豆と向き合え!

 放課後、校舎から窓の外を覗くと部活動に勤しむ学生達を夕焼けが照らし、その光景はまさに青春と呼ぶに相応しい眩しさと若い輝きを放っている。

人気の無い廊下は昼間の喧騒を忘れ、静まり返った空間に場違いな甲高いヒールと、上履きの擦れる足音が並んで歩いている。黒のタイトなスカートにジャケットを着こなす美女と叢雲学園の制服に身を包んだ男子生徒が一人。

状況を考えれば、単に教師と生徒が並んで歩いているだけの日常的な光景でもあるが、差し当たって問題とするならば……教師であるはずの女性が男子生徒へ、はち切れんばかりの胸を押し付けながら腕を組み縋り付いている様相であろう。

「ダーリン、ダァリンッ、今日は何食べたい?お姉さんが愛情込めて作っちゃうよぉ?……お姉さんの事も食べちゃって良いんだよ?」

「……どっちも腹壊しそうだからいい」

「もうっダァリンの意地悪っ!それに、後の方はそういう意味じゃないよぉ……」

「じゃぁどう言う意味だ?」

「ぇ……っと、そ、それは…その…男女のと言うか……その、ぇ…と……言わせないでよぉ」

急速に熱を帯びた顔を俯かせもじもじと口籠るリリアナ。

「それより、いい加減腕組むのやめろって…仮にも教師が生徒と腕組んで学校歩いたらダメだろ……」

「別にぃいもーん、私ダァリン以外どうでも良いしっ」

「そうか、じゃぁこの姿を誰かに撮影させて各種メディアにばら撒けばお前は学校に来れないな」

「ひゃうっ?!それは困るよぅ、私ダァリンから離れたら死んじゃう……」

「はぁ……俺のどこが良いんだか、全く理解できん」

「ぇえ?!ダァリン以外の生き物なんて存在する価値すらないよ?」 

リリアナは小首を傾げさも当然と言った表情で聖の横顔を覗き込む。

「買い被りすぎている上に、思想が危険すぎだ……だいたい、お前は大学生だろ?どうやってここに…」

「コネだよ?こう見えても私は優秀なのだょ、ひじりくん!大学行ってもする事ないしっ、一応建前は臨時の外国人講師って事だけど……私英語喋れないし」

全く悪怯れる事なく裏口採用を告白するリリアナ、挙句英語教師と言う設定には致命的な欠陥を暴露する。

聖は胡乱な眼差しでリリアナを一瞥すると。

「本当…何しに来たんだ……よく大学受かったな」

包み隠さず疑問をぶつけた。それに対して人差し指を唇に添え、すました表情で返答する。

「ダーリンに会いにだよ?んー、何でだろうね?」

全く回答になっていない応えを聞かされ。

「俺に聞かれてもな……」

「ダーリンは英語得意?」

「……ある程度はな、海外の論文や書籍に目を通すくらいには」

リリアナはキラキラした眼差しを聖に向け。もじもじと、あざとい上目遣いで。

「……ダーリンに教えて貰えたら…覚えられるかもぉ」

「……本末転倒だな」

話を聞けば、幼少期からの英才教育で英語以外は数カ国の言語を取得しているようで……しかし、英語だけは講師が気に食わなかったとかなんとか…それから苦手意識を持っている様だ。

バカなのか優秀なのか……紙一重って言うしな……

そんな何気無い会話を交わしながら、気が付けば下駄箱まで辿り着いていた。

「リリアナ、お前靴は……ってなんでヒール履いたままなんだよ」

「ぇ?なんで履き替えるの?」

「微妙な所で海外っぽさを出すな……」

こいつはどれだけ自由なんだ……コネか。

「ぁ?!私、荷物忘れちゃった!ロッカーの中だぁ……ダーリンっちょっとだけ…」

「先に帰ってるぞ?」

「待っててよぉ、帰る場所一緒なのにぃ……急いで取ってくるから!待ってて?!絶対だからね!」

言いながらリリアナは猛烈な勢いで走り去っていった。

「……騒がしいやつだな」

「あれでいて、元々内気で謙虚な子なんじゃよ……」

不意に背後から貫禄のある老人のような囁きが聖に語りかける。

「理事長先生?明らかに玄人な感じで気配を消して近寄るのやめてくれませんかね?」

「気づいとったじゃろうに、しかしあんなリリアナちゃんを見るのは初めてじゃ……」

遠い目をして、リリアナの後ろ姿を見つめる老人は白髪をオールバックにまとめ、小綺麗なスーツを身にまとい彫りの深い顔立ちに鷲のような眼光。口元に蓄えた白髭はきちんと整えられ品がある。

老人と呼ぶには些かダンディな面持ちの男性、叢雲学園理事長『柳生やぎゅう聖十郎せいじゅうろう』その人である。

「そんな事はどうでも良いですが、貴方と浅からぬ関係の人が、偶然……僕の隣の部屋に住んでいるのはどう言う事でしょうね?」

群青の双眸が鋭く聖十郎の真意を覗き込むように、その視線を油断無く突き付ける。

「そうじゃのぅ『事実は小説よりも奇なり』とはよく言ったものじゃ……」

そんな聖に肩を竦めながら戯けた様子で応え。

「はぁ、全ては貴方の思惑通りって事ですね…そろそろそのジジイキャラ辞めませんか?顔と合っていないので」

聖もまた諦めた様子で肩を落とす。この人物から真意を聞き出すなど、時間がいくらあったとしても足りない。

「これでも気に入っておるんじゃが……確かにな、我らと『シリウス家』は持ちつ持たれつの関係……」

「しかし、彼女がこうもお前に懐くとはのぅ、やはり…同じ傷を抱える者同士…惹かれ合うものがあるのやもしれんな……」

片目を瞑り、思わせ振りな口調で独り言ちる。

「………」

「理由は訪ねんのか?」

「だいたい察しはつきます……僕の周りにちょいちょい要人を混ぜるの辞めてもらえませんかね……」

僅かに溜息混じりに聖は苦言を呈しながら自らの額に手をやり。

「偶然じゃっ偶然」

笑みを零しながら聖を楽しげに見遣る聖十郎に視線を向け再度溜息を吐く。

「それで…こんな所でわざわざ接触してきたんだ、世間話ってわけじゃないでしょう……」

そう、問い掛けたのち背を向けた聖十郎は先程までと様相を一変させ。

「…学園に間者が紛れておるようじゃ……」

静かに呟いたその音は誰もいないこの空間にはやけに明瞭に響いて。

「…………」

「我らは敵も多い…そんな事は百も承知じゃが、この学園……その本質を知る者となると…」

聖十郎は背を向けたまま静かに…しかし纏っている気迫は常人のそれでは無く。

「この学園に集う子供達はな……皆ワシの可愛い子供の様なものじゃ……」

「……だから、俺に『消せ』と?」

その眼光がさらに鋭く光り、聖十郎の背を力強く睨め付けると、僅かに視線を逸らし遠くを見つめる。

「僕も、その『可愛い子供たち』って枠には入れてもらえないんですかね?」

「勿論入っとるよ?じゃがお前は『特別』……首尾よく頼むぞぃ」

そう言いながら振り返る事なく、聖十郎はその足を進め。

「本当…喰えない人ですね……」

視線を下ろし、廊下の柱へ項垂れる様に背を預ける聖。

「あとの……リリアナちゃん明日から正式に非常勤講師じゃから、宜しくのぅ」

不意に足を止めた聖十郎はそう言い残すと、片手を挙げ手の甲をひらひらと振りその場から去っていった。

「あんたらの採用基準…どうなってんだ……」

聖十郎がその場を後にすると、入れ違いにリリアナが息を切らしながら舞い戻ってきた。

「だ、ダァりん……まってて…くれて、ありがとう」

額の汗を拭い肩で息をするリリアナの頭を不意にポンポンと撫で付け。無言で下駄箱に向かい靴へと履き替える。

特に意識したわけでは無いのだが、リリアナの頭を撫でる事になんの躊躇いも無くなっている自分に気が付き。

桐崎恵里奈に対しての行いとは明らかに違う種類の感情だった。

無意識の行動に自身の手をジッと見つめ逡巡する……そんな感慨に耽っている聖を余所に、予想だにしていない不意打ちを喰らい頭を両手で抑えながら赤面しグルグルと目を回すリリアナ。

「だ、だだだだだっだだ……だぁりん?い、いまのは……」

「深い意味はない……目の前に息を切らして犬が寄ってきたら撫でるだろ?」

「イヌっ?!言うに事欠いて、こんなびゅーちふるなお姉さんを…イヌ扱い……んんっ」

そこから暫く悶えるリリアナとの不毛な問答はあったが、今はしがみ付いてくるリリアナを牽制しながら遊歩道を歩く。帰り慣れた道のりを、しかしいつもと違う帰り道に心が揺らぐのを感じ……

「………」

不意に立ち止まる。

「どうしたの?ダーリン?」

見た目の凜とした雰囲気にそぐわない愛嬌のある表情と声音で小首を傾げながら問い掛ける。

人通りの多い道から少しそれた遊歩道、人工的に作られた雑木林が街道を飾り、奥に進めば放課後の子供達で賑わう公園。しかし夜が深ければ人通りも少なく死角も多い、例え凄惨な事件が起きたとしても朝の通勤時間までは誰も気付き得ない。

「ここ……そっか、ダァリンが私を……ぁ、倒れていた私を助けてくれた場所だね」

リリアナは憂いを帯びた瞳を僅かに揺らめかせ、俯き再度目を細め柔らかな笑顔を聖に向ける。

「––––––」

その表情は、他者を寄せ付けない美貌と心を凍てつかせる表情ではなく、外見からは想像も出来ない明るさと空回りを繰り返す『聖の前だけのリリアナ』とも違っていて……

教室で見せた、彼女の本質…全てを悟った様に澄んだ琥珀色の瞳に宿る光りは何処か儚さを孕んで、その雪解けの氷の様に透き通った肌に触れれば、粉々に砕け散ってしまいそうな脆さと危うさを感じさせる。

「リリアナ……なんで、お前は…あの時––––––」

「––––––行こう?ダァリン」

彼女は言葉を遮り、笑顔で返すと前に向き直り歩き始めた。中途半端に揺れ、リリアナと言う存在に半ば『どの自分』で対応したら良いのか…未だに『平穏の箱』を…見透かされているものを手放そうとしない俺を……

彼女は……守ろうとしていると…ただ、そう感じた。

「リリアナ……平穏って……何なんだ……母は…母さんは、俺に…どう生きて欲しかったんだろうか…」

立ち尽くしたまま、縋るようにリリアナを見つめ…今まで誰にも晒す事が出来なかった弱さを、会ってまだ間もない…しかし誰よりも鮮烈に聖の心に突然入り込んできた『白銀の狼』彼女は何者なのか。分かっている事は彼女が普通の人間ではない…と言う事。そして……聖の知る限り、その人生を持って初めて『美しい』と感じた存在である事…その本質を知って尚不思議と感情は揺らがなかった、いや、寧ろ…『あの姿』を見たからこそ、その『美しさ』に自分自身が魅了されてしまった事。

だが、聖はその事に触れる事なくリリアナと接してきた。自分の『弱さ』を守るために。

母の望んだ生き方に……『平穏』でなければならない『異常』が有ってはならない、そうする事で自身が『異常』である事から目を背け、亡き母の望んだ姿でいる事が唯一母と繋がれる場所……それは聖の『妄執』であり。

「わからないよ、ひじり君……私には、その答えはわからない」

リリアナは静かに消え入りそうな声で呟いた。

「私ね、小さい頃に両親を亡くしてるの……ひじり君と一緒。だから教室で…その話を聞いた時、びっくりしちゃった……だけど、そんなひじり君を見て……安心してる自分がいた……最低…だよね」

ゆっくりと視線を上げたリリアナはその琥珀色の瞳を震わせ、僅かに色の抜け落ちたような表情で。

「私には、お父さんとお母さんの…記憶がない」

それは、リリアナの奥深くに燻っていた救いを求める呼び声のようで。

「気が付いた時には、おじさんの家に引き取られて……ただ、その頃の私は『血』の制御が出来なくて……沢山の人を傷つけて……おじさんは、手を尽くして私の『存在』を世間から守ってくれた…明るみにならないよう」

悲鳴をあげていた感情が手を伸ばし助けを求めるように。

「ぁ、おじさんは『普通』なんだけどね……私はずっと、独りだった。だから…ひじり君が私に言ってくれた事とても嬉しかった」

今まで蓋をしてきた感情はゆっくりと溢れ。

「……だけど、私にはお母さんとの『約束』があるひじり君がちょっと羨ましい」

その瞳は、いつもの輝きを無くし……ひどく無機質で、哀しくて、忘れ去られた人形のような。

「私は…生まれた時から……『普通』じゃないから……『平穏』じゃないから…ごめんなさい」

そう言い残し、リリアナは走り去っていった。その背中をただ見つめる事しかできずに……

「俺は……馬鹿か––––––」

分かっていたはずだ……彼女は『普通』では無いのだ、そんな彼女の人生が『平穏』であるはずがない。

あいつは、俺と変わらない……俺以上に––––––。

他人に興味を無くす事で、自ら関わる事を断ち、人との関係を避けてきたんだ…傷付けない為に……リリアナは。

「なあ……お前は、どんな気持ちで俺に接していたんだ……」

どれだけ…怖かった?どれだけ…勇気が必要だった?その表情の奥は……どれだけ泣きそうだったんだ。

「なんで……笑ってんだよ、なんで…自分より俺を助けようとしてんだよっ、いきなり現れて……人の『箱』ぶち壊して……なんで、なんで……俺は泣いてんだよ」

気が付けば、溢れ出した感情はその双眸からこぼれ落ちていた。理由などわからない…ただ止め処なく溢れてくる行き場のない感情が枯れる事なくその瞳から流れ、頬を伝う。

「チッ、ダセェ……」

これじゃ、悲劇のヒロインだな……俺はただ自分の事で自己憐憫に浸っていただけ……あいつの方がよっぽど。

身体は真っ直ぐにリリアナの後を追いかけていた、地を蹴りその一歩一歩に自身への不甲斐なさ、滑稽さを踏みしめる。身を削りながら…恐怖に震えながら、自分に歩み寄ろうとしたその想いを、保身の為、弱さの為、無かった事にしようとした自分に恥を感じ、力強くその足を急がせた。

「この気持ちを無くしたら……それは『平穏』な生き方とは違うよな……母さん」

『お前の正体がバレてもか?』

「………」

『誰もお前なんか受け入れないさ……』

「うるせぇ……」

『お前に平穏なんかあり得ない…あいつもお前を傷つける』

「黙れ、あいつが…必死に戦ってんのに…俺だけ逃げられるかよ」

『………』

脳裏に過る思考を強引に頭の隅へ追いやり、今はただ…走った––––––。


初めて訪れる部屋、扉の取っ手に汗ばんだ手を置きゆっくりと扉を引く…ガチャっと他者の侵入を拒む音が響き、これ以上踏み込む事を拒絶される。

玄関横に設置されたインターホンに指をかける…その音だけが空しく木霊し、何事も無かったかのように再び静寂が訪れ。

「いつもは、呼ばなくても来るくせに……帰っていないのか?」

嘆息し僅かに肩を落としながら、自室の扉に手を掛ける。無意識に引いた扉は主人を拒絶する事なく受け入れ。

「––––––」

閑散とした室内に足を踏み入れる、無駄な物を一切受け入れない空間……生活感を感じさせない、黒を基調とした寂しさの漂う部屋。

灯りを付けなくてもわかる、慣れ親しんだ廊下を進み迷う事なく寝室へと向かう。

僅かにシーツの盛り上がったベッドに浅く腰掛け……

「普通……こういう時は自分の部屋に閉じこもるものじゃないか?」

その普通では無い様相に何処か安堵し、優しさを孕んだ声色で語りかけた。

「………」

「…お前は『普通』じゃ無かったな……」

「––––––」

「俺も……『普通』じゃ無い」

絞り出すように言葉を紡ぐ聖に、シーツから僅かに顔を覗かせたリリアナはその表情を見て瞠目する。

「––––––ひじり君」

「さっきは、悪かった……俺は、好意を寄せてくれるお前に…心地良さに、甘えていた……お前の想いを、心を自分勝手に無かった事にしようとして……悪かった」

「そんな事ない、ひじり君は何も悪く––––––」

弱々しく言葉を発するリリアナを遮り……無意識に、しかし心の望むまま、そっと…華奢な身体を抱き寄せ。

「もういい……もう……いいんだ」

「ひじり……くん…私…ごめんなさい……ひじり君の大切な…世界だったのに……私が関わったから……でも、私…初めて独りじゃなくなれた気がして……ひじり君の世界に入れなくなるのが…怖くて……だけど私…『普通』じゃないから……自分勝手で…ごめんなさい……独りじゃない暖かさを…温もりを…知っちゃダメだって…私にそんな権利…無いって…分かってたのに……あなたを失いたく無いって……」

白銀の髪を揺らし泣き噦るリリアナの姿は、まるで泣き方を忘れていた子供のようで……

彼女は、人を拒絶する事で守ってきたんだ、『自分』と言う存在から相手を。

孤独に生きることで、人を傷つけないように……

『あの時』も彼女は傷付けたくなかった…どんな相手であれ、自分の中の獣が人を傷付ける事より自身が傷めつけられる方を迷わず選ぶ……

「どんだけ……不器用なんだよ」

孤高に…孤独に…生きてきたリリアナの心に俺は『身勝手な優しさ』を与えてしまった……何の覚悟もなく自分の世界…何も起きない『平穏』という妄執の為に……

「俺がお前にとっての、イレギュラーだったわけだ……」

「リリアナ……」

「はい……」

「俺は、お前と向き合いたいと言った……だけどアレは自分の世界…『平穏』に生きる為に必要だと思ったから…自分の事だけの言葉だった」

「……ひじり君、私は––––」

リリアナが言い終える前に、互いの瞳を交差させ…琥珀色の双眸に映り込んだ自分を見据え。

「今は、お前の事…もっと知りたいと思ってる、本当の意味で向き合いたい……その為に、俺の事も––––––」

リリアナの人差し指が優しく触れ、聖の言葉を遮る。そして彼女は目を柔らかく細め慈愛に満ちた表情で微笑む。

「大丈夫だよ、私…ひじり君が何者でも、どれだけ酷い事してきたとしても…私は全部受け入れる……だって私にとって…ひじり君は…私の全てだから……だから、怖がらないで?私は、どんなひじり君でも愛せるから」

「それでも、どうしてもひじり君が言わなきゃ苦しい時は…ちゃんと聞かせて?」

『––––––』

永い呪縛から解かれていくようだった……心に絡みつき錆びついた鎖がゆっくり溶かされ、黒く澱んだ水面に落ちた一雫の波紋が広がり清らかな水へと変わっていく。

手が汚れていた……黒く染まり、異臭を放ち…触れるものを腐敗させる……何度も洗って、何度も何度も何度も…何度洗っても、両の手にこびり付いた汚れは落ちる事なく……皮膚は避け血が滴っても洗って…洗って…

洗わなきゃ……両手から腐っていく……少しでも、洗わなきゃ……もっと強く…もっと強く……

洗わなきゃ、洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ洗わなきゃ––––––。

……汚い、臭い……辛い…誰か……助けて…

「綺麗な手……私を包んでくれた…助けてくれた……優しい手」

「………ぁ」

「私の…大好きな手」

震える両手を柔らかく小さな温もりがそっと包み込む……悍ましい呪詛が取り払われて……

「リリアナ……俺の手は……」

「うん、私の大好きなダァリンの手だよ?柔らかくて…優しい…綺麗な手」

込み上げてくる、幼い頃から閉じ込めていた…消し去っていた感情が溢れ出して…溢れ出して……

滂沱の涙が頬を伝い、抱きしめたリリアナの頬を伝い、二人の雫が重なり合う。

互いの世界を埋めていく様に、互いの心を洗い流す様に……

「私たち、泣いてばっかりだね?」

リリアナが屈託のない笑みを溢して微笑みかける。

「あぁ……ほんとだな……初めてだ…こんな涙を流したのは」

「ダァリンの初体験…もらっちゃった……」

悪戯に微笑むリリアナの表情に鼓動が高鳴る……熱を帯びた瞳が視線を外す事を拒絶して––––。

「ついでに……こっちの初体験も……」

月夜に照らされた白銀の髪は透き通る様に輝き揺れる。二人の唇がそっと優しく触れ合い……それはほんの一瞬しかし、二人の時は静止した様に永く緩やかに……温もりを交換し合った––––––。

二人は見つめ合い、同時に自身の唇に手を触れ……リリアナは恥じらいに頬を染め、聖はひたすらに瞠目する。

「ついでって…お前」

「じょ、じょうだんだよ…こっちが本命……また、止められると思ったけど……」

リリアナは赤顔して目を回しながら、ただ噛みしめる様に唇に触れ。

「止められなかった……綺麗で…見とれてしまって……」

頬を掻きながら、僅かに視線をそらす聖。

「き、きれいって…そんな…ふ、ふつうに言われたら…わ、わた、わたし……ぷしゅうぅ」

リリアナは許容量を超えショートした。

「おい、リリアナ?おい、大丈夫か??おーい」

よだれを垂らしニヤケ顔で倒れるリリアナに柔らかい視線を向け、今はただこの穏やかな時間を楽しむ聖だった。


時は少し遡り、放課後の校舎を後に並んで下校する二人の姿。

「今日は色々あったねぇ、えりな凄い迫力なんだもんっびっくりしちゃった」

「桜ちゃんは甘やかしすぎなんだよっ男なんて、変態でバカばっかりなんだから」

眉根を寄せる恵里奈に「まぁまぁ」と声をかけながら二人は歩き慣れた道を進む。

「…黒崎くんも、そうなのかなぁ……」

顎に指を添え思案顔の桜を横目でチラリと覗き、僅かに頬を染め。

「くろっちは別物……他の男とは違う生き物だと思う」

栗色の瞳を深緑の双眸が覗きこみ……

「えりなは、本当に友達思いだねっ、ありがとう」

「そう……だね」

恵里奈は俯き、ため息混じりにその視線を隣でニコニコと笑い続ける友人へと向け。

「桜ちゃん……迎えの車だよ?どうせなら学校まで送り迎えしてもらったらいいのに」

「学校まで行っちゃうと皆んなに気を使わせちゃうし……えりなと一緒に歩いて登校したいの」

「そっか……そうだね、桜ちゃん…また明日ね」

迎えの車から運転手が降り立ち仰々しくドアを開け。

「お帰りなさいませ、お嬢様……」

「うん。えりな、わざわざ遠回りしてくれていつも有難う、気をつけて帰ってね」

手を振り桜を乗せた高級車が走り去るのを見届け……立ち尽くす恵里奈。

「一緒に…登校したい…か……」

感情の薄れた栗色の双眸で虚空を見つめ、再び歩き出す。その背中にねっとりとした視線を浴びながら。

閑静な住宅街を通り抜け、人通りの少ない路地から凡そ女子高生が一人で帰るには危ぶまれる様な道を通り、人気の無い高架下へと出る。

「そろそろ、出てきなよ……後ろから女子高生つけるとか、まじでキモいんだけど……」

それは普段とは比べ物にならない程色褪せた声色、静かで低いトーンで背後を振り返り。

「なんだよ、気づいてたのか……お前、なんでこんな所に…」

物陰から出てきた人物を小柄な恵里奈が見上げる。筋肉質で大柄な体躯の男…三人組の一人…後藤だ。

「なんでって、あんたがコソコソつけてくるから出て来やすい場所にわざわざ来てやったのよ……」

普段の恵里奈との変貌ぶりに若干たじろぐが、気を持ち直して言葉を続ける。

「学校での事だけどよ、あれは誤解なんだ」

「……ぁ?別にどっちでも良いんだけど……」

冷え切った視線で後藤を睥睨し、気怠そうな表情で佇んでいる恵里奈に後藤は焦燥を募らせ。

「なんだよ、その態度……黒崎なんかの話真に受けんのかよ?!俺は……ずっとお前の事が––––––」

「はっ、笑える……お前がくろっちと並べるわけ無いじゃん…あたし、自分より弱い男に興味ないから」

恵里奈は後藤の言葉を遮り、一蹴する。そして興味が無いと言った態度でその場を去ろうと––––––。

「さっきから、調子に乗りやがって…黒崎みてェなモヤシ野郎に俺が負けるかよ……お前より強けりゃ良いんだな?その後どうなっても後悔するなよ?お前が言ったんだからなぁあ」

大柄な体躯が華奢な両肩を鷲掴みにし、私欲の限り少女を蹂躙するべくそのまま地面に押し倒し––––––。

「……ゴミ屑が」

下顎に強烈な衝撃が走り大柄な体躯が仰け反る。

「がぐっ」

後藤の下顎を穿ったのは、その細く華奢な足から繰り出されたとは思えない程鋭い膝蹴り。

「あんたがくろっちに勝つ?ホント…笑える」

よろける後藤を一瞥し吐き捨てた恵里奈は身をよじらせながら、その小柄な身体を宙に浮かせ遠心力を存分に加えた回転蹴りを後藤の顎めがけて撃ち放つ。

瞬間、後藤の脳内は走馬灯が駆け巡る様にゆっくりと時間が流れ次の瞬間に自身を襲う逃れ得ない衝撃と同時に恋い焦がれた少女が蹴りを繰り出す瞬間にはためくスカートの奥深く。

『水色…ストライプ……』

メキョっと鈍い音が響き後藤の下顎が粉砕され、福眼と地獄を同時に味わいながら後藤はその場に崩れ落ちた。

風になびく赤毛を耳に掛けながら崩れ落ちた後藤を感情の無い瞳で見下げ

「くろっちは……誰にも渡さない…誰にも……」


鼻腔を擽る香ばしく奥深い薫りが部屋一面に漂い、リリアナは目を覚ます。

「ふぁっ、良い匂い……ダァリン?」

周囲を見渡すが愛しの彼は見当たらず、寝惚け眼を擦りながら香しい匂いに誘われ徐にキッチンへと足を運び。

「……起きたか、まあ座ってくれ…お前に飲んでもらいたい」

聖はキッチン越しのカウンターに座る様促し、手元に置いた白いカップにゆっくりと香り立つ珈琲を注ぎ。

そっとリリアナの前に差し出す。

「これが、珈琲だ……」

「ダァリンが淹れてくれたの?!私の為に……このまま持って帰って飾っても良いかな……」

「やめろ…折角の珈琲が台無しだ、それに……いつでも淹れてやるから…」

「ぅうっ…ダァリンっお姉さんは、もう死んでも良いかもしれない……」

「大袈裟だ……とにかく…冷める前に飲んでくれ」

「……では、いただきます」

そっと柔らかい唇がカップに触れ芳ばしい薫りと奥深い味わいが口いっぱいに広がる。

「––––––美味しい?!」

「なにこれ?!私、苦いからコーヒー嫌いなのに…でも折角ダァリンが淹れてくれたから…頑張って飲もうと…なのに、本当に美味しい…」

「さらっと健気だな……」

瞠目して不思議そうに聖の注いだ珈琲を見つめた後、再度カップに口を付けその奥深い味わいと余韻に浸る。

「珈琲は豆の種類、焙煎…水によって味が変わる……豆を知り、向き合い、適切な方法で処理をすれば、どんな豆でも味わい深くなる」

「ダァリンはコーヒーが好きなんだねっ私…ダァリンに…美味しいって言って貰えるコーヒー淹れられるようになりたいな…」

「珈琲を飲んでる時だけは、本当の自分で居られる気がしてな…儀式みたいなもんだよ……」

「リリアナ……俺はお前の事が本当に『好き』なのかそれがどういう感情なのか、まだわからない……」

静かな沈黙、俯いて語る聖をリリアナは優しく見つめながら何も言う事なく、ただ耳をその声に傾け。

「だが、お前を失いたいとも…思わない。出来るなら……一緒に居たいと、感じている」

「その珈琲は、リリアナの好みを想像して俺なりに…ブレンドしてみた……」

不器用に目を泳がせ、ただそれは聖なりのリリアナを知る為の一歩……

「ぁりがとう……ありがとう……ダァリン」

リリアナは大切なものを胸の奥にしまう様に両手を添え、聖の不器用な想いをしっかりとその胸の内に刻み込む。

「ただ…その……ダーリンって言われるのはまだ慣れないと言うか…」

「ダァリンが照れてるぅ……お姉さん鼻血出そうだよ!」

「そう言うんじゃなくてだな……もう少し時間をかけてお互いを……」

「ダァリンったら意外と堅実?嬉しいけど……でも…キス…しちゃったよ?」

リリアナは頬を赤らめ気恥ずかしそうに……もじもじと呟く。

「キス?……あぁ、あれは事故とは言え危なかったな」

「へ?」

「口の中には何億という細菌の温床となっている…危うく互いの口が接触して未知の細菌が干渉してしまう所だったな……お互いの細菌に免疫があるとは限らないからな…以後は俺も気をつける……ぁ、念の為お前の口も洗浄と簡単なブラッシングしておいたぞ」

深刻な表情でブツブツと独り言ち、やけに白い歯を輝かせ…グッとサムズアップ。

「ぇぇ……ぇえええええええぇ?!」

リリアナは自身が如何に険しい道を選んだのか気が付き……とりあえず泣いた。

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