18:30 E棟


 昔から友達を作るのは苦手な方だった。あまりはっちゃけて遊ぶってことがなかったから、ノリの悪い子だと思われてたみたい。波長の合う子ももちろんいたんだけど、進学先が離れちゃってからは、連絡もとれてない。そんな感じだったから、入院してからは、ほんとに誰も来なくって……寂しかった。

 でも、お父さんはたまに休日ができたら、お母さんはほとんど毎日、私の病室に通ってきてくれたの。美味しい食べ物を持ってきてくれたり、暇潰しにって本を買ってきてくれたり……。それがどれだけ有り難いかって、それももちろん解ってたんだけど、私はちょっと虚しかった。お父さんやお母さんが熱心に私のお見舞いにきてくれるたびに、二人しか私に知り合いはいないんだなぁって強く感じた。とにかく、学校、行きたかった。けっこう受験勉強もしてやっと入った高校。入学したてで楽しみにしてた全部、できないのがつらかったんだ。

 入院して最初のころは、ずっと開けっ放しになってる病室のドアを眺めてた。廊下でぱたばた動き回る看護師さんや、検診やトイレに行く患者さん、たまに来るお見舞いの人が慌ただしく行き交うのを見てた……。そうすると、私の所にも、誰か来てくれそうな気がするから。ずっと、ずっと誰も来ないのに、人を待ってた。

 ニヶ月くらい経つと、四人部屋から個室に移ったこともあってか、扉は閉めるようになった。人のいる空気に触れること自体が、いつのまにか嫌になってたのかもしれない。お母さんたちと話すときでも、だんだん口数が減ってった。それを、お母さんは私の体調の悪化だって思ったみたいで……余計に病室に入り浸るようになった。すごく心配そうにして……どんどんやつれていくお母さん。虚無感と、大きな罪悪感でどうにかなりそうだった……。

 三ヶ月目のある日。朝目覚めて最初に見えたのが病室の白い天井だったことに、なぜかすごくショックを受けて泣きわめいちゃった。自室のクリーム色の天井から離れてもうずいぶん経つのに、自室じゃない病室の風景に強い拒絶反応が出てちゃったの。どこも痛くないのに苦しがる私に、看護師さんが戸惑いながら付き添ってくれた。もうそのころには、相当、やばいなあってわかってた……心身共に。

 その日の夕方、精神科の先生がお薬を出してくれた。お母さんはすごくびっくりして、また気負いしちゃったみたいで……辛そうにして……さすがにその時は疲れすぎたのか、いつもより早く帰ってった。申し訳なかった。なんで私は親に迷惑をかける以外の何もかもができないんだろうって、自分を恨んだ。でも。家に。家に帰ってくお母さんだ。あまりに羨ましくて、誰もいなくなった病室で嗚咽を漏らした。壊れそうだ。食事もまともにできなかった。

 わかってたの。もうわかってたんだ……未来がだんだん薄れていくこと……

 四ヶ月目。私はできるだけ長い間、目を閉じているようにしてた。白が、嫌いだった。もう見たくなかった。だから想像だけしてた。あちら側の……彩りを。あざやかでまぶしい光景を。

 そんな頃だったな、私が告知を受けたのは。

 薄々わかってたから、その時はもう“やっぱり”としか思わなかった。物凄く遠回りでわかりにくい説明で、私はそろそろ死ぬんだって担当医から伝えられたの。もうどうしようもないんだって。私が今まで積み上げてきた受験勉強もろもろの過去も、一切の未来も、現在の意味も……そのときに、ぜをぶ消えてちゃっみたい。空虚になった。何時間も虚脱感にさらされて、ぼーっとしてた。

 ーーもう死ぬんだ、私。

 “未来がないこと”

 もうどこを向いても、どんな道を行こうとしても、その先の足元には 死 しか見えないこと。

 圧迫感と喪失感があった。

 もう何もできないんだ。どうにもならない。どうにもできない。かならず死んじゃうんだから。死しかないんだから。それがただ、怖い。怖い、怖い……

 学校行きたい……どこにも日常がない。なくなった。薄れてきえて離れて消えちゃいそうだった。“こちら側”に連れてこられてもうあっちのぜんぶ遠くてとおくてとおくて見えなくなってた。自分のたしかな“生”がどこにも見えないんだ。生きていない私はもう生きてない。とっくに死に始めてる……そういう感覚があった。

 生きたい。

 生きてあっちに戻って友達が欲しい。でも、もうできない。どんな未来もない……


 何もないまま、死ぬ。


 いつの間にか、ふと気がつくと泣いてることが多くなった。何もしてなくても、何も考えてなくても、涙が勝手に出てくるの。情けないよねえ。明日の朝に病院で目覚めるっていうのが怖くて怖くて、どんどん眠れなくなってった。睡眠も食事もとれずに衰弱していく身体を見てると、わけがわからないおそろしさがいっぱい浮かんできて、また泣いた。ぜんぶが私から消えてくの。いのちもせいかつものぞみもじしんもぜんぶ。無い。

 それであるとき、ついにお母さんに私が泣いているところを見られちゃった。そして……お母さんの様子が。おかしくなった。話しかけてもうまくは返答しないようになって、顔からは笑顔がなくなって、不自然に私によそよそしくする。明らかに、これまでと違うお母さん。

 もう……限界だったんだろう、なあ。

 体力的にも、精神的にも、経済的にも……私の存在は、入院してからはいつだって、家族の重い重い枷でしかないんだ。わかってた。でも、その時ほどショックを受けた経験は私にはたぶんないと思う。お母さんが、壊れた……そう感じた。他でもないこの私が、あのとても優しくて一生懸命だったお母さんを……壊したんだ。

 そのときに、私がそれまで持ってたぜんぶの“生”は、完全に“死”に替わった。

 なんで? なんで、私は、なんで今までお母さんに心から感謝できなかった? いつも私を助けてくれたお母さんなのに。あらゆる意味で誰より私に“いのち”をくれたお母さんなのに。いちばん私を愛してくれたお母さんなのに。大好きなお母さんなのに。お母さんなのに!

 後悔、自責、罪悪感、喪失感、虚無感……そんなんじゃ足りない。自分の娘に人生を潰されたお母さんの苦しみはこんなんじゃ全然足りてない。お母さんに謝らないといけない。笑顔で、私はお母さんといっしょにいられて幸せだったからもう死ぬのは怖くないよって、ありがとうお母さんって、笑って、笑って伝えなきゃいけない。今すぐにそうしなきゃ。でも……っ、でも! 届かない! もう何を話しかけてもお母さんは虚ろなままで……もう伝わらない!

 どうしたらいい。どうしたらお母さんは笑ってくれる? どうすればいい? どうすれば……!

 わからないんだ。

 次の次の日くらいに、お父さんが来た。すごく、険しい顔をしてた。雰囲気が相当張り詰めてたから、私は久々に会ったお父さんに挨拶もできないまま……じっと、何分も見つめあってた。怒ったような悲しいような諦めたような、そんなお父さんの目をじぃっと見てた。しばらく黙ったまま時間が過ぎて、お父さんがやっと口を開いて言ったのが。


「さようならだ、瀬灯」


 決別の言葉、だった。

 急に不安になって、どういうことなのって、そのまま部屋を出ようとするお父さんに何度も聞いた。なにも答えてくれなかった。背中が扉のむこうに消えた。怖い。どういうこと? さようなら? なに。なんで。私は……私は、お父さんと、お母さんと、“別れ”る? もしかしたら捨てられたの? 私が二人に?

 ……。

 ……納得、した。

 私は。枷だから。二人にとってはただの害悪でしか、ないから。私がここにいるだけで、この病院のこの病室の中で生きているっていうだけで、二人を傷つけるから……。

 その後、二人がどうしたのかは……最初は私には、知らされなかったけど……どうしてもって担当医に食って掛かって、お願いだって泣いて頼み込んだら、教えてくれた…………。


「お父さんとお母さんは、それでどうなったんですか……?」

「…………お亡くなりになりました」

「え……どっ、どうしてですか?」

 聞くと、担当医は黙って首を振って答えた。

「事故ではありません。病気でも……他殺でも、ありません」

「…………………………………………そう……」


 心中したんだって。


 それから、私は病室を緩和ケア病棟であるE314号室に移された。

 なんかね……私は、諦めちゃってた。そうしないと私も自殺しようかなぁって思っちゃうから。なにも考えないようにして、空っぽになって、何もないまま死ぬことを受け入れようと思ったの。そのくらいじゃなきゃ、私の存在っていう罪はつぐなえないだろうから……。生きることも、死ぬことも、諦めた。もう、いいんだ。なにもなくていい。それがいいんだって。

 ああ……これでやっと終わるなあって、幸せさえ感じてた。

 でも。でもね。それでも。

 私は、やっぱりどうしようもないひとだったの。お父さんとお母さんに報いることも、受け入れきるなんてやっぱり無理だった。やっぱり私はまだあちら側のことを忘れられてなかった。こちら側の世界の残酷さを思い知ったからなおさら、あちら側がまぶしくて……羨ましくて羨ましくて苦しくなった。もう、いっそ一度でもいいからまたあちら側に行きたかった。見たいの。見たいんだ。白じゃない色。白以外の色。白は、嫌いだから。あかみどりあおきいろ。なんでもいい。あちら側の彩りが見たい。輝きに目を眩ましてみたい。それだけなの。それだけなんだよ。死っていう影が光にかき消されて見えなくなったあの世界を思うと、心がひどく痛んだ。泣けなかった。なんかもう、涙が涸れてたみたい。

 死ぬのはいい。苦しみがなくなるから。生きて、死ぬこと。それは仕方のないことだから。でも……生きたなら、結果が欲しい。証が欲しい。自分が生きてたってことに納得できるなにかが……欲しい。どうしても欲しい。いや、欲しがっちゃいけない。お父さんとお母さんを苦しめて死なせた私が、そんな幸せなことを望むなんていけないこと。

 そうやってぐるぐるまわって、空虚なようなそうでないような、曖昧な二ヶ月をこの病室で過ごしてきた。


 だからね、川原さん。

 私はいまとっても幸せ。幸せすぎて死ねるくらい、罪深いけど、幸せ。

 でも気づいてしまった。

 生きることも罪だけど、死ぬことも罪だって。死ぬことがどれだけひとを傷つけることになるのかは、たぶん私がいちばんよく知ってるの。今更かもしれないんだけど……砂泉のこと。

 あはは、駄目だね。結局どうにもならないや。どうにもできない。なにやったって落ちてくだけだよ。私、もう死ねてよかったと思うの。私の罪はそれで終わるんだから。嬉しい。ほんとにうれしいんだよ? ……泣いてなんかない。


 幸せだよ。私は幸せ。

 ねえ。

 もう少しだけ生きられるあなたに、お願いがあるの。私のこのシアワセを、だれかに伝えてほしいんだ。証明してほしい。私がここに生きてたことを、この世のどこかに残してほしい。


「何言ってるんだよ。もとからそのつもりで聞いてたぞ、俺は」


 ありがとう。あなたに出会えてよかった。


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