 おい、声を潜めろと云ったばかりじゃないか。

 オレは呆れながら、残っていた紅茶を飲み干す。


 すると、テーブルに置かれていた伝票を、アルタイルが手にした。


「あっ、紅茶代……」

「いえ、こちらで負担させてください」


 アルタイルはそう云って、財布を取り出した。


「しかし……」

「こうすると、経費になりますから!」


 アルタイルはすぐにウエイトレスを呼び、会計をすると、領収書を手にしてカフェを後にして行った。

 こういうことだけは、抜け目のない奴だ。

 オレはそう思いながらも、イスから立ち上がった。


 オレも、事務所に戻ろう。

 鞄を手に、歩き出した。




 その頃、わたしことマリアは、ご主人様の事務所兼自宅の掃除をしていました。


「ご主人様が帰って来た時に、喜んでくれると嬉しいです」


 わたしはその気持ちだけで、窓を拭き、本棚や机の上に乗ったホコリを落として、床をモップ掛けします。

 小さい私には、少し難しいこともありましたが、ご主人様が喜んでくれるのなら、頑張れます。


 なんとか事務所の掃除を終えますと、次は居間とキッチン。そしてお風呂とトイレの掃除を行い、わたしの部屋の掃除もします。

 そして最後は、ご主人様の部屋です。


「失礼しまーす……」


 わたしはそう断りを入れて、ご主人様の部屋に入ります。

 いつもそうしているせいで、ご主人様がいない時でも断りを入れて入るようになってしまいました。


 ご主人様のお部屋は、書斎を兼ねています。そのため、大きな本棚があって、そこにはたくさんの本が隙間なく収められています。

 わたしは本棚や机のホコリを丁寧に落としていきます。


「いつ見ても、ご主人様のお部屋は本がいっぱいです」


 わたしは思わず、呟いてしまいます。

 本を読んだことが、無いわけではありません。

 孤児院に居た頃は、絵本を読んだことがありますし、読み書きの授業で使った本もよく読みました。

 救貧院には本さえなく、過酷な労働をスズメの涙ほどの賃金でさせられたため、本を手にする余裕など全くありませんでした。

 それに、本は安くありません。


 わたしは掃除がひと段落つきますと、掃除道具を置きました。

 そして本棚から1冊の本を抜き取り、そっと床に置いて表紙を開きます。


 ページをいくらかめくってみましたが、書いてあるのは文字ばかりです。

 絵はどこにもありません。

 おまけに文字も小さくて、ずっと見ていると、目が疲れてしまいます。

 内容も難しくて、わたしには理解できないこともたくさんありました。


 わたしは本を本棚に戻して、再び掃除を続けます。


「最後は……」


 ご主人様のお部屋の掃除も、残すところはベッドだけになりました。

 わたしは靴を脱いで、ご主人様のベッドに乗ります。


 そのとき、ベッドからご主人様の匂いがしました。


 当たり前と云えば、当たり前です。

 ご主人様は毎晩、ここで眠っているのですから。


 わたしは引き寄せられるように、枕に顔を埋め、フガフガと匂いを嗅いでしまいます。

 はしたないと思いましたが、どうしてか止められません。


「いい匂いがします……」


 不思議なことに、ご主人様の匂いを嗅いでいると心が落ち着いてきます。

 まるで包み込まれるような安心感に、わたしはついウトウトしてしまいました。


「……はっ!」


 眠くなってきてしまい、そのまま寝てしまいそうになります。

 ここで寝てご主人様に見つかったら、きっと怒られてしまうでしょう。

 わたしは慌てて、ベッドから降りました。


 書斎の掃除を終わらせますと、わたしはすぐにキッチンに向かい、昼食の準備を始めます。

 もうすぐ11時半ごろです。

 ご主人様も、きっとそろそろ帰って来るでしょう。




 オレが玄関を開けて事務所に入ると、マリアが奥から走ってきた。


「ご主人様、お帰りなさいませ。掃除を終わらせておきました」

「ただいま。掃除、お疲れ。電話はあった?」


 オレの問いに、マリアは首を横に振る。


「いいえ、鳴りませんでした」

「わかった、ありがとう」


 電話が来ていないのなら、新しい代書屋の仕事は来ていない。

 さっき郵便受けも確認したが、依頼は無かった。


 鞄を置くと、オレは居間に入り、イスにゆっくりと腰掛ける。

 マリアはキッチンで、昼食を作っていた。


「ご主人様。お昼、もう少しでできますから、待っててください」

「わかった。気をつけて」


 オレはそうマリアに云い、昼食ができるのを待った。




 昼食後、オレは書斎に籠った。

 これから、書類仕事の依頼が来るまでの間、原稿を進めよう。

 万年筆を手にすると、オレは原稿用紙に向かった。


 すると、ドアがノックされた。


「ん……どうぞ」


 オレがドアに向かって云うと、ドアが開いた。

 ドアの向こう側に、マリアがティーセットを持って立っていた。


「ご主人様、お茶をお飲みになられますか?」

「お茶……」


 オレはつぶやき、ふと自分の懐中時計を取り出した。

 見ると、もう昼から2時間ほど経っていた。


 どうやら、原稿執筆に集中していたせいで、時が経つのを忘れていたようだ。

 そのことに気が付くと、オレは急に喉が渇いてきて、小腹が空いてくる。


「気が利くな。いただくよ」


 オレがそう云うと、マリアはティーセットを持って入ってきた。


「失礼しますね」


 机の隅にティーセットを置くと、マリアはティーカップに紅茶を注いでいく。

 そして机の上に、紅茶とクッキーが乗った皿を置いた。


「ん……」


 オレはティーカップとマリアを交互に見る。

 そうか。何かがおかしいと思ったが、これじゃ足りないんだ。


「ご主人様……?」

「マリア、ここでちょっと待ってて」


 オレはイスから立ち上がると、キッチンに向かった。

 食器類が入っている戸棚から、ティーカップを取り出すと、それを持って書斎へと戻ってくる。

 ティーカップを、そっとマリアの目の前に置いた。


「ご主人様……!?」


 それを見て、マリアもようやくオレの考えていることが分かったようだ。


「マリアも、休憩しようか」


 オレは書斎の隅から、イスを持ってくる。


「そ、そんな! わたしのためにそんな……もったいないですよ!」


 マリアはそう云うが、オレはケトルを手にすると、マリアのティーカップに紅茶を注いでいく。


「ほら、マリア」


 オレはマリアに、紅茶を注いだティーカップを差し出す。

 マリアは戸惑いながらも、差し出されたティーカップを受け取った。


「ご主人様……ありがとうございます!」


 マリアはオレに向かって頭を下げる。

 受け取ったティーカップが、マリアの頭よりも高い位置に来てしまっていた。


「それじゃあ、一息つこうか」

「はい……いただきます」


 オレが紅茶を一口飲むと、マリアもそれに続くように紅茶を飲んだ。

 紅茶を口にしたマリアは、自然と笑顔になっていった。


「美味しいです」

「それは良かった」


 笑顔になったマリアを見ていると、オレまで笑顔になってくる。

 オレはティーカップを机の上に置くと、ケトルを手にした。


「おかわりは?」

「お願いします!」


 マリアからの要求に応え、オレはマリアのティーカップに紅茶を注いでいく。

 紅茶を注ぎ終えてケトルを置くと、マリアが叫んだ。


「……あっ!」


 マリアはティーカップを置き、オレに向かって頭を下げた。


「ご主人様、すみません! 仕事中なのに……わたしは……!」

「気にしなくていい」


 オレはマリアにそう告げる。


「今は休憩中。仕事のことは、いったん忘れよう」


 オレはそう云い、自分のティーカップにも紅茶を注ぐ。


「それに、オレも1人で飲むのは少し寂しいからな」

「ご主人様……!」


 マリアは少し顔を赤らめ、再びティーカップを手にして紅茶を飲んだ。




 夕方になった。

 マリアが買い物を終えて戻って来る。


 もう今日は、これ以上の来客はないだろう。

 オレは事務所の明かりを落とし、ドアに鍵をかけた。

 今日の業務は、これにて終了だ。


「ご主人様、今夜はシチューです」

「わかった。じゃあ、先にお風呂を済ませてくるよ」

「はいっ!」


 オレはマリアにそう告げ、お風呂へと向かった。


 マリアと共に夕食を食べ終えると、オレは再び書斎に向かった。

 ベッドに入る前に、もう少しだけ執筆を進めておきたい。

 今日はどういうわけか、筆が乗る。こういうときにこそ、原稿はなるべく書き溜めておくものだ。


「さて……やるか!」


 オレは万年筆を手にすると、再び原稿用紙に向かった。


 時計の針が11時を回った辺りで、ドアがノックされた。

 万年筆を机の上に置き、オレはイスから立ち上がる。


 ドアを開けると、そこには寝間着に着替えたマリアがいた。


「マリアか」

「ご主人様、戸締りと火の始末は終わりました。お先にお休みさせていただきます、おやすみなさい」


 マリアはそう云って、ペコリと頭を下げる。


「お疲れ様。おやすみ」


 オレがそう云うと、マリアはオレが用意した個室へと戻っていった。

 マリアが部屋の中に入ることを確認すると、オレはそっと扉を閉める。


「さて……オレもそろそろ寝るか」


 オレは明かりを消すと、ベッドへと向かった。

 ベッドに腰掛けると、スリッパを脱いで横になる。


 そのとき、オレはベッドからマリアの匂いがすることに気づいた。


「ん……!?」


 オレは驚いて上半身を起こす。オレの服からではない。

 ということは、ベッドから匂っていることになる。


 そういえば、マリアが昼間に部屋を掃除したと云っていた。

 きっとベッドの掃除もしたのだろう。

 そのときに匂いがついたに違いない。


 オレはあまり気にすることなく、横になる。

 しかし、オレの意志とは裏腹に、オレの鼻はマリアの匂いを追い求めてしまう。


 マリアの匂いは、とてもいい匂いだ。

 香水をつけていたりはしない。石鹸も、オレと同じものを使っている。

 それなのに、どうしてこうもいい匂いがするのだろう?


 こういうものへの対処の方法を、オレは知らない。


「どうすれば……?」


 オレは考えたが、答えは浮かんでこなかった。




 そのせいか、翌朝オレは少し寝不足の状態で、目を覚ますことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る