12:50 中庭
その後の瀬灯は努めて明るかった。休み時間にはクラスメイトといくらか言葉を交わしたり砂泉と(否、砂泉が)騒いでみたり、授業中には殆ど理解できない授業内容を教師にたずねてみたり砂泉と頭を悩ませてみたり、たまには私語の多さで(砂泉が)注意されてみたりした。本当に、“こちら側”らしい過ごし方を、瀬灯の持てる全力で為そうとしていたのだろう。クラスメイトたちは、始めこそぎこちなかったものの、砂泉が騒ぎ立てるのと共に次第に気軽に声をかけてくるようになった。これがたった四時間で為されたというのだから、砂泉のばか騒ぎもただの馬鹿ではないのである。流石と言える。
では、順を追って授業の様子を述べてみよう。
一時間目、数学。瀬灯も砂泉もさっぱり授業が理解できずに、「これわかる?」「ぜんぜん」といったやり取りをお互いに何度も繰り返した。教師に質問もしたが、やはり理解不能だった。
二時間目、英語。瀬灯は英語は苦手ではなかったため、中学のころに身に付けた知識で、なんとか数問くらいは解いてみせた。のち、瀬灯は砂泉に「うらやましい~」と絡まれた。
三時間目、古文。二人して爆睡していた。瀬灯は二時間ぶんを過ごした疲れからだったが、砂泉は授業のつまらなさから寝に入っていた。だめだこりゃあ、と授業が終わってから笑いあった。
四時間目、保健。この国の医療制度についての授業だった。瀬灯は殆どの問いに挙手し、見事に全問を当ててみせた。なにやら盛り上がって、クラスが湧いた。騒ぎすぎた砂泉が注意されてへこんでいた。
そして来たるべき昼休みの開始を告ぐ鐘が、二人の頭上のスピーカーからのんびりと校内を駆け巡ったのだった。
「瀬灯! 時は満ちたよ~っ」
「……中二病?」
「小二病! どうするー瀬灯、お弁当、どこで食べたい!?」
「そうだね……じゃあ、外がいい」
「中庭?」
「うん」
「よしきたっごーごー!」
黄色いリボンをいきおい揺らしてステップを踏む砂泉に手を引かれ、瀬灯は多少の花壇が飾られている中庭へ連れ出される。11月だ。この涼しい季節に、花は咲いていない。が、瀬灯はとても懐かしく思い出して目を閉じる。去年の夏、まだ病院とも縁がなかったあの頃の、学校見学会。中庭の花壇には、たくさんの花が可愛らしく彩られていた。花壇の前で母と共にはしゃいで、写真も撮ったことを覚えている。懐かしい。胸の辺りがひりつくのを、曖昧な笑みで誤魔化す。
花壇のすぐ脇に設けられたベンチに二人で腰掛けると、砂泉は得意げな顔で瀬灯に弁当箱をぽんと渡した。
「中身は?」
「いたって普通の食材の数々です!」
「なるほど……ありがとう。いただきます」
手を合わせ、箸を手に取る。砂泉も自分の弁当をいそいそと膝の上に広げている。ああ、と瀬灯は思う。平和だ。贅沢なくらい、平和だと。
「ねぇ、砂泉」
「うん?」
「佐藤先生って、ちょっとこわいね」
「あぁーそうだよねぇ。なんか顔がイカツイよね!」
「田中先生はやさしかった」
「うん、田中っちはちょー優しいよ。ぜんぜん怒らないし。すっごい眠くなるけどねえ」
「清水先生は、説明が簡潔すぎてわけわかんない」
「それな。ほんまにそれなんだよ~いつもさぁ、なに聞いてもさっぱりなの。絶対値って何?」
「え、それはやばいよ、砂泉……」
「ぅえぇーそうかなあ」
「私もあんまり人のこと言えないけど……。茅部さんって数学得意そうでうらやましい」
「かやちゃん? かやちゃんは数学だと学年トップなんだよー」
「へえ、すごい。雲の上だね……砂泉は?」
「わ、わたし? 下から何番目かなぁ……」
「得意教科ないんだっけ」
「もちろんっ、馬鹿ですから!」
「特技は?」
「特技? 騒ぐことですっ!」
「うん。納得した」
他愛もとりとめもない会話をつらつらと続けながら、二人、弁当箱をつついて笑う。
「たまごおいしい」
「ヨッシャぁっ! 勝ったぞっ」
「何に?」
「たまごがおいしいかどうかの勝負?」
「うーん。負けちゃった」
こんな会話を、ずっとしてみたかったのだ。
瀬灯はこの上なく満たされていた。空腹も空虚も、綺麗になくなってしまったようだった。微かな切なさは拭いようがなくとも、砂泉との友人関係は痛いほど良好である。心が痛いほど。身体が痛いほど。秋空は青さを増して、高く遠い天上に抜ける道を敷く。空が見える。そらが、瀬灯の目に映っている。青が、青が、瀬灯の思う罪悪感を根こそぎ吸い上げて、ここに穏やかさを取り戻してくれる。醜いものは今ここにはない。それらは大気圏を突き抜けて上へ上へと行った先に、星明かりも届かない暗闇の広大な海となって拡がっている。その場所へ。そんな虚しい絶望に満ちた海へ、溺れに行く準備は整ったようだった。
長く長く話すうち、やがて食べ終えた弁当箱を瀬灯は丁寧に包み直し、砂泉の手に返した。息を吸うと心臓の辺りに鋭い痛みが走ってむせこみそうになるが、こらえ、告ぐ。
「ありがとう。美味しかった」
「うんっ。お口に合ったようでよかったですー!」
「じゃあ……、教室、戻ろっか」
ただ笑いかけるという行為にこれほど苦労した経験は、瀬灯のこれまでにはなかった。そして、これからにもないと言い切れる。“これから”というものを、瀬灯はもう持ち合わせていないのだから。
大きく息を吸う。痛みを、今だけは無視することができた。震えそうになる足を無理矢理に動かして、瀬灯は、全力で、砂泉にも追い付けないほどの速さで、走り出した。一瞬のことである。砂泉の反応は、一拍遅れてから為される。
「えっ……瀬灯っ!? まって、瀬灯!」
砂泉も慌てて走り出す。向かう先は当然、自分たちが今朝から過ごしていた教室である。瀬灯の背中は曲がり角で消える。必死になって追う。だって、彼女はあんなスピードを出していい体調ではないはずなのだ。
いやな予感の警笛が砂泉の脳内で鳴り止まない。走る。走る。肩で息をしながら、教室の扉にすがり付いて開け放つ。あまりにもけたたましい乱入に、そこにいた何人もが砂泉に目を向けた。砂泉はそれらを気にするよりも、視線を巡らせることを先決とした。
「…………いない……っ!」
辺りをくまなく見回し、さらに近くの友人に瀬灯は来ていなかったかと尋ねても首を振られ、砂泉は呆然とする。わかってしまった。瀬灯の席にも、誰かがいた形跡すらないのである。かといって、彼女にこの他の場所へ向かう理由などないだろうとも理解できる。だが、いない。つまり、昨夜と同じく瀬灯は消えたのだ。
狼狽した。とめどない焦燥感に窒息しそうになるのを、唇を強く噛みしめやり過ごす。先ほどの瀬灯の態度と現状を照らし合わせると、導き出される解はひとつしかなく、しかし認めたくなかったのだ。二つの弁当箱を強く胸に抱え込み、あまりのことに微かな嗚咽を漏らした砂泉は、ふらふらと彼女の席まで歩き、手を触れた。ひんやりとした木の感触は、砂泉に何を与えてくれもしない。
ふいに、何気なく黒板に目をやる。その一角に短く綴られた文の存在に、砂泉は気がついてしまった。
“生きてよかった。さようなら”
「あぁ……」
泣き叫ぶ気力も溶けていく。
どうやらここが、時間切れらしい。
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