「潔癖と美女と狼」それと不味いコーヒーの恋話

シロノクマ

ニボシのコーヒー


 閑散とした部屋、無駄な物を一切置いていない1LDKは男子高校生の一人暮らしにして、余りにもスタイリッシュな空間。異質な…とも言うべきか––––。

光が高層マンションの窓際から差し込み、街中の喧騒も届かない最上階の一室に朝の訪れを知らせている。

まだ夜が明け手間もない静寂な空間に、けたたましく鳴り響くインターホンの音。フロントのベルでは無く玄関のベルを直接鳴らしている音だ……

なんのためらいも無く玄関に赴き、確認もせず扉を開くと––––––。

開いた扉の先から流れ込んで来る柔らかい香り、諄すぎない香水と女性特有の色香…思春期男子の妄想を掻き立てる芳香が部屋中を満たしていく。

そんな大人の香りを身に纏い佇んでいるのは、夢幻かとしか言い表せない絶世の美女。

背中まで伸ばした白銀のロングヘアーに琥珀色の双眸、少しきつめの印象を与える顔付きはその美しさをより一層引き立て、彫刻の様に通った鼻筋、薄い唇から覗く犬歯が妙な色気を放っている。

驚くほど透き通った肌はまるで生気を感じさせないほど……人外の美貌と評しても過言ではないだろう。

黒のタイトスカートから伸びる脚線美、華奢な身体に似合わない双丘がジャケットの間から存在を主張している。

そんな人外の美貌を早朝から玄関先で撒き散らしている女性は、徐に両手に持っていたトレーを差し出す。

トレーの上にはまだ淹れたばかりのコーヒーとサンドイッチらしきものが載せられ、よく見ると差し出した両手は至る所に絆創膏が貼られており、指先には痛々しい傷跡が多数。

トレーを差し出した女性はその白い頬を真っ赤に染め、美しい外見からは想像もつかない様な可愛らしい表情で恥じらいながら俯き、琥珀色の双眸を男性にとって非常に凶悪な上目遣いでチラリと伺う様に見上げてくる。

外見的な美しさとのギャップがとても可愛らしい。

女性は恥じらう様に潤んだ唇を震わせながら––––––。

「ひじり君、あのね…朝ごはん作ったんだけど、いつも朝食べてないみたいだったから…一緒にどうかな?」

「リリアナさん、朝…早いですね、まだ…五時ですよ?」

「う、うん、そうなの!私、朝とっても早くて…迷惑……だよね」

「何時から頑張ったんですか?」

「ぇ……っと、十二時くらいから……」

「ほぼ徹夜ですね……」

「えへへ、でも平気だよ?私ひじり君よりお姉さんだから!」

「リリアナさん……全然無理しなくていいですよ?」

「全然無理してないから大丈夫!私元々夜行性だし、それに…ぇと、私の事はリリィって呼んでくれたら嬉しいな…」

リリアナは熱を帯びた双眸でひじりの瞳を見つめる。

「……リリアナさん、とりあえず手…処置するんで中にどうぞ」

「あはぁ、完璧にスルーする、ひじり君も……イィ」

死んだ魚の様な視線をリリアナに送りながらも渋々部屋に案内する。

「全く、何したらこんなにボロボロになるんですか……」

継ぎ接ぎに貼られた絆創膏を剥がし手際よくリリアナの両手に処置を施す。手に触れている間リリアナは耳まで赤くした顔を俯かせ石化した様に硬直していた。

「ありがとう、ひじり君……私一生この包帯外さない……」

「明日には回収します…」

「嫌、絶対いやぁ!これはもう私の!」

「意味がわかりませんし、執着が怖いです」

「年上をいじめちゃいけないんだよ!でも、ドライなひじり君も……イィ」

「はぁ……ごはん食べたら帰って下さいね」

「えぇー!隣だし、このフロア私たち以外住んでないんだからどっちに居ても一緒––––」

「違いますね、普通に帰って下さい」

「ひじり君の意地悪……せっかく一生懸命ごはん作ったのに……」

「……わかりました、僕が学校に行くまでですよ?」

「はい、わかりましたぁ!ねぇ、ひじり君が良ければ…ずっと一緒でも…」

「嫌です」

「はぁあっ、即答……イィ、私……ひじり君になら……何されてもイィよ?」

「じゃぁ、早々にご帰宅頂けますか?」

「くぅうっ……こんなお姉さんの誘惑を足蹴にするなんて……イィ」

なぜ、こんな事になったのか……隣に住む美女『リリアナ・ヴォルコヴァ』ことリリアナは、何故か俺……『黒崎くろさきひじり』に懐いてしまった……リリアナはかなり美人だ、普通の男子高校生なら夢の様な展開に違いない。ただ俺は普通の高校生…というにはちょっと『アレ』かも知れない…まぁ、その辺りは今置いておく。

話を戻すが、今眼前で淡い吐息を吐きながら身悶えし無駄に色気を垂れ流している美女リリアナに俺は懐かれている。誤解しないで頂きたいのだが、女性に興味がない訳ではない…側から見ればどう考えても『据え膳』なこの状況、しかも超絶と言っても過言ではない美人で大人の女性にここまで言い寄られて、悪い気がする男は居ないだろう……ただ、それを彼女の『本質』と俺の『真実』が良しとしてくれない。

後ついでに言うと、隣に住んでいる美人な大人のお姉さんと称するには、リリアナは余りにも…『残念』だった。

「リリアナさん……これは?」

「ん?サンドイッチだよ?……ぁ、ごめん!……ぁーん、して欲しいのかな…」

「不要です、サンドイッチって何か知ってます?」

「ぇ?ひじり君…お姉さんをちょっと馬鹿にしすぎじゃないかな?大好きな物の間に好きな物を挟んで食べるのがサンドイッチ––––っはぁう…もしかして……ひじり君も挟まれたいのかな……お姉さんの––––」

「肉をホワイトチョコに浸して白くしたのか……間に肉挟んで…もうただの肉塊ですよ?間に挟んである肉…生だし」

リリアナは豊満な胸元を両手で寄せ、何事か思案した後で急速に林檎の様な顔色になり頭から湯気を立てている。

頭を軽くふるい、上目遣いでひじりを見つめながら甘える様に言った。

「ねぇ…ひじり君?……何で口調が余所余所しいの?なんか他人みたいで…さみしいなぁ…『僕』なんて似合わないよ?」

「話、聞いてないですね……他人です。それに目上の方へ敬意を払うのは当然でしょう?」

「またまたぁ、照れてるのかな?お姉さんの魅力にハマりそうなのかなぁ?……あの時のひじり君、ワイルドでカッコ良かったよ?」

「乱暴なのがお望みなら、今すぐ叩き出してやろうか?」

「んはぁっ……容赦ないひじり君も…イィ……私はどっちのひじり君も…すきだょ」

一瞬悶えたが、すぐに向き直り琥珀色の双眸を泳がせ、恥じらいながらも想いをこぼす。

「……好きとか、僕にはよく分からないので」

ひじりはため息交じりに言い捨てると、コーヒーのカップを手に取りゆっくりと口に近づける……

「私が……教えてあげる…ひじり君に、人を好きになる気持ち……きっと、私––––––」

「ぶボォあ…」

リリアナがその想いを絞り出す様に、伏せていた双眸に決意を込めてひじりを見据えた瞬間、彼の半開きの口から黒い雫がダラダラと垂れ流され……

「リリアナ……何入れた?」

「身体にいいかなぁ、と思って……ニボシを少々コーヒーで煮詰めてみました…てへ」

両手を口元にやり小首を傾げ「呼び捨て…キャァ」と悶える襟首を掴みズルズルと引きずって玄関を開きロビーへポイっと放った後扉を閉め施錠。

「ひぃじりくぅん!酷いよぉー開けてよー」

ドンドンと扉を叩く音が部屋に響くが、もう十分相手した。よく耐えた方だと自分に言い聞かせそのままため息交じりにベッドへ向かい全身の力を抜き乱暴に身を投げる。

ドアを叩く音もいつの間にか止んでいて「やっと諦めたか」と安堵し、色の消えた表情で虚空を見つめる。

『私が…教えてあげる…』

好き……俺には過ぎた感情。そう、必要のない……感情。

あの時も、ただ…『平穏な箱』が壊れるのが嫌だっただけで……それにリリアナは……

おそらく俺だけが知る、隣人リリアナの秘密……彼女は––––––。


数週間前……

その人外の美貌を持つ美女は、突然隣に越して来た。

初めて目にした時、その美貌に目を見開いた…今まで感じた事のない感覚。瞬きをするのが惜しいと思える程に、その容姿は整い、滑らかになびく白銀の髪。光を閉じ込めたかの様な琥珀色の双眸、切れ長の眼は、冷たさと儚さを感じさせる。

初めて…『美しい』と思った。それは掛け値の無い心からの称賛……初めて見る美しい絵画の様な光景に思わず自分という存在を忘れ、ただ立ち尽くしてしまった。

すれ違いざまのロビーで立ち尽くす俺を冷え切った瞳で彼女は一瞥すると、何事もなく自室へその姿を消した。

それから何度かすれ違いはしたものの特に声をかける事もなく、リリアナは高貴な雰囲気を漂わせたままこちらの事など意に関せずといった風で、ひじり自身も初見の『美しい』と感じた…それ以上の感情は一切無かった。

そんなある日……街は静まり返り、ひと気の無くなった夜更け。街灯と自動販売機の灯りだけが人工的に作られた雑木林に面する遊歩道を頼りなく照らしていた。

ひじりは歩道の端を一人静かに歩いていると、その視界の隅に『ある光景』を捉える。

しかし、そんな事はきっとどんな所でも起きている光景であり、取り合っていたら切りがない。たまたま近くで起こったと言うだけの事、助ける義理もない。

ただ視界の隅に映り込んだ『透き通る様な白銀の髪』は聖の『平穏な箱』と言う概念の端に触れたのだろう…

気付けば無意識に身体がそちらを向いていた。

数人の粗暴な男達に囲まれ、下卑た視線を浴びながら満身創痍で倒れ臥す『白銀の美女』––––––。

顔には殴られたであろうあざ、そして羽交い締めにされた華奢な身体に卑猥な手が四方から雪の様な肌を舐め尽くさんと迫って––––––。

「手間取らせやがって、せっかく優しく誘ってやってんのにこの生意気なアマ

「大人しくしときゃ痛い目見ずに済んだのにな?気持ちイィだけだったんだぜェ?」

男の一人が髪を鷲掴みにして、強引に顔を引き上げる。別の男がその顔を舐める様に覗き込み下賎な言葉を投げかけ––––。

「息が臭い、顔が気持ち悪いわ…あなたに同情するわね…そんなゴミ見たいな顔で生まれて幸せ?」

彼女は男達の顔を睥睨しながら言い放った。怯えるでもなく、強がりでもない…満身創痍な事は間違いなく、状況を鑑みればとてもその様な発言は出来ない、女性なのだから…尚更。

「口の減らねぇっ女だなぁ!お前今からどうなるかわかってんのか?その澄ました顔が苦痛に歪むのが楽しみだなぁ?おい!俺らにご奉仕した後は、薬漬けにでもして外人ソープに売り飛ばしてやるからよォ」

男は言いながら彼女の頬を二、三度殴りつけ、胸元に手をやり白いブラウスのボタンを弾かせながら引き裂く。

露わになった双丘に男達が彼女を辱めんとハイエナの様に群がり「……ゴミ…」それでもその瞳には軽蔑と嘲笑を宿し男達を睥睨している…まるで心だけは折らせない様…高潔さを失わぬ様に、一瞬の隙も見せたくないと言う彼女なりの抵抗だったのだろう。

「––––!?」

瞬間、首筋に鋭い衝撃が走り彼女はその意識を強制的に手放した。薄れゆく意識……視界が黒く染まり、暗い感情に心が…魂が…呑まれていく––––––。

「––––––?!」

「––––––!!」

「––––––」

「………」

「おい、あんた…起きろ……」

聞いた事の無い声がした……ただその声は何処か心が安らぐ様な気がして。

「……仕方ない、運ぶか」

ダメ、今の私に触れたら……戻りかけた意識が今度は冷たい檻に閉じ込められ…傍観するしか無い。彼女は意識を手放す寸前、本能のリミッターを外してしまった……こうなったら止める術はない。あのゴミどもなら良かった。ただ、目の前のこの人に『牙』を向けたくない…しかし、もはやどうにも出来ない……

私はまた…繰り返すの?また人を…傷つけて––––––。


彼女を抱き起こそうとした瞬間、その異様な気配に本能が警鐘を鳴らし思わず距離をとった。

突如その双眸を見開きこちらを睥睨する彼女の瞳は完全に瞳孔が開き、琥珀色の双眸に怪しげな光が灯る。

「なんて、眼ェしてやがる……あんた何者––––––」

白銀の髪が垂れ下がり、一瞬訪れた静寂の後…彼女の身体に異変は起きた、妖艶な口元からは猛々しい牙が生え美しい白銀の毛並みが皮膚の表面を覆っていく…美麗な顔はそのままに頭部に獣の耳が生え、腰からは白銀に輝く尾が優美に存在を主張している。

「グゥルルルルゥ」

「会話は…出来そうにないな……半獣、狼……人狼ってやつか」

「とんでもない所に足を突っ込んじまった……」

ひじりは焦燥の表情を浮かべ、状況を冷静に把握しようと努めるが目の前の『異質』な存在に内心、驚きと戸惑いを隠すのに必死だった。

『白銀の人狼』は聖に狙いを定め、地面を強く蹴り、人外の速度で肉薄。その膂力に任せた爪の一撃を聖の首筋めがけ大きく振るった。

「ぐっ!!」

僅かに軌道を逸らし致命傷は避けたが肩口を大きく抉られ、鮮血が周囲に飛び散る。

「くそ、いてぇな……どうしろって言うんだ、こんな––––」

すぐさま意識を『白銀の人狼』に向け、左肩の出血を右手で抑えながら体制を立て直す……が、視界に入れた人狼の様子に違和感を覚え、訝しむ様にその姿を眺めると…獣の表情には苦悶が満ちていた。

先ほど男達から受けた暴行の傷跡が痛むのか、歯を食いしばり必死な形相で聖を睨め付けるも僅かにふら付き膝をつく。

「……怯えているのか?」

聖は一歩その足を人狼の方へと進めた。

「ぐぅぅゔゔゔ」

低く唸り、聖を威嚇しながら後ずさり、その琥珀色の双眸に強い光を宿し更に鋭く睨む。

「……そうか、お前も…俺と同じか……」

瞬間、一気に『白銀の人狼』へと距離を詰めた聖は大きく両手を広げ、虚を衝かれた『白銀の人狼』はなす術もなく……いだかれた––––––。


彼が何をしているのかわからない。悍ましい姿になった、今まさにその命を摘み取ろうとしていた獣を…彼は抱きしめ、心音が聞こえる程胸元に引き寄せ…優しく頭を撫でていた。

今牙を突き立てれば、簡単にその喉笛を食いちぎる事が出来る……しかし気がつけば私の中の獣はただ、脱力してその身を預けていた。抗えない……彼の強さに、優しさに、全身から伝わる温もりに。

僅かに意識を向けると、彼は……歌い始めた––––––。

歌詞は無い。か細く掠れる様な声色で、しかし何処までも深く、優しい旋律。

まるで、親が子を寝かしつける様な慈愛に満ちた音色は、凍えて冷え切った心を安らぎと暖かさで満たし……

意識を捕らえていた心の檻が溶けていく。

気がつけば獣の瞳からは滂沱の涙が溢れかえり、その頬を濡らしていた。

彼女の瞳には、気高く孤高な『白銀の狼』が彼にこうべを垂れ、全幅の信頼を持ってその頭を彼の腕に預けている姿が……その表情には敬愛が溢れていて。

彼女の中の狼は認めたのだ、彼が『主人』である事を––––––。


ゆっくりと意識が浮上していくのを感じ……全身を包み込む様な柔らかな感触と、程良い反発が全身を支えているのが分かる。

震える瞼を僅かに開くと、灯りの灯っていないシーリングライト……首だけを動かし辺りを見回すとそこは見覚えのない部屋、黒を基調としたシックな雰囲気で纏められた空間であった。

『獣化』の反動で全身に激痛を感じながらも、肩肘をつき寝ていたベッドから半身を起こして、そこに居るであろう人物を探す。

「目が覚めましたか?」

寝室の扉越しに何事もなかったかの様な面持ちで、無造作な黒髪、切れ長の双眸は僅かに青みがかった不思議な色を宿しており、見つめていると意識ごと吸い込まれそう……そんな、様相の彼は佇んでいた。

「…ぁ、えっと……その……ここは?」

彼の顔を直視できない、何か胸の奥から込み上げてくる熱い感情が…心臓の鼓動が早い…彼に聞こえてしまうのでは無いかと思うほど躍動する鼓動を抑え、分かりきった問いかけをしてしまう。

「あなたの部屋の隣、つまり僕の部屋ですね……流石に女性の部屋へ無断で入るのは気が引けたので」

「そっか、そうよね……」

手が汗ばむ、何故かわからないが緊張で頭が回らない……

二人の間を沈黙が包む。

「…リリアナ」

先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「はい?」

「私の……名前」

「そうですか、外人さん…ですよね?僕の名前は、黒崎聖と言います」

「…うん、でも育ったのはこの国だから……ひじり…君、その…助けてくれて……ぁりがとう」

俯き顔を赤らめる仕草はその外見からは想像できない程、可愛らしい。そして絞り出す様にリリアナは感謝の言葉を紡いだ。

リリアナの言葉を正面から受け止めた聖は「はて?」という表情を浮かべ和かな笑みを返すと。

「僕は、偶然通りかかった道でリリアナさんが倒れていたので、家まで運んだだけですよ?お礼を言われる程の事は何も––––––」

「––––どうして?」

聖の言葉を遮り、リリアナは問いかけた。その瞳は憂いを帯び、しかし聖の双眸をしっかりと見据えている。

「……どうして、と言うのは?」

「……なんで、嘘つくの?」

「………」

「あんな姿になった私が今更怖くなった?もう……関わりたく無いから?」

聖は僅かに視線を下げ、リリアナから目を逸らす。その様子を見てリリアナは下唇を噛み震える身体を抱えながら俯き……

「何のことを聞かれているのか…僕には分かりません」

「––––––」

リリアナはあくまで白を切る聖に対して、こみ上げる感情を抑えながら徐に立ち上がり静かに距離を詰めると手の震えを抑えながら、聖の左肩に触れる……新しいシャツの下、包帯に滲んでいた血が薄くその肩口を染め。

「………」

「そう…だよね……関わりたく無いよね。こんな傷付けておいて……何、勘違いしていたんだろう」

「………」

「醜かったでしょう……化け物……私ね、ああなったら理性が無くなって…自分の意思じゃ制御できないの……だけど、記憶を無くしたりはしないんだ…見聞きした事は全部覚えていて……傷つけてしまった相手の表情も声も鮮明に……」

「………」

「ごめんなさい––––––」

瞳に浮かべた涙を見せない様、顔を俯けたまま駆け足混じりに部屋から立ち去ろうとするリリアナ。

終始リリアナの話を黙って聞いていた聖はその姿勢を崩す事なく、真横を通り過ぎ去る瞬間。

リリアナの腕を掴んだ––––––。

「––––?!」

「僕は、あなたの危機的状況になんて関わっていない……それだけは、譲れません」

「………」

リリアナは俯いたまま、手を引かれた状態でその場に佇んでいる。そして聖はリリアナの方へ改めて向き直るとその群青色の双眸で真っ直ぐにリリアナを見据え。

「でも俺は、あんたの事を…醜いだなんて思っていない」

リリアナはハッとした様に顔をあげ、潤んだ瞳に僅かな光を宿し聖を見つめ返す。

「……俺は……美しいと…思った」

辿々しく言葉を紡ぐ聖。その含みの無い、真っ直ぐな感情にリリアナの双眸は決壊。口元を片手で抑え嗚咽を堪えるが滂沱の様に溢れ出す涙が、覆った手を伝いポタポタとこぼれ落ちる。

「ぁ…あり゛がどぅ……そんな事…言われたの……はじめてで、わたし、わたし––––」

聖はリリアナの手を軽く引き、華奢な体躯を抱き寄せ軽く頭を撫でる。リリアナはすがりつく様に聖の腰に手を回し、その胸元に額を押し付けながら幼子の様に涙を零す。

「…あまり、泣かないでくれ……慣れていないから、どう対処していいか……わからない」

一頻り聖のシャツを涙で濡らした後「ズビッ」と情けない音と共に顔を上げる。普段の彼女を知る者が今のリリアナの姿を目の当たりにしたら、驚愕して卒倒するだろう。その美麗な容姿を崩し、鼻の頭は真っ赤、まるで幼い少女の様なあどけなさを醸し出し、可愛らしい表情を浮かべながら聖を眺め。

「ふふ、大正解の対処だと思うよ?ひじり君、お姉さんの心を夢中にさせちゃうくらいには…ねっ?」

「…泣き止んでくれるなら、何でもいい……落ち着いたのなら、そろそろ––––––」

「ねぇ、ひじり君」

リリアナはそっと聖の首に両腕をまわし、徐にその艶やかな唇を近づけ、互いの唇が惹かれ合う様に––––––。

「むにゅぅ」

聖の人差し指により、二人の熱い唇は交わる事なく阻止。

「何のつもりだ?」

「えぇー?!今は『そう』だったじゃん!『そう言う感じ』でしょう?!お姉さんこう見えても初めてなんだよ?でもお姉さんだから、リードしてあげなきゃと思って超頑張ったんだよ?」

リリアナは熱いパトスを人差し指一本で阻止され駄々を捏ねる子供の様に先程までの様相を一変させ。

「そんな、そんなお姉さんの此処一番を、初めてを捧げようと決めた一大決心を……指先で止めるなんてぇ……酷いよ、ひじりくぅーん……しかも寸止めだよ?後ちょっと…後ちょっとで届いたのにぃ!」

リリアナは地団駄を踏み、喚き散らしながら再びホロホロと涙をこぼし。

「やっぱり、わたしの事嫌いなの?タイプじゃないとか?年上だから?」

飼い主にすがる犬の様に聖に詰め寄るリリアナ、もはや彼女に恥も外聞も無い。

「あんたがどうとか、そう言う事じゃない……」

「嫌いじゃない?」

「……嫌い…ではない」

キャピッと表情に活力を取り戻し、再び聖に飛びつこうとするが、額を掌で抑えられ阻止。

「何でぇえ、何で受け入れてくれないのぉー?!何でもしちゃうよ?今ならお姉さん…その……ひじり君の言う事なんでも……聞いちゃうよ?」

「お座り」

シュピっと完璧な『お座り』をリリアナは決めた、否。身体が無条件に主人の指示に反応した。

「ぇっ……ちょっと待って」

「お手」

即座に差し出された掌に、完璧な『お手』を繰り出す。

「ぃや、身体が勝手に反応して––––––」

「伏せ」

百点満点の『伏せ』聖もわかっていた訳ではないが、その見事な反応に目を細め深く頷いている。

「イヌ科の本分と言うやつか……」

「ちん……」

「それだけはぁ!!それだけはやめてぇええ」

見事な、それはもう芸術的な程の–––––––。

「いゃぁあああああああああ」

リリアナはある意味色々な『初めて』を失った。

「ひじり君の……いじわる、鬼畜、変態、ろくでなしぃ……でもなんかちょっと……イィ」

膝を抱え、周囲に暗雲を纏いながら独り言ちるリリアナ。しかしこの時新しい扉も開いてしまうリリアナ。

「悪い……柄にもなく…ちょっと楽しかった……」

聖も扉を開いていた。

そして、真剣な表情でリリアナを見つめた聖は。

「俺は誰かに好意を向ける事も、好意を向けられる事も無い。それはこの先もずっとだ…」

遠い目を向けて、リリアナに言い放った聖はひらひらと手を払う様な仕草をして。

「……別にあんたが嫌いな訳じゃ無いが…調子が戻ったのなら、部屋に戻ってくれないか」

リリアナはジッと聖の瞳を覗き込む。そして、僅かな沈黙の後に目を細め「なぁんだ」と何処か優しげな、親しみのある笑顔を浮かべると。

「……あなたも、私と…おんなじなんだね––––––」

聖を真正面に見据えた美女はその白銀の髪をなびかせ悠々と聖に歩み寄り、聖をその胸に抱き寄せた。

「––––––?!」

抵抗できない……突き飛ばして、さっさとこの状況を…茶番を終わらせなければ……身体が動かない。

声が出ない、リリアナから発せられる優しい香りが鼻腔を擽り、思考をまどろみへと誘う。

どれくらいそうしていただろう、無抵抗のまま白銀の美女に抱かれて……安らぎさえ感じてしまっている自分。

そんな事は…許されない。そんな事は……望んでいない。俺は––––––。

「……さっきのお返し」

リリアナは聖の頭を軽く撫でると、そう言葉を発した。

「………」

ゆっくりと聖への抱擁を解き、満ち足りた表情でその琥珀色の双眸を聖に向け。

「とても…素敵なメロディだった……懐かしくて、暖かい……子守唄」

「………」

「ぁ、あなたは助けていないんだっけ……ふふふ、そう言うことにしておくね」

何も聞かなかった…彼女はただ、それだけで全てを悟った様に、聖の心に寄り添い…少しだけ、互いの孤独を分かち合えた気がして。

「少なくとも……私は、私だけは…もう、あなたに好意を寄せてるよ?これだけは…譲ってあげない」

恥じらいを表情に滲ませながら、聖の言葉を真似て、ただその瞳は真剣に群青の双眸を見据えている。

「……好きにしろ」

僅かに肩をすくめ、視線をそらせた聖は「好きにしろ」の言葉と同時に飛び込もうとしていたリリアナを「待て」で制し、遠い目を虚空に彷徨わせ。

「肋……」

「ん?どうしたのかなぁ、ひじり君?肋?ふぇちなのかな?お姉さんの肋なら好きなだけ–––––」

「折れているぞ?……痛く無いのか?」

「ん?……折れてる?……肋?……私の……ぎぁっ」

今更気がついた激痛に悶え、その場に倒れこむリリアナ。

「ひじりくぅん……痛いよぉ…ベッドに行こうよぉ……頭なでなでしながら添い寝してくれたら…治るかも」

「お帰りください、自室のベッドでご自愛ください」

「えぇー?!ひじりくぅん……そんな事言わないでぇ……さっきまで熱い抱擁を––––––」

徐にリリアナの前にしゃがみ込んだ聖は無機質な表情のまま白銀の髪を撫でながら、わしゃわしゃして。

「ひじり君……そんなに撫でられると…お姉さん、ドキドキしちゃう––––––」

「ハウス」

「いやっ……いやぁあああ!」

リリアナは四足歩行で帰宅したと言う。


リリアナとの出会いを思い返し……僅かに笑みを浮かべてしまっている自分の顔に手をやり。

「笑っているのか……俺は、リリアナの事を––––––」

独り言ちた瞬間、ベッドの端に妙な膨らみを感じ目をやるとモゾモゾと動いた。

「お座り」

「んはぁっ」

艶っぽい声を上げながらリリアナが完璧なお座りでその姿を露わにする。

「どこから入った?」

強烈なジト目でリリアナの双眸を覗き込むと、油を刺し忘れた機械の様なぎこちなさで顔を横に逸らし。

「べ、ベランダが……開いていまして……」

「地上三十階だぞ?どれだけ命がけで侵入するんだよ」

「だって、ひじり君が……鍵閉めちゃうし……心配してくれたの?」

「隣の住人に、死なれたら寝覚めが悪い…この部屋は気に入っている、引っ越すのは面倒だ」

「それに…」と聖は目を細め、リリアナの頭を優しく–––––––。

「はうぅわっ?!」

鷲掴んで、無機質な笑顔をリリアナの眼前に近づけ。

「リリアナ?こっそり合鍵作って忍び込んでいるだろう?」

「へ?……なぁんの事かぁなー、わからないなぁ」

視線を泳がせながら唇を尖らせ鳴らない口笛をカシュカシュと吹いて。

「だって、ひじり君の事もっと知りたいんだもん!!なかなか相手してくれないし!たまに夜どっかいってるしぃ!!」

「まさか?!こんな美女をはべらせておきながら他に女が?その女ぶっころしゅべ」

リリアナの脳天に手刀が炸裂、勢いで下を噛む。

「いはいよぉー、ひろいよぉー、ひしりくんの……イィ」

「あんたみたいな物好きはそうそういない……」

「ウヘへぇー、それはぁ、どー言う意味かなぁ?ついにお姉さんを受け入れる決心が––––––」

戯けるリリアナの頬にそっと手を添え、熱情を宿した群青の双眸でリリアナの瞳にその表情を写し込む。

「ひ、ひじりくん?!ちょっ、お姉さんも……心の準備が……ぁ」

ゆっくりと迫り来る聖の顔に潤んだ瞳を閉じて、そっと自身の唇を差し出すリリアナ。

二人の影が朝の光に照らされて……

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