高級なコーヒーを奢れ
朝の木漏れ日が整備された歩道を照らし、多くの若者が同じ制服を纏って足早に目的地である高校へとその歩みを進め、皆それぞれに友人達と今日の授業の話、動画サイトの話など口々に話題を提供し合い楽しげに登校している。そんな雑踏の中、一人静かに朝のやり取りを回想しながら憂鬱そうな表情でその重い足取りを進める生徒、黒崎聖がいた。そんな彼の思考を憂鬱で一杯にする存在『リリアナ』とのやり取りを思い返し、深いため息を吐く聖。
俺に何を期待していたのか……えらく、ふて腐れていたな…それに去り際の言葉が妙に引っかかる。
一見すると、ベッドの上…優雅に光の差し込む静寂な空間で、頬に手をあて微笑む男女…これ以上無い程甘い空気が漂っていそうだが、聖にそんなつもりは毛頭ない。
微笑を浮かべた聖はリリアナの頬に添えた手でその肉を摘み捻り上げ、耳元でそっと呟いた。
「どうやって合鍵を入手したか知らないが、次不法侵入したら…あんたの部屋に首輪つけて繋ぐからな」
リリアナは一瞬顔面蒼白するも、想像して若干頬を染めながら悶えていたのは見なかった事にしよう。
「もう、期待したのに……せっかくいい雰囲気だったのにぃ、でも部屋に繋がれて……はぁ、はぁ…イィ」
「堂々と不法侵入している変態相手に、いい雰囲気も何も無いだろう?」
「うぅ…そんな言い方しなくても……私は、ひじり君の……なんなの?」
「隣に住んでいる、変態」
「んはぁっ容赦ないよ…ひじり君……お姉さん、もう……びちょびちょだよ?」
「何がだ?」
「いっ、何がって……言わせるの?……ひじり君…お姉さんに…言わせたいんだね?……んんっ」
指を口に咥え、淡い吐息を漏らしながら妖艶な表情で潤んだ琥珀色の双眸を聖に向けるリリアナ。
軽くスルーして、自身の準備を始める聖。
「放置?!女の子をここまでして、ここまで言わせて…放置?!……イィ」
「俺は今から、学校だ…いい加減帰れ。あと合鍵置いていけよ?」
そもそも、このマンションはセキュリティーがそれなりに厳重だ…合鍵なんて簡単に作れるはずがない…
「ひぅっ……合鍵ね……合鍵……」
明らかに目が泳いでいるリリアナ。
「そうだよな……作れないよな?……どうやって入った?」
「ひじり君への愛情と情熱が私に新たな力を授けまして……この腕があれば、今や大抵の鍵は開くかと…」
「よし、その腕を落とせ」
「えげつない、えげつないよぉ…ひじり君」
「なんて技術を、なんてくだらない事の為に習得しているんだあんたは、プロの犯罪集団か?…そうだ、警察」
「ストップ!ひじり君?普通に電話かけないで!愛情ゆえの行為だから、ひじり君限定だから」
「じゃあストーカーだな……やっぱり警察」
「はぅ!?ち、違うもん!じゃ、じゃぁ…ひじり君、私を彼女に…」
「断る」
「んはぁっ……私、男の人に…しかも年下に、こんなに邪険にされたの…初めて……イィ…んんっ!!」
悶えるリリアナを見て心底疲れを感じる聖、深いため息を一つ吐くと。
「はぁ……まったく、……俺が…いる時はいつでも来ていい……だから勝手には入るな…首輪で繋いでも喜びそうだしな…」
メモにさらさらと自身の番号を書き記しリリアナに手渡す。
「ほら、不法侵入されるくらいなら…電話された方がましだ」
リリアナはガバァっと起き上がり瞳をキラキラと輝かせてメモを受け取り、感極まった表情で聖を見つめる。
「家宝にします!」
「やっぱり返せ」
「えへへ、ぜーったい返さない。これは…公式彼女宣言と受け取ってもいいのかなぁ?お姉さんにメロメロになっちゃったのかなぁ?」
「勘違いするな、被害を最小限に抑える為、苦渋の決断だ」
「照れなくてもいいんだよぉ?なんならこのまま、なし崩し的に最後まで行っちゃってもいいんだよぉ?」
「……調子にのるな、ビッチ」
リリアナの脳天に手刀を見舞う。
俺はリリアナに、いつの間にかキャラを崩壊させられている気がする……何なんだコイツは…調子が狂う。
「酷いよぉ、ひじり君…女の子に手をあげるなんて!お姉さんじゃなかったら大問題だよ?お姉さんは…イィんだけど……それに、私ビッチじゃないよ!まだ…未経験だもん……」
「私の…初めては……身も心も全部……ひじり君に––––––」
「要らん」
「んんっ!んはぁっ!こんな……イィ」
聖はゴミを見るような目で悶えるリリアナを見下げ、学校に行く為の身支度を整える。
いつまでもリリアナが帰らないので仕方なく別室で着替えたが、興奮するリリアナを『お座り』と『待て』で静止。着替え終わって出てきた時のリリアナの表情は、美人である事を忘れてしまいそうな程…狂気じみていて見るに絶えなかった。
「ぁ!私も今日予定があるんだった……ふふふ」
「気持ち悪い笑顔だな…寒気がする…それならさっさと行けよ」
「寂しいけど、少しの間だもんね…ひじり君……行って来ますのちゅー」
「むにゅう」
柔らかな唇ごと顔面を手のひらで受け止める。
「わかったから、さっさと行け……俺も出るからな…家に入るなよ?」
「わかってるよぉ!私、約束は必ず守るから大丈夫!」
「約束以前に一線超えているけどな……まったく説得力がない」
「ぁの……ひじり君…よかったら……S N Sの…ぁ、メールでもいいんだけど…教えてくれたら……嬉しいかなぁって……」
もじもじと前に手を組んで俯きながらリリアナは聖に呟いた。
なんで、こういう時だけ、しおらしいんだコイツは……普段の態度の方が余程恥ずかしいと思うのだが……
「……冗談抜きにな、俺の携帯にそんな機能はない」
そう言いながら、鞄から取り出した……化石のような携帯……言うなれば家庭用電話の子機…のような電話を見せる……まだ伸ばすタイプのアンテナが付いている…むしろ希少価値の方が高そうな携帯電話。
「ひ、ひじり君?まじ?」
今まで聖にすら見せたことがない程引き攣った表情で、携帯と聖の顔を交互に見つめるリリアナ。
「……あぁ、昔、知人から譲り受けてな……それ以来ずっと使っているが……重い上に…色々と不便だ…」
聖は苦虫を潰したような表情で自身の手にある携帯を忌々しそうに睨め付ける。
「ぇえっと……私も初めて見たよ、いつのだろう……でも困っているなら…変えたらいいんじゃない?」
「……変え方がわからない」
とても悔しそうな表情で、拳を握りしめる聖……リリアナは目が点になり、パチパチと瞬き、一拍おいて。
「くぅううっ!!可愛すぎるよ、ひじり君!そして、私の時代キタ––––––!!」
両手を上げて小高く飛び上がり喜びを表現する。
「その、悩み……お姉さんが解決してあげる!」
「断る……どんな要求をされるかわかった物じゃない」
「そんな、要求しないってぇー、任せて!」
「……あんたに頼らなきゃいけない事が既に屈辱だ」
「ひじり君!それは幾ら何でもお姉さん傷つくな……ねぇ、私もひじり君の役に立たせて?お願い」
谷間を強調し、下から覗き込むように上目遣いで聖を見つめるリリアナ…その様相は実にあざとい。
「っく……しかし……」
聖は実の所、この問題に関して差し迫り困難を極めていた。ただ、彼は高校でも付かず離れずの距離を周囲と保っているため頼みごとをする事などあり得ない……ましてや自身の弱みになる様な事を依頼するなど、あってはならないのだ。ただリリアナの破天荒ぶりにペースを乱された聖は、思わず携帯の事を暴露してしまった。
「……その代わり一つだけ、いいかな」
頭の中で、現実とプライドを必死に天秤にかけているとリリアナが口を開く。
「今度の日曜日……デート…してくれない?」
「デート?」
「……うん、一回でいいから……私と……ダメ…かな?」
白銀の前髪を僅かに垂らし、その美貌に似合わず少女の様に恥ずかしさを堪えて俯く姿は…言外に彼女の不器用さを代弁している様で。
「全く……俺なんかの、どこがいいのか……物好きだな……わかった。日曜日は開けておく」
「––––––!?」
予想外の反応だったのか、ハッと顔を上げこちらを見返してきた琥珀色の双眸は驚きと歓喜に彩られ。
「ほんとに?……ほんとに、いいの?!」
「あぁ、そのくらい……不法侵入に比べれば安い物だ」
「ぐっ……根に持つ男の子はモテないんだよ……」
喜色に溢れた表情を気まずそうな面持ちに変え目をそらす。
「まあ、犯罪だからな……それにモテる事は望んでいない」
「それは、私だけのひじり君でいるためなのかなぁ?」
「調子に乗るな…」
浮かれるリリアナを一瞥、しかし全く気にする事なくホワホワと妄想に耽っている。
「とりあえず、日曜の約束は守る……だから、携帯の件は……頼む」
「うん、うん!お姉さんに任せて!日曜日一緒に行こう」
「あぁ、わかった…じゃぁ俺は学校にいく」
「ん、頑張ってね!きっと学校も、もっと楽しくなるからね」
満面の笑みで両手を振るリリアナを背に俺はロビーを出て……現在に至る。
アイツの行動は予測不能だ……変な事を考えていないといいが……
僅かにリリアナのニヤつく表情が頭を過ぎり不安を覚えながらも高校の正門まで、後数百メートル。
瞬間、脳内に映像の激流が流れ込んでくる……
しかし、特に驚く事はなく不意に身体を自然と横へ半歩傾け––––––。
「フライングボディーハグッ!!」
後ろから飛びかかる様に真っ直ぐ、聖の背後から飛びかかってきた赤髪をなびかせる少女は、突撃を躱され体制を崩す。
「と見せかけてぇえ、トゥループ!からのぉ美少女顔面くらーっしゅ」
上体を反らし躱す、美少女の顔面は花壇へとクラッシュした。
「おはよう、桐崎さん相変わらず凄い動きだね」
哀れな状態の少女を遠い目で見つめ無表情で答える聖。
赤髪の少女はガバッと起き上がり栗色の双眸を瞬かせ何事もなかったかの様に起き上がると、小柄で華奢な体躯を活かしたアクロバティックな動きで聖の腕にしがみ付く。躱される。
「ムゥ、くろっちもあたしの不意打ちを躱すとは、流石だね!後ろに眼があるんじゃないの?」
「偶然だよ。でも流石に毎朝やられると、何となくわかるかな……」
その間も聖の腕に組みつこうとしては、躱し、去なされる。
「もぅ、一人寂しく登校する男子にっこんな可憐な美少女がっ抱きついてっあげようとっしているんだからぁっ」
「いい加減、あたしに……抱きしめさせろぉお」
一瞬で身を屈め低姿勢から肉薄する少女––––––。
あぁ……ウゼェ、こいつは何なんだ、バカなのか……朝から毎度毎度…妙にいい動きなのが余計に腹が立つ。
少女の両脇に手を指し勢いを殺しながら目線の高さまで、その華奢な体躯を持ち上げ……視線を合わせる。
互いの瞳にその表情を写し合い、色味の無い笑顔を向けられた少女の顔はその赤毛の様に淡く染まる。
「く、くろっち……ちょっと、恥ずかしいかな……」
「あぁ、ごめん…桐崎さん軽いから」
そっと地面に下ろした少女、
「ふ、ふいうちは卑怯だと思うな…」
「桐崎さんが、それを言うんだね」
色の無い笑顔で恵里奈に微笑みかけた聖は「遅刻するから」と告げ歩みを進める。
大きな瞳が特徴的で快活な少女『桐崎恵里奈』は聖と同じクラスの同級生であり、整った容姿とその可愛らしさに似合わずスポーツ万能。そして底抜けに明るい性格から、男子、女子共に人気のある存在であり、特に男子生徒からの人気も高い。
「待ってよ、くろっちぃー、美少女を置いて先に行くなぁ!」
はぁ…なぜコイツは俺に絡む……目立つだろうが……
「桐崎さん、今日は
「はぁあっ!桜ちゃんの事忘れてたぁ!!くろっちの後ろ姿を見たら身体が勝手に…」
「物凄く迷惑な体質だね?やめてもらっていいかな?」
「あたしはくろっちの……ねぇ、何でくろっちは…本当の––––––」
「えりな、置いていくなんてひどいよぉ……ぁっ黒崎くん…おはよう」
「おはよう、紫龍院さん」
恵里奈の問いかけを遮り後ろから声をかけたのは『私立叢雲学園高等学校』生徒会副会長であり、紫龍院財閥の令嬢。
『
肩まで伸びた艶のある黒髪、深緑の双眸は優しげな光を宿している。
桜はそんな身分でありながら、鼻にかけず、誰とでも直ぐに打ち解ける社交性を持ち合わせ校内では絶大な人気を誇っている。
俺の…一番、嫌いなタイプだ。
「えりなったら、黒崎くんを見つけるなり、走って飛び込んでいくんだもの……えりながごめんね黒崎くん……怪我とかしてない?」
「何で、紫龍院さんが謝るの?」
「ぁ、そうだよね……」
「心配してくれてありがとう、僕は大丈夫だから」
特に反応を示すわけでもなく、二人に背を向け歩き出す。
「ぁ……黒崎くん、待って––––––」
すると、やり取りを見ていたのか周囲がざわめき出した。
「あれ、副会長と桐崎じゃねぇ?学園の美少女ツートップだ」
「マジ?一緒にいる地味な男誰だよ?」
「あ?偶然だろ?あんな奴相手されるわけねーじゃん、アイツに行けるなら、俺でも余裕っしょ」
「お前バカじゃね?俺、アイツ知ってるぞ?桐崎がよくちょっかいかけてる…名前忘れた」
「マジでか?!そんな影薄いやつが、何で桐崎と……」
あぁ…めんどくせぇ、だからコイツらと絡むのは嫌なんだ……俺の『箱』を荒らす害悪……
ざわつく群衆の中から一際怨嗟の籠った纏わりつく視線を送る人物が数人。
「……僕、先に行くね」
そう二人に告げその場を後にする聖。
聖の背中を見つめ、縋るような手で空を握りしめその想いを胸にしまうように俯く少女。
唇を噛み、周囲を睥睨しながら熱情と憂いを宿した瞳でその背中を見つめる少女。
ハッとして互いに見つめ合い「へへへ」と苦笑いを浮かべる親友同士。
「ごめんね桜ちゃん、その…くろっちの事……」
「大丈夫だよ、えりなは私のために必死で…」
「……うん、行こ?桜ちゃん」
「うん!」
違うんだよ……桜ちゃん、あたしは––––––。
窓から眺める景色はいつもと変わらない。
机の上で頬杖をつき、教室内の雑音をBGMにいつも通りの時間が流れていく。
必要以上に関わらず、誰とも交わらず。
だが、これでいい。この何も無い『平穏』が俺にとって––––––。
「相変わらず暗いのね、黒崎君」
声を掛けて来たのは、隣の席で黒縁の眼鏡をくいっと指先で持ち上げる姿がよく似合う少女『
紫黒色の髪をきっちりと後ろに束ね、前髪はピンで留めている。
「そうかな?僕は普通のつもりだけど、それに、僕からすると『常に笑顔』の方が病んでいると思うな」
そうボヤきながら、クラスの中心で笑顔を振りまいている紫龍院桜へと僅かに視線を向ける。その視線に気が付いた桜は聖へと笑いかけ、それを受けた聖も色の無い微笑を返す。
「それは一理あるわね、だけど私が言っているのはそう言う意味じゃないわ……あなたの暗さの本質はもっと別次元にある。違うかしら?」
穂花は眼鏡越しにその鋭い双眸を覗かせ聖を一瞥する。
「なんの事だかよくわからないけど、五十嵐さんは鋭そうだから当たっているのかもね」
曖昧な返答を返し、穂花に視線を合わせ微笑む。聖は五十嵐穂花という少女を唯一このクラスでまともに会話が出来る数少ない一人として気にかけている。聖にとっては他のクラスメイトなど、教室の一部でしか無い。
「あら、今日はやけに素直ね……何か心境の変化でもあったのかしら?」
良い眼をしているな、微表情や深層心理からくる僅かな変化をよく捉えている。
「今、私の事内心で褒めてくれた?だとしたら……一応お礼を言うわね、ありがとう」
穂花は澄ました表情で核心を突くと、正面に向き直りツンとした様子で社交辞令まるだしの礼を告げる。
「五十嵐さんは、面白いな。まるで僕の心を見透かしているみたいだ」
穂花は眼鏡を僅かに上げ横目で聖に視線を送る。
「私が伊達や酔狂で眼鏡をかけていると思っているのかしら?」
「ん?眼が悪いからだよね?」
穂花の眼鏡が光を反射して神々しい光を放つ。
「黒崎君、眼鏡越しに見えないものなんて……無いわ!」
「あぁ、うん、そうなんだ」
やっぱり、バカだコイツ。
「今、凄く……失礼な事考えなかった?」
僅かに俯き、中指で眼鏡を吊り上げる穂花。
何故か眼鏡が怪しく光っている。
「いいや、全く」
悪怯れる事もなく、穂花の問いを一蹴すると後方から耳障りな揶揄が。
「こんな時間から、根暗同士でイチャついてんじゃねぇよ」
「あんま言うなって、オトモダチがいないんだからさぁ」
「アイツらみたいな影の薄い奴らが、リア充ぶってんのが一番ムカつくんだョ」
「それもそうだょなぁ、ただでさえ暗くて地味な奴らが絡んだら周りにうつるんじゃね?」
聖と穂花のやり取りを後ろから眺めていた男達が下卑た笑いと言葉で二人をこき下ろす。
名前は、覚えてないな……特に不良なわけでも無い、真面目な人間が高校で少し背伸びしてしまった感じの奴ら……程度の認識でしかない。
ふと、穂花に視線をやると澄まし顔で聞き流している。
この分なら気にする事もないか……
「なぁ、それより今日すっげぇ美人の外人が英語の担当で来てるらしいぞ?」
「朝、携帯で撮った写真印刷かけといたぜ、かなり際どい角度から攻めたから後で売ってやる」
「流石写真部、スクープが早いねぇ」
「おまえが撮るの女子の隠し撮りばっかじゃね?」
「それが醍醐味だろ?」
「その外人、辞めた谷村の代わりか?」
「そうそう、ビッチ谷村」
「あぁ、確か不倫してたんだろ?」
「そういやビッチで思い出したけど、五十嵐の母親って風俗嬢らしいぞ?」
「マジか?ガチでビッチじゃん?」
「だれがババアに指名するわけ?」
「それが、見たやつの話だと見た目三十くらいで超美人らしい」
「マジで?俺ストライクゾーン広げちゃおっかなぁ」
ヒソヒソと下賤な話を繰り広げる三人組があえて聞こえるトーンで。
「母親がビッチなら娘もビッチなんじゃね?眼鏡っ娘は大抵エロいだろ?」
「根暗でビッチな女とか、マジ勘弁だわ。彼氏さんも大変ですねぇ」
「お互いムッツリで結構盛り上がるんじゃね?高校生でビッチ……ねぇ君いくら?」
「ははははっ!マジでツボった、やめろって」
名前は出してないが、それは明らかに五十嵐穂花へ対する悪辣な嫌がらせである事は明白。そんな言葉を浴びせられた穂花は、
瞳に怒気を込め。しかし俯いたまま唇から血が滲むほど歯噛みしていた。
「……低俗な……ゴミども……」
男達は穂花のボヤきが聞こえたらしく、立ち上がり穂花に喰って掛かる。
「はぁ?俺ら楽しく話してただけなのに、何言ってくれちゃってんの?」
「それともなに?お母様と一緒で楽しませてくれちゃったりするわけ?」
「ねぇ、君いくら?」
「っははははは、マジやめろって」
コイツら馬鹿なのか、今反応したらゴミだと言う事を肯定してる様なもんだろ。
まぁ、ゴミだけどな。
穂花は徐ろに立ち上がり、眼鏡の奥から鋭い眼光を覗かせ男達を睥睨する。
「……セクハラ」
「はぁ?何?聞こえないんですけど」
眼鏡をクイッと持ち上げ怒気を孕んだ声音で穂花は言い放つ。
「……女子一人によってたかって…恥ずかしくないわけ?あんた達のやっている事セクハラだから、一人じゃ何も出来ないザコキャラが」
「はぁあ?!いきなり言いがかりつけて、何喚いてんの?意味わかんねぇ、それともあれか?認めんだな?お前の母親がふう––––––」
男が、禁忌に触れ掛けた瞬間。
「僕、思うんだけどさ……」
スッと立ち上がった聖が、男の言葉を遮り穂花に近づいて行く。
「黒崎君?」
聖の行動に辺りが静まり、穂花は逡巡する。
気がつけば男達と穂花の論争はクラス中の注目を集めており、実は同じタイミングで止めに入ろうとしていた桐崎恵里奈も予想外の聖の行動に目を見張る。
「なんだょ、黒崎。健気な彼女を助けに来たヘボ勇者か?おまえみたいな奴に守られるとかマジ頼りないよな?足震えてんじゃね?」
軽口を叩いて聖を嘲笑する男を軽く受け流し、穂花の背後に立つと周囲を見回して。
「五十嵐さんって……眼鏡取ると可愛い系だよね––––」
言いながら、穂花の眼鏡をふわりと持ち上げ。
「やっ、黒崎君?!眼鏡……とっちゃらめぇ」
穂花の雰囲気と語尾が明らかに変化する。
そして、眼鏡を取られた穂花は顔を赤らめ、動揺のあまり立ち竦む。その恥じらいの表情は別人と呼んでも過言ではない程、可愛らしく庇護欲をくすぐる面持ちで、元々の整った容姿も相まって可愛いらしさを強調している。
「やぁあっ、眼鏡ないと……わたし、恥ずかしくて……見ないれぇ」
目を剥き、顎を落とすクラスメイト。
唖然と立ち尽くしていた者たちから次第に声がかかる。
「か、可愛い」
「マジで、可愛すぎだろ?!別人?!」
「口調変わってるし!ギャップ萌えぇえ」
「本当!五十嵐さん、超可愛いんですけどぉ」
「今まで話しにくかったけど、イジリがいありそぉなキャラだしぃ。穂花ちゃん、こっち向いてぇ」
一斉に穂花を取り囲むクラスメイト達、先程のやり取りなど無かったように穂花への反応は一変し、今やクラスの半数以上が穂花サイドに加わっている。
「ふぇ、眼鏡……眼鏡を返してくらさぃぃ」
「「「可愛ぇえ」」」
因縁を付けていた男達は、集団心理で強固になった女子勢に睨め付けられ僅かに萎縮。
「んだょ、意味わかんねぇよ」
「おまえらだって本当の事知ったら」
言いかけた矢先、再び聖は口を開く。
「五十嵐さんのお母さんって凄い人なんだね、大切な一人娘の為に辛くてキツイ夜の世界に飛び込むなんて、とても強くてカッコいい人だと思うよ?僕は尊敬するな」
聖は、五十嵐穂花の事情に対し、あえて一石を投じる。
物事の見え方は、状況や先入観によって如何様にもその様相を変える。そして人は隠す程突きたがるものだ。
おそらく……数名は事実を知っているか、先ほどのやり取りを聞いているだろう…多少偏見は残るだろうが大多数は、五十嵐の境遇に同情の念を抱いた筈だ。母親の事が周知の事実である以上、声を大にして批判すれば逆に自身の首を絞めるだろうな。後は……五十嵐次第だ。
「く、くろさきくん……ふぇっ」
穂花は聖の発言を聞き、一瞬唖然とするが細い線が頬を伝い…後を追う様に大粒の雫が流れ落ちる。
「わ、わたし…小さい頃にお父さん…死んじゃって……お母さん…頼る人いなくて、必死に頑張ってわたしを育ててくれて……いまは、わたしの為にお昼に仕事してて……だけど、わたしを一生懸命育ててくれたお母さんの仕事を、わたし……自分でも、恥ずかしいと…思っちゃって……ぁりがとう……黒崎くん」
取り巻きの女子が貰い泣き、咽び泣く穂花に寄り添っている。
まぁ、及第点か…これで女子の同情は買えただろう。残るは……馬鹿どもを少し黙らせておくか。
「なんか、ゴメンね…僕なんかが、でしゃばった所為で」
聖は男達に視線を向け、色の無い笑顔で微笑む。
「てめぇ……グズのくせに調子に乗ってんじゃねぇ!影は影らしく日陰でウジウジやってりゃいいんだよ」
激昂した男達の内、体育会系が聖の胸ぐらを掴もうとした瞬間。
「やめといた方がいいよぉ?あんたらみたいなのがいくら束になっても、くろっちには勝てない」
普段の明るいキャラからは想像も出来ない程、静かにポツリと呟きながら後ろ手を組んで間に割って入る。
「桐崎……どう言う意味だよ、何でお前がコイツの肩持つんだ……」
「ぇ……まぁ、いいじゃん!ね?あんた達も一応クラスメイトだし、あんた達の為を思って言ってんの」
明らかに頬を染め同様する恵里奈を見て、愕然とした様子の男は怨嗟の籠った眼光で聖を睨む。
「えりな?どうかしたの?」
揉めている様子に気づいた桜がそそくさと恵里奈に駆け寄って、しげしげと男達の顔を確認。
ちなみに、他のクラスメイトは穂花の介抱で忙しそうだ。後は我関せずと言う素ぶりで机から動かない者が数名。
「後藤くん、鈴木くん、山内くん?悪気は無かったんだよね?クラスの仲間なんだから喧嘩しちゃダメだよ?」
これだから、自分の尺度でしか物事を測れない奴は嫌いだ……
「紫龍院…はは、大丈夫だよ俺ら別に喧嘩とかしてねぇし」
「あぁ、黒崎が友達いなくて可愛そすぎたから、構ってやっただけだよな?」
「そうそう、俺らは別に……」
微妙に気まずそうな三人、深緑の無垢な双眸は真っ直ぐ男達『後藤、鈴木、山内』を見つめ。
「桜ちゃん、あんまり甘やかしたらダメぇ。コイツら絶対後でくろっちに絡むよ?」
「え?黒崎くんに?そうなの?」
キョトンとした視線をなぜか聖に送る桜。
何故、俺に聞く……
「紫龍院さん、僕に聞かれても困るよ。それに……」
視線を体育会系の後藤へ向け聖はその場にいるメンバーにしか聞こえない程度のトーンで和かに応えた。
「桐崎さんや紫龍院さんの際どい写真をこっそり撮って、男同士楽しむのが僕みたいな地味で根暗な奴とは違う『明るくて、カッコいい』って事なんだね?とても参考になったよ……教えてくれてありがとう」
爽やかに、しかし色褪せた様な笑顔で言い放った聖。
「はっ?お前…意味分かんねぇし……」
「俺らがそんな事するわけねーだろ?むしろそれお前のキャラじゃ––––」
動揺し、まくし立てる様に聖へと矛先を向ける後藤と山内。紫龍院は「ぇ?嘘だよね?」と状況を呑み込めず困惑、恵里奈は俯き。
「おい、桐崎……こんな奴のいう事なんか真に受けんなよ?お前も早く訂正しろや?マジでぶんなぐ––––––」
僅かな破裂音が響き、後藤の頬に衝撃が走る。
相変わらず、良い動きだ……恐らくあの馬鹿は何をされたのかも理解出来ないだろう……
「最低……」
薄汚い物を見る様な視線で三人を一瞥すると。
「行くよ、桜ちゃん……」
「ぇ?恵里奈?どういう事?黒崎くんは?」
「くろっちなら大丈夫だよ、あんな奴ら……」
微妙な空気だけを残し、桜の手を引いて自らの席に戻って行った。
桐崎に頬を張られた後藤は、僅かに涙ぐみジンジンと痛む頬に手をやって惚けている。
「ぁあ、悪い事しちゃった…そろそろ僕は席に戻るよ」
そう言い残し、踵を返して自身の席に着く。穂花を取り巻いていた状況も落ち着き、眼鏡を装着した彼女は普段の様相を取り戻していたが、真逆のキャラを露見してしまった穂花は、完全にイジられポストに収まっていて、ただその表情は満更でもなさそうだ。
はぁ……余計な事だったか、変に目立ってしまった。ただ唯一まともに会話できる相手が不登校にでもなったら困るしな……
「あり…がとう、黒崎くん」
席に戻った聖に穂花が気恥ずかしそうに眼鏡をクイっクイっしながら目線を泳がせ話しかけてくる。
「五十嵐さん、やっぱり眼鏡とったら可愛いキャラだったんだね?」
微笑む聖に、穂花は顔を真っ赤にして。
「な、アレは…忘れなさい、今すぐに記憶から消すのよ」
「それは、出来そうもないかなぁ…僕は嫌いじゃ無かったよ?」
「そ、そう?じゃ……じゃぁ良いわよ…今回だけ…特別」
「どうしたの?いつものキレがないね?」
「馬鹿にしているでしょう?もう、大体……私が『ああ』なるって…いつ知ったのよ」
「別に知っていたわけじゃないよ?ただ五十嵐さんいつも眼鏡を神経質に触っているし、眼鏡外したらキャラが変わるのは鉄板って奴だよね?」
「いつのアニメよ……」
「まさか、現実にいるとはね?」
「あなたねぇ––––––」
背後から近寄ってきた女子数人が穂花の眼鏡をとる。
「ひゃぁ、は、恥ずかしいぃょぉ……」
「「「超かわえぇぇ」」」
「ある意味で、僕の話し相手はいなくなっちゃったかなぁ…」
イジられながらも楽しそうに笑っている穂花を遠い目で見つめる聖。
そんな聖の姿を、歯噛みしながら目を血走らせて睨め付ける三人。
「おい、アイツの机にコレ入れとけ……」
写真部の山内が下卑た笑みを浮かべ数枚の写真を鈴木に手渡す。
「後藤、いつまでも落ち込んでんなって!俺らが仇とってやるから」
「鈴木、山内……でも今は俺らが手を出したら……」
「だから、アイツには俺らの罪を被ってもらおう…吠え面かかせてやろうぜぇ?」
「そんで、確実にハブったら…マジでボコにしてやれよ後藤」
「あぁ、任せとけ」
そして、何事もなく学校での一日は流れ、残すところあと一教科。
三人はアレから聖に絡むこともなく、嘘の様におとなしく過ごしていた。
「くろっちぃ、構ってよぉ」
「桐崎さん、僕に絡んでると、またあらぬ誤解を招くよ?」
「あぁ、あの馬鹿三人衆?どーでも良いよあんなの、せっかく忠告してあげてたのにさぁ…男ってどいつも…」
「ぁ!でもくろっちは特別だよぉ?ちゅーする?」
「桐崎さんは、僕を買い被りすぎだよ?ただの地味な生徒だし」
口をすぼめ顔を寄せてくる恵里奈の額を抑え、顔を背けながら笑顔で応える。
「あたしの目はごまかせなぁいよぉ?くろっちー?」
「桐崎さん、なんかキャラが壊れてない?なんでいきなり大胆になったのかな?」
どれだけ突き放しても顔を近づけてくる恵里奈に思わず額にを掴む手に力がこもる。
「ぐガァっく、くろっち…死ぬ…痛いすぎて死ぬ」
シャレにならない程低い声で助けを求める恵里奈。ふっと手の力を緩めると肩で息する恵里奈がジト目で聖を見つめ。
「だってさぁ…あたし…だけだと思ってたのに……いつの間にかライバル増えてるんだもん……」
少し目線を下げ表情を赤らめながら恵里奈がむくれていると。
「オッホン」
わざとらしい咳払いをしながら穂花が恵里奈と聖に割って入った。
「ほらでたよぉ、この天然人垂らしめ……」
恵里奈は小さく呟くと穂花に向き直りニカッと笑顔を向け。
「やっほぉ、ほのちゃん!どうかしたのぉ?」
「ほ、ほの…別に、私の席ここだから……早く戻らないと先生来るわよ?」
「またまたぁ、くろっちがあたしに、食べられちゃうんじゃないかってドキドキしてたんでしょ?」
「食べるってなによ!?だいたい教室でそんなっ……」
穂花は赤面しながら恵里奈に言い募る。そんなやり取りを和かに眺めながら。
「僕は誰にも食べられるつもりは無いけどね?それに––––––」
徐に伸ばした手のひらで恵里奈の頭をぽんぽんと撫で付ける。
「桐崎さん、強がってるだけだと思うよ?」
不意に頭を撫でられた恵里奈はボフっと首から上を真っ赤に染め、目が点になるとブツブツ何かを言いながら俯き、そそくさと席に戻って行った。
「あれは、あれで納得がいかないわ……黒崎くん」
「ぇ?どう言う事かな?」
「もう、意地が悪いのか鈍感なのか…どっちなのよ……」
「僕は普通だと思うけど……」
ギョッとした表情の後ジト目で聖を睨めつけた穂花は軽く咳払いして「そろそろ授業よ」と居住まいを正す。
あぁ…六時限目は英語、新しい教師が来るんだったな……何故だ、無性に殺意が湧いてくる…嫌な予感しかしない……しかし、アイツは大学に通っていた筈、高校の教師になる事など––––––。
予鈴が鳴り教室の扉が開く、頭の薄い中年の男性がゆっくりと入って来る。
「えー今日は、皆さんにご紹介したい先生がいらっしゃいます。体調を崩されお辞めになられた谷村先生の後任が見つかるまで臨時で英語の担当を務めていただきます……ぁ、先生こちらへどうぞ」
一拍置いて、コツコツと甲高い靴音が響き、白銀の髪をなびかせ、黒のタイトなスーツに身を包んだ美女が悠然とその姿を現す。
人外の美貌を振りまくその美女を直視した生徒たちから淡いため息がこぼれ落ち、一人を除く全員の視線を釘付けに。そして美女は軽く腕を組み教室内を冷え切った琥珀色の双眸で一瞥する。
「先生…自己紹介を」
白銀の美女は中年の教師を完全に視界から追い出し、教室内の一点…窓際の席に座る一人の生徒に視線を留め。
先程までの冷え切った表情とは打って変わり喜色満面の表情で聖に釘付けになる。
リリアナ……絶対殺す。
怒り……ではなく寧ろ清々しい程、無機質な笑顔でリリアナに聖は微笑みかけ、その微笑みを受けたリリアナはそのまま硬直し、滝の様な汗を流す。
うわぁ…ひじり君めっちゃ怒ってるよぉ……あんな笑顔のひじり君はじめて見たよぉ……怖いよぉお。
でも、ここで負けちゃいけない!私も…ひじり君の世界に……
リリアナは湧き上がる歓喜を一度納め再び凍える様な視線を教室内に送る。リリアナの反応に殆どの生徒が困惑を示すなか、数名の視線がリリアナを睨みつけていた。
五十嵐穂花、桐崎恵里奈、紫龍院桜が他とは明らかに違う感情を孕んだ視線を教壇立つ美女へと向ける。
先程のリリアナと聖の無言のやり取りを見てただならぬ関係性を感じ取った彼女達は、敵意を顕に彼女を睨め付ける。
ただ、一人だけは少し違った感情で。
「貴女は、シリウス家の……何故この学校に」
徐に口を開いたのは桜だ、彼女は立ち上がりリリアナを睨む。
「……誰かと思えば、紫龍院の箱入り娘じゃない。別に貴女に用事はないから…」
おぉ、これは意外な展開だな…まさかそこが繋がるとは。しかし『シリウス家』どこかで聞いた……
「質問に応えてください、何故貴女がこの学園にいるのですか?」
「……応える義理はないわね、ただ、その理由に貴女は片鱗も関わっていないし、私はそこまで貴女に興味はないわ」
「私は…まだ、貴女を許して––––––」
「…必要ない」
リリアナはその双眸をぎらつかせ桜を推し黙らせた後「もう、いいかしら」と冷たくあしらった。
そのやりとりに周囲は唖然となり気まずい沈黙が教室を支配する。
「ぁ…ぁの、先生…そろそろ、自己紹介を……」
中年の教師が脂汗をハンカチで拭いながら恐る恐る声を掛け「そんな事は、あなたがしなさい」と何故か上から突き返され、困り果てた教師は渋々リリアナの名前や経歴、今後の関わりなどをざっくり話終えると早々に教室から立ち去る。
残された生徒とリリアナは重苦しい空気の中、しかしリリアナは先程からチラチラと聖の様子を伺っており。
聖はずっと無機質な笑顔をリリアナに向けている。
そんな空気を打ち破って一人の生徒が。
「リリアナ先生、ちょっとこの場で聞いてほしい事があるんですけど良いですか?」
手を挙げ仰々しく立ち上がったのは、写真部の山内。
「……許可していないわ、それに気安く呼ばないでくれる?」
もはや何をしに来たのか、全く教師として成り立っていない不遜な対応のリリアナとその視界に入っても居ない事に躊躇いを覚えながらも。
「最近、写真部のプリンターを勝手に使用してる人間がいる様なんですが、朝……黒崎が出入りしているのを見た人がいて」
リリアナの耳がピクッと反応し鋭い眼光で僅かに山内を一瞥する。
その鋭利さに山内は一瞬全身で怖気を感じたが、態度を崩さず喋り続けた。
「俺の知り合いが言うには、携帯で遠くから女子を隠し撮りしてる黒崎を見たって言う奴が何人もいるんっすよねぇ……そして、朝先生の後ろ姿とか、階段下からこっそり写真撮ってたらしくて……先生もそんな写真変な事に使われたら気持ち悪くないですか?」
一気に教室が騒めき、聖へと全員の視線が集中する中、恵里奈が勢いよく立ち上がり。
「あんたら…さっきの仕返しのつもり?良い加減にしときなよ?くろっちがそんな事するわけないでしょう?」
静かに怒りの感情を立ち上らせ、山内を睥睨する恵里奈。しかしそれを遮り鈴木が声を上げる。
「俺たちも黒崎のことは疑いたくねぇよ?でも目撃者がいる以上調べないとみんな安心できねぇよな?」
そう言いながら徐に立ち上がると、聖の席に近付き。
「良い加減にして、黒崎くんは絶対そんな事しない…あんたらがやっている事擦りつけてるだけでしょう?」
穂花が遮る様に立ちはだかるが。
「部外者は黙っててくんないかなぁ?それに、何もしてないなら堂々としとけば良いんじゃね?」
半ば強引に穂花を押し退けた鈴木は聖の顔を覗き込みその肩に手を乗せようとするが避けられバランスを崩す。
「あまり触らないでもらえるかな?嫌いなんだ」
「てっめぇ……机と鞄の中見せろ、何もしてねぇんだろ?」
「あぁ、良いよ…」
そう言うと席から距離を取ってその場を譲る、全員が固唾を吞んで見守る中、机の引き出しの下から数枚の写真が取り出され。
「これは、何かなぁ?黒崎くん?わざわざ先生の写真を印刷までしてナニするつもりだったのかなぁ?」
取り出した写真にはどうやって撮影したのか、中々に際どいアングルのリリアナが写り込んでいた。
なるほど、意趣返しと言うわけか……稚拙で雑な演出、まるで子供だな。状況を鑑みれば完全に悪手だが……
……やってくれた、俺に取っては今一番有効な攻撃だ。
「先生危なかったっすねぇ?俺らに感謝して下さいよ?危うく、変態くんのオカズにされちゃうとこでしたよ?」
リリアナは途中から俯き、その白銀に隠れて表情が見えない。
ここぞとばかりに鈴木は仰々しく写真を見せびらかせ追い討ちをかける。
「桐崎も五十嵐もこれでわかっただろ?こいつも男なんだよ?むっつりでキモいけどな?」
男子生徒は鼻の下を伸ばしてリリアナの写真を覗き、チラチラと本人を見比べている。女子生徒は悲鳴の様な声を漏らし口々に軽蔑の眼差しを聖に向け。
「ちょっと待って、くろっちじゃないから?!こいつらが仕込んだ事だって!桜ちゃんも手伝って」
恵里奈と穂花が立ちあがり必死に抗議の声を上げるが。
「えりな…証拠が出て来ちゃったんだもん…仕方がないんじゃないかな…残念だけど…でも、しっかり反省して、もうやらないって約束してもらえば皆んな許してくれるんじゃないかなぁ?」
「……桜ちゃん、なんで……」
恵里奈は悲壮な表情を浮かべ、その瞳に僅かな嫌悪を宿し桜を見つめる。そこにポツリと声が響いた。
「ひじり君が……私を…隠し撮り?」
俯いていたリリアナが両腕を抱きながら肩を震わせ––––––。
「先生?そうですよねぇ怖いっすよねぇ?なんなら俺たちが相談に––––」
「…邪魔」
震えるリリアナに飄々と声を掛けた鈴木を一蹴し、つかつかと聖の側に小走りで駆け寄ったリリアナ。
「ひじり君が、私を隠し撮りしてくれるなんてぇえ!お姉さん感激すぎて泣いちゃいそうだよぉ?」
リリアナの感情が沸点を超え、その溢れ出るパトスを全開に鼻息を荒げながら聖に詰め寄り。
「別に隠れて撮らなくたって良いのにぃ、ひじり君ならどんなポーズでもしちゃうよ?なんならコスプレでも、く……首輪でも良いよ?」
「せ、せんせい?」
周囲の生徒たちは何が起きているのか状況について行けず、皆一様に開いた口が塞がらない。
「こうかな?こんなポーズは?こんなのも……あぁ、ひじり君に見つめられながら写真を撮られる……イィ」
「リリアナ、落ち着け……」
低く小さな声でリリアナに耳打ちする聖。
やってくれた……状況が最悪だ、コイツが来たタイミングと言い、揉めたタイミングと言い……最悪な日だ。
ハッと我に返ったリリアナは周囲を見渡した後、ブリキのオモチャの様な動きで恐る恐る聖を見つめ……
泣いた––––。
ぶわっと目尻から涙が滝の様に流れ、祈る様に懺悔を繰り返している。
「ひじりくぅん、ごめんなざぃ、ごめぇんなさぁい……あとでいくらでもお仕置きして良いから……んんっ」
「なんでそんなに謝っているんですか?ヴォルコヴァ先生?」
「はうっ!?やめてぇ、ひじりくぅん、リリアナって呼んでぇえ、いやぁだよぉ」
「ヴォルコヴァ先生?皆んな困ってますよ?早く授業始めないと?」
「ごめぇんなぁさぁあいぃぃ……うぅ、ひっく……ごめんね、ひじり君」
はぁ、こいつは……あとで叱るとして、まずは修復か……
「リリアナ先生、早く立って皆んなに事情を説明してください」
ぐずぐずになったリリアナが顔を上げ聖を見つめる、軽く肩をすくめてやると途端に表情が明るくなり。
「うん!ありがとぅ、ひじり君…」と言いながら袖で涙を拭い立ち上がる。
子供か?一応二十歳だろ……
再び周囲の生徒に目をやったリリアナは「…何見てんの?」と不遜な物言いで生徒を威嚇したため。
「リリアナ先生?」と笑顔を向けてやる……
「はぅっ!……私はひじり君と最初から知り合いよ、それにひじり君は……私のダーリンだから」
「違いますよね?」
「ハィ……私の片思いです」
教室の雰囲気はもう完全にカオスと化していて。
「僕から説明するね、この方は僕が住んでいるマンションの隣に偶然住んでいるだけのただの変態……」
ふと視線を向けるとリリアナが悶え始めたので。
「隣に住んでいて、軽い顔見知りなんだけど……まぁこんな感じの人だから僕がわざわざ学校で写真を撮る理由がない事は…分かってもらえたかな?」
周囲が「あぁなるほど」と若干痛い視線をリリアナに向け、妙な説得力を得た所で鈴木と山内の顔が僅かに青ざめていく。
「くろっちぃ……あとでじぃっくりと聞かせてもらいたい事があるんだけど…良いかなぁ?」
「私も同感ね、先生との関係、詳しく知りたいわ……」
恵里奈と穂花がどす黒いオーラを漂わせながら眼をを光らせている。
そこに反応したのはリリアナで。
「……なに?あなた達、私のひじり君に指一本でも触れたら––––––」
「リリアナ先生は少し大人しくしていてくださいね?」
「はぃ……」
一言でショボンと縮こまるリリアナ、その妙な主従関係に恵里奈と穂花は眉を顰めるが女同士の『何か』が未だにリリアナとの間で火花を散らしている。
「まぁ……今は置いておくとしてぇ、あんた達やってくれたわね?」
恵里奈が鈴木と山内を睨め付け、リリアナが立ち上がり二人を睥睨する。
「……勢いで忘れちゃってたけど、あなた…私の後ろをずっとつけていた不細工なガキじゃない……」
そう言いながら山内を見下げるリリアナは、先程までの可愛らしさなど皆無…全身から放たれる獣の如きプレッシャーが山内の全身を硬直させ、ガタガタと震え始める。
おぉ、中々の殺気だ……なんでコイツはあんなチンピラに追い込まれていたのか……負けそうに無いけどな…
「まさか…ダーリンにあなた達ゴミ共の薄汚い行為をなすりつけようとしていたの?……」
おい、どさくさに紛れて呼称変えてんじゃねぇよ。
「先生?生徒をダーリンと呼ぶのは如何な物かと思いますが?それに教師は生徒に恋愛禁止ですよ?」
穂花がリリアナに向かって堂々と釘を刺す。
「……私は、正規の職員じゃないしダーリン以外の教師をやるつもりないの、あなたには関係のない話ね」
「あなた…何しにきたんですか…」
俺もそう思う、五十嵐…やはりまともなのはお前だけだ。
「……それも、あなたには関係ないわね」
どこまでも不遜な態度で取り合おうとしないリリアナに穂花は焦燥感を顕にする。
「ほのちゃん、今はこっちが先……あたし、ただで済ますつもりないから?」
山内と鈴木を今まで見せたことのない様な形相と双眸で恵里奈が射抜きその迫力に二人は萎縮する。
「皆んな、喧嘩は良くないよ!話し合おう?ねぇ、えりな?!なんか怖いよ?」
桜は恵里奈に詰め寄り、和解を訴えその場を取り繕おうと……
「桜ちゃん……どこまで……」
恵里奈は苦虫を潰した様な表情で歯噛みし、憂いを帯びた瞳を俯かせ。
「……ホント、どこまで愚かなのかしら…吐き気がするわね……」
リリアナが恵里奈の言葉を引き継ぐ様に桜へ吐き捨てる。
珍しく意見があったな……それは同感だ。
「どういう意味ですか!?部外者の貴方には関係ないでしょう!」
「……そうね、貴女の馬鹿さ加減があまりに滑稽だったものだから…つい」
リリアナ、結構それはあんたにも当てはまるからな?
睨み合う二人を余所に恵里奈が先んじて行動を起こす。
「他の男子ぃ、女子全員を敵にまわしたく無かったら山内の身体抑えちゃって」
「ちょっと、えりな?!そんな事––––––」
「桜ちゃん……罪を犯せば報いを受けるの…そんな事、子供でもわかってる……コイツらはやり過ぎたんだよ」
「えりな……」
男子生徒に取り押さえられた山内が癇癪を起こしながら叫んでいるが、抵抗も虚しく近寄ってきた恵里奈に携帯を押収され。
「鈴木と後藤も…グルだよね?皆んな?抑えちゃって……山内ィ…指借りるよ?」
「やめろぉお……お願いだ…やめてくれぇ…」
顔面蒼白になった山内がもがき必死に抵抗するが数人がかりで抑えられた身体はビクともせずに、指紋認証が仇となり携帯のロックは敢え無く解かれ。
「うわぁ……あたしの写真マジであるし…キモ……ほのちゃんとか…桜ちゃんに……更衣室まで?!」
「ぇ……マジで?超キモいんだけど?」
「男って最低……」
写真を見た女子が口々に嫌悪を示し蔑む様に三人を見ている。
「俺たちは違う……山内が勝手にやっただけで…」
「そう、そうだ俺たちは知らなかった」
しかし、その発言は余計に彼らの首を絞め……
「じゃぁ、あんた達の携帯も見せて?」
桐崎……もう別人だな、あれが本質に近いのか……
「そ、それは……」
三人は観念した様に消沈し、大袈裟な茶番は幕を閉じた。
それから、授業どころでは無くなったのは言うまでもなく。
騒ぎを聞きつけた教師陣にあらましの事情を説明後、この件は事件として扱われ、三人は教師に引き連れられていった。
恐らく、停学は免れないだろうな……下手したら退学もあり得る。
そして、生徒達も帰路に着き、騒ついていた教室も今は静けさを取り戻して…残っているのは俺と……ショボくれたリリアナ。
「リリアナ––––––」
「怒らないで……」
リリアナは琥珀色の双眸を潤ませ、しかし真剣な表情を聖に向ける。
「ひじり君が、嫌がる事を私がした事は…十分わかってる」
聖は、リリアナから紡がれる言葉に、ただ黙ってその耳を傾ける。
「……」
「ひじり君が、自分の作った世界を大切に守っている事……今は、わかる」
「––––––」
「理由は…まだわからないけど……でも、その大切な世界の意味が私にはわかる……」
「––––––」
「私にとっての世界は、あなただから……」
リリアナはポツリと呟く様にその想いを零す。
「あの時、あの瞬間から……私の世界はあなたなの……ひじり君以外の世界はもう、私にあり得ないの」
リリアナは決意をその瞳に宿し、無言のまま自身を見つめる群青色の双眸をしっかりと見据え。
「あなたと言う世界を失ってしまう人生がこの先にあるのだとしたら…私は間違いなく『死』を選ぶ」
その言葉には、覚悟と重みが滲んでいた。決して勢いではない、その場限りの言葉ではない事をリリアナの瞳が表情が如実に物語っていて。
「そして、叶うなら……私もあなたの世界に、居させて欲しい」
何故だか、わからない……ただ、コイツはいきなり俺の『箱の中に』現れて……土足で俺の生活を掻き回して…
でも、何故か今目の前にいる彼女が自分に対して抱いている感情が…暖かく心地いいと感じてしまう自分が居て。
手離したくないと……思ってしまった。
「ひじり君?」
気がつくと、一筋の雫がその頬を伝っていた。心が求めていた様に…飢え渇き、その感情を欲していた様に。
必死で今リリアナから注がれている感情を干からびていた心がその乾きを満たそうと––––––。
「俺は……」
やめろ、お前にそんな資格はない…
「俺は…ただ、守りたくて……」
お前はもう、戻れない…惑わされるな、お前は普通には生きれない
「くっ……」
胸が痛い…掻き毟られる様な痛みが……胸を締め付け、嗚咽を漏らし泣き叫びたい衝動に襲われ––––。
「大丈夫……怖くない……」
リリアナがそっと手を握っていた、その柔らかな手は俺の汚れた手を優しく包み…リリアナの心が流れ込んでくる様で……
「母が……生前よく口にしていた……『平穏に生きて欲しい』と『普通の幸せを掴んで欲しい』と」
「………」
リリアナは一瞬驚きに目を見開くが、聖を慈しむ様にそっと寄り添う。
「だが、両親を亡くした後…俺が強いられた生き方は……普通とは言い難いものだった……」
「……だからせめて、ひじり君の決めた範囲の中だけでも、お母さんの想いを叶えたかった…」
優しい声で彼女は俺の全てを理解しているかの様に、言葉の続きを語った。
「……だが、俺にはその『平穏な生き方』が何なのか…よくわかっていない……」
「それが…今のひじり君が作り出している『平穏な箱』……お母さんの想い描いたであろう自分と『普通』を強制的に体現する、ひじり君の世界……」
「………」
いつもとは違う、聡明な瞳で聖の思考にすんなりと入り込み、心を見透かされているかの様なリリアナの言動に目を丸くして、リリアナの瞳を覗き込む。
「……そんなひじり君の世界に入り込んだイレギュラー」
「それが……私」
彼女は琥珀色の双眸を細めて、微笑みかける……射し込んだ夕焼けに染まる白銀の髪、慈愛に満ちた彼女の笑顔は……とても、美しかった。
「お前は、一体……」
「私はただの哀れで醜い獣……だった」
「だけど、あなたが……私に世界を与えてくれた……あなたと言う世界を……」
「だから…今は、ひじり君のたった一人の特別になりたいと思っていて…誰よりもひじり君を特別だと思ってるただの女の子……かな」
満面の笑みで聖に想いを告げ、白銀色の髪をなびかせるリリアナ。それは聖の心を今までにない感覚で満たして行く。
どう言葉をかけて良いか分からなかった聖は僅かに逡巡し頬を描きながら。
「……子はないだろう?」
「ぇ?ぇええ?!ひじり君?今、聞き捨てならない事言った?言ったよねぇ?お姉さんも流石に怒っちゃうよ?」
「……そうなのか?…すまない」
「ぁれ?ぁれあれあれ?ひじり君?もしかしてデレちゃってる?お姉さんの魅力にやられてデレちゃってるのかなぁ?」
「………よく、分からないんだ…どう接するのが…人として…いや『俺』としてちゃんと、お前と向き合っているって事なのか……」
「ひ、ひじりくぅん……とりあえず…キスしとこっか?ねっ?それが今一番正しい対応だよ?」
「それが、絶対に違うことだけはわかるぞ?頼む、茶化さないでくれ……真剣なんだ…」
「んふふっ、今はそれだけで十分だよっ…ダーリンの気持ち私の中に沢山…届いてる……」
「ぁりがとうっ」
不意をついてリリアナは聖に抱きつく、しかし聖もそれを避けようとはしなかった。
腰に抱きつき頬擦りをするリリアナを何処か諦めた様な表情で、ただその瞳には僅かに温もりが宿って。
「まだ『ダーリン』になった覚えはないぞ?」
「大丈夫!これからお姉さんの魅力で私の事大好きって言わせてみせる」
彼女の想いに向き合いたいと感じてしまった。それは『あの日』以来、人生で初めて抱いた人間らしい感情かもしれない……忘却の彼方に消えていた…懐かしく、優しい感情……
「それはそれとして、今日の事……無かったことになるなんて…思ってないよな?」
「はぅうっ」
抱きついたままのリリアナ、その頭に手を置き僅かに力を込める。
「ぃやぁ……それはね?ダーリン…こうでもしないと、ダーリンは自分の世界を開いてくれないと言いますか…」
「そうか、そうか……でも勝手に乗り込んできて散々引っ掻き回した報いは受けてもらうぞ……」
「日曜日の約束……」
「だ、だぁありん?!それだけはぁ……ごめんなさい!!なんでもするからぁ!脱ぐ?今ここで脱ぐから!」
悲壮な表情で瞳を潤ませ縋り付きながら、いそいそとジャケットとスカートに手をかけ始める。
「脱ぐな……ったく、日曜日……駅前に出来たカフェで一番高いコーヒーを奢れ」
「だぁ…りん……」
琥珀色の瞳を震わせるリリアナの頭を軽く撫でる様に叩き
「帰るぞ」
「うん!へへへ」
「腕を組むな、後どさくさに紛れて呼び名を定着させてんじゃねぇ」
「ぃやだもーん、ひじり君は私のダーリンっ、えへへ」
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