18:00 E棟
と、すぐにまたノックの音が瀬灯の耳をなぜる。叩き方に落ち着きが感じられることから、砂泉ではないと察した。いつもノックはしても返事を待たずに部屋に押し入ってくる看護師でもない。その人は、どうやら瀬灯の応答をじっと待っているらしく、そしてそんな心当たりは一人しかなく、瀬灯は迷わず口を開く。
「どうぞ……川原さん」
扉が開く。予想通り、川原貴弥だった。
「失礼します。電気つけていい?」
「うん……」
再度、点灯。
「……帰ってきたんだな」
「そうみたい……一旦」
ここでの“帰ってきた”は、瀬灯の身体に魂が、の意である。
「なあ、ちょっと許可が欲しいんだ」
「許可?」
「君の話を、書きたい」
決然した声音で、彼はそう告げる。その目に、以前会ったときにはなかった光が生まれているのが見えた。瀬灯は思わず声をたてて笑ってしまう。ああ、とても懐かしいと感じる。こんなに笑ったのはいつぶりだろうか……。
「えっ、なんだよいきなり」
「いいよ」
笑いながらの返答である。
「はい?」
「いいよ。書いても。……それが、あなたの“終末の過ごし方”なのね」
彼はしばらく唖然としていた。当然、こうも笑われるとは思ってもみなかったのだろう。
「なんで笑う?」
「だって、あなた……すごく前向きになってるでしょう。昼間は、なんかもやもやしてたのに……。なにかあったの?」
「いや、それは……」
貴弥は言い淀んで、やがて口を閉じてしまう。それを瀬灯は寂しげな目をして待っている。生きることも死ぬことも受け入れ諦めた二人の沈黙には力がなく、凪いでいた。
「……あと少しなら、好きなようにやりたいって思った。俺はまだここ来たばっかだし、一冊ぶん書ける時間あるはずだからさ」
「そう……」
「本当にいいのか? 俺、書くんなら色々聞きたいんだけど」
「いいよ。どうせすぐ死ぬんだから……できること、なんでもしたい」
「そうか……感謝する」
頭を下げた貴弥の右手に、古びた万年筆が握られている。対照的な真新しいメモ帳がパジャマの胸ポケットに収まっているのを目にして、瀬灯はああ、と何気なく考える。メモ帳は病院の売店でも売っていたものだが、おそらくその万年筆は、彼にとってはお守りに近い大切なものなのだろうと。だって、昼間に彼と会ったときにも、彼は同じものを持っていた。……書くことなどもうできないと言っていた癖に。きっと捨てられなかったのだろう。
「アナログで書くの? そのペン……」
「いや、メモとプロットに使ってたやつだよ。本文はPC使う」
「そう……がんばって」
「ありがとう。じゃ、いくつか質問いいか? っていうか根掘り葉掘りいいか?」
「うん……」
頷いて、目を伏せる。揺らいでいた。瀬灯の心はいま、わずかに。
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