08:20 教室


 明朝、瀬灯は始業ぎりぎりの時刻に教室に現れた。そう、扉を開けて入ってきたのではなく、突如教室内の空席に現れたのだ。砂泉以外の誰もが、その超常現象とも呼べるだろう出来事には気づかず、当然のように彼女をその場に受け入れていた。改めて砂泉は考える。昨日の朝には、おそらく彼女はここにはいなかった。不思議なことがあったものだが……砂泉は無性に感謝した。彼女をここに導いてくれたなにかがあるとして、そのなにかが瀬灯の存在を砂泉に認めさせてくれたのなら、そのなにかが瀬灯の願いを叶えてくれたのなら……世界は悲しすぎもしないのだろうと、きっと彼女に言えるはずだから。

「瀬灯、ぐっどもーにんぐ~!」

「うん。おはよう……だから砂泉、首しまるってば……っ」

「あっそうだった。ごめんごめんー」

 砂泉は暖かな気持ちでいた。せっかく無事に新しい日が来たのだ。タイムリミットも理解したうえでなお、僅かな今を全力で彼女に贈ろうと考えていた。彼女と友人関係になったのはつい昨日のことだが、そんなことはさして重要ではないのである。たぶん、なにかを贈りあって喜びあうのが、友人だと思うのだ。

 いっぽう瀬灯は、冷ややかな心地をもて余していた。淡々と始まったSHRをやり過ごすなかには今まで切望していた全てがあるというのに、なぜだかどうしても手放しで喜ぶことができずにいた。相変わらずいやに眩しく思える光景に目を浸し続けるほど、なにやら冷たく青白い光が脳内で明滅する。その光は痛みを伴い、突き刺さって抜けない。幸福感も充足感もあったが、なにかその中に、冷たい異物が紛れ込んでいるようだった。

 瀬灯は、知れず着なれない制服の裾をぎゅっと握り込む。辺りのよく知らない生徒や隣の席でこちらを伺う砂泉の足元にふらふらと視線をさ迷わせるが、それで落ち着くことはなかった。あざやかな光に紛れて漂う、言い表しようのない不安がひとつふたつ。しかし、瀬灯はそれらが何に対してのどんな不安なのかをうまく掴めずにいた。

「朝の連絡は以上です。皆さんからは何かありますか」

 教師の声。こんなありふれた日常の声に耳が脳が震えている。が、当たり前に聞き流そうとしたはずなのに、瀬灯はふと気がつけばその右手を挙げていた。え、と思う。自分が何をしているのか、瀬灯自身理解が追い付いていないのである。が、持ち主の意に反して身体は導かれるようにすっと席を立つ。

「秦野さん、どうしましたか」

「皆に言っておきたいことが少し……あります」

 口が勝手に動いていた。そして、冷たい光にあてられた思考のなかで昨夜を思い返してみる。吐き出した感情の荒波の数々を、自己中の極みとしか言い様のない自身の経緯を、改めて嘲笑う。生きたことを、一笑に伏してしまう。瀬灯の精神は既にそんな境地にまで達していたらしい。

 が、そんな自身に対してまた沸き上がる反抗心がある。違う。嗤いたいわけじゃない。私はもっと生に意義が欲しい。生きていたことを、私自身が認められなくてどうするんだと。誰より本当は、生きていたかった癖に!

「えっ瀬灯? どうしたのいきなり」

 問われたのを無視して一呼吸。すると、瀬灯は自身の行動をようやく理解できた。自らがいま望んでいるものは何か、いま恐れているものは何か、唐突に腑に落ちる。そうして辺りを見渡して、ふっと切なげに顔を歪めた。

「……私が市立中央病院に入院してから、七ヶ月とちょっと経った……。私がそこでE棟……緩和ケア病棟に病室を移されてからは、もう二ヶ月経ってる」

 瀬灯の言葉に、そこにいた誰もが、はっと息を呑んで互いに顔を見合わせた。彼らは、ようやく現在入院中のクラスメイトである秦野瀬灯という存在に気がついたのだろう。目を見張って彼女の立ち姿を見るなり、疑念の乗った言の葉をその喉につかえさせている。彼女の表情を目にしてしまったら、誰もなにも問えなかった。空気が凍ったまま、動かない。

 ああ、瀬灯が望んでいるもの。それは、“こちら側”に来ることなんかよりも、ずっと核心に近い場所にあったのだ。

「たぶん私はもうすぐ、この緩和ケア病棟から……“退院”することになると思う」

 その言葉の意味を。人々は、知識からではなく、彼女の面持ちと、揺らぐ声音から察することができた。思考が追い付かない人々を置き去りにして、より一層冷え込む教室内に、ぽつりと、瀬灯の言葉がこぼれ落ちる。

「だから、」

 一滴。こぼれ落ちてしまえば、二滴、三滴と漏出は続く。

「だから、身勝手だけど、私からお願いがあるの……」

 命が、傷んでいる。どうしようもなく疲れはてて、もう消えてしまう。なにも残せずに消えてしまう。空っぽのまま消えてしまう。それが怖い。ただ怖い。こわい。こわいのだ。だって、生きたなら、生きたなりの結果が欲しい。生きた証がなければ寂しい。こんな空虚を抱いたままでは……とても、逝けない!

 砂泉だけが、見ていた。瀬灯の両手が、ぎゅっとスカートの裾を握りしめ震えていたこと。

「おねがい…………、」

 続く言葉を絞り出せず俯く。その隣にいた砂泉は、瀬灯の張り詰めた様子にとても耐えきれずに、その肩をそっと支えてちいさく名を呼んだ。それから糸が切れたように、瀬灯はそこに座り込んで顔を覆う。砂泉の優しさは暖かくて、暖かすぎて眩しすぎて、痛い。が、捨てられない。甘えてしまう。なにせ、砂泉は瀬灯の唯一の友人で、ずっと憧れていた世界の象徴なので、両親以来の大切なひとなのだから。

 ありがとう砂泉。ごめんなさい。最期まで私の我が儘に付き合わせてばかりで。ごめんなさい。でも、だからこそ、聞いて欲しいの。

「退院祝いを……ください……!」

 こぼれ落ちる水滴だったものは、やがては滝となって溢れ流れ出る。もう、あとはただ、血を吐くように心を綴る。

「私がこの高校に来てできたことなんて……なんにも、なんにもなかったけど……っ。入学して最初からいなくなって、最期までどこにもいられなかったけど……学校、結局行けなかったけど!

私が生きてたことを、誰か、どうか、知っててください……。認めてください。生きた証を、ください! 私は生きてたっ。何もなくても、ここでちゃんと生きてたんですっ! 生きて、たんだ……っ!

おねがいです……お父さんもお母さんも私のいのち、認めること、できなかったから。もう……あなたたちしか、いないんです…………」

 その時、砂泉が見るうちでは初めて、瀬灯が涙を見せた。砂泉は瀬灯の肩を持ったまま、ただ黙る以外のなにもできずにいた。その耳鳴りさえ聞こえそうな無音の不意をついて、空気の読めないチャイムの音がSHRの終了を告げて鳴り響く。ああ、どうやらごく普通の日常のうちのちいさな一日が、また少し気だるく始まるらしい。この日が、誰にとってどんな日であろうと、否応なしに――始まるのである。


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