17:40 E棟


 そのいくらかのちのことだった。

 瀬灯に適当に待つよう告いで夕食の支度に勤しんでいた砂泉は、リビングに戻るなり皿を手にしたまま立ち尽くした。呆然として、まばたきを数秒忘れ、やがて辺りをくまなく歩き回る。が、どうしても砂泉の望むものは得られなかった。母に不審な動きを咎められるも、砂泉は応答できない。

「ねぇ、お母さん……瀬灯は?」

「せとう? 何の話よ」

「……女の子、ここにいなかった?」

「そりゃあ、あなた以外はね」

 気づかぬうち、冷や汗が止まらなくなっていた。先程まで確かにそこにいた筈の少女の姿が、気づけばどこにもなくなっていたのだ。他の友人であればまだしも、それが瀬灯であるなら……洒落にはならない。砂泉はそう直感していた。指先がふるえていた。

「いったいどうしたのよ、砂泉?」

「……ググるっ!」

「え? ググる? 何を?」

「場所! お母さん、わたし行ってくるから先にご飯食べてて!」

「えぇ?」

「いってきます!!」

 皿とエプロンをその場に置き捨てると、砂泉はスマートフォンと財布を掴んで慌ただしく駆け出してゆく。けたたましく玄関を飛び出した砂泉の背に、母がなにやら呼び掛けるが、聞こえもしなかった。



 この辺りでは最も広大な敷地を持つ病院の前。緩和ケア病棟のある病院などそうそう多くはないわけで、砂泉は容易にこの施設が彼女の居場所だと割り出せていた。ホームページで確認したE棟の面会時間は、0時から0時……つまるところ24時間で、今からでも当然訪ねられるのたった。

 淡いクリーム色の外壁を見上げつつ、緊急外来用の出入口からE棟を目指す。床に張られた白いテープを辿って暫く歩き、ナースステーションが見えたところで彼女の所在を尋ねた。

「秦野さんのお友達? 珍しいね」

「はい。……親友なんです。今までは、全然来れなかったんですけど」

「そうなの。じゃあ、秦野さんの病室はここね。314号室」

「ありがとうございます……」

 告げるでもなくつぶやくと、俯きがちに、早足でエレベーターに乗り込んだ。三階へ向かう箱の中には砂泉以外に人はおらず、のろまな上昇に舌打ちする砂泉の息遣いが飽和する。なんとなく、ぱっとしない感覚が胸中を満たしている。

 3階に降り立つなり、真っ先に、ここでは高級ホテルのロビーのように見えるゆったりとした談話室が目に留まる。人影はたいして多くなく、談話室のソファーに腰掛けなにやらメモ帳とにらめっこしていたがちょうど今立ち上がった若い男性が一人と、端で新聞を眺めている老人が一人だけ。白々しいようなそうでないような渇き淀んだ空気を吸って、砂泉は談話室を通りすぎ廊下を歩む。秦野瀬灯の名はすぐに見つかった。

 三回ノック。恐る恐る、扉に手をかける。少しの間が空く。何回か息を吐き出して、取っ手を横に引っ張った。

「早かったね……砂泉。ご飯食べてから来てもよかったのに……」

 聞きたかった声が、砂泉の耳を打った。ひどい安堵に身を任せて息を吐いた砂泉に、ベッドで身を起こしている瀬灯はやんわりと微笑みかける。その顔色は白を通り越して蒼い。電気が灯されていない室内では、大きな窓からの蒼い光と相まって瀬灯は異様に弱々しく見えた。否、実際に弱々しいのだ。瀬灯の身体は、あと数日ぶんの命しか携えていないのだから。

 瀬灯は、ゆっくりと立ち上がって部屋に明かりを灯した。足元も覚束ない様子だが、彼女自身はそれを気にも留めていなかった。E棟の入院患者がいちいち自分の体調など気にしていたらキリがなく、息もできないのである。

「……瀬灯……大丈夫なの?」

 ようやっと言葉を絞り出す。脱力感が砂泉の口調を弱めていた。

「うん。こっちの私が目覚めたから、引き戻されちゃったみたい」

「そうなんだ……よかった。すっごい心配した……」

 砂泉は言いながら、パイプ椅子を引っ張り出してきて腰を落ち着ける。瀬灯もその正面となる位置に腰掛け、沈黙した。瀬灯はすぅっと視線を足元へ落とし、細く、少しの息を呑む。

「……砂泉?」

 とても、とてもたおやかな響きを持った呼び掛けだった。砂泉は目をしばたたいて、何か? と視線で応じる。そして砂泉は見た。瀬灯の目の奥で震える色。彼女は泣き笑いに近い表情をしていた。

「心配してくれた?」

「そりゃあ……友達が死んじゃうかもってんだから、心底ね」

「そう……ありがとう」

 瀬灯にはなかったのである。命を、心から心配されることがなかった。だからか、砂泉の言葉が瀬灯には妙に心に染みる。嬉しくもあり、悲しくもあり、感動的でもあり……どこか悲劇的だった。瀬灯にはなかった。命を、誰かが気にかけてくれた経験がなかった。だから、どこかで自身を軽く見すぎていたのかもしれない。誰の心にも存在していない命だったからこそ、すんなりと割りきれていたのだ。自分だけで始まり、自分だけで終わる死なら構わない、と、ずっと瀬灯自身に言い聞かせてきたのである。砂泉の存在は、今になって瀬灯に衝撃を与えていた。

 瀬灯は、“つらい”を無視し続ければ、“無”だけが残ることを知っている。ずっとそうしてきたのだから。

 ……涙。

 気配だけのものだった。大したことではない。ほんの少し泣きたい気分になっただけだった。

 ねえ砂泉。あなたは私が死んだら泣いてくれる?

 口には出さない。が、もしこの問いの答えが肯定なら、それは嫌だと思う。痛切に。死ぬことは、罪だ。生きることだって等しく罪だ。それらは人を嘆かせるだけの行為であって、しかし人が存在している限りは致し方ない摂理なのである。あまりに残酷。世界はすべてが嘆きに満ちていて、すべてが嘆きに満ちていなければ微かな喜びさえ見出だせないようにできている。皆が等しく苦しい。皆が、苦しんで死ぬために必死になって生きる。

 唐突に理解した。もう涙の気配さえ消え失せていた。

「明日……また学校に行くね」

「よかった。行けそうなの?」

「なんとか……行けると思う。だから……砂泉、もう今日は帰って大丈夫だよ。ご飯はちゃんと食べなきゃ。……私も食べたかったけど、仕方ないから……」

「あっそだ、じゃあさじゃあさ、明日瀬灯にお弁当作っていくよ! これで私の念願もかなうしね」

「いいの?」

「うん! じゃあ、明日に備えて帰りますねっ!」

「……ほんとにありがとう。気を付けてね」

「ん、またねー瀬灯!」

 穏やかさは、どう頑張っても残りわずかだ。瀬灯も砂泉も、懸命になって笑顔を浮かべていた。

 一人になった病室。なんとなく落ち着かなくなって、瀬灯は再び明かりを消す。白々しい空気が消えた代わり、蒼い光に落とされた影たちが、不安定にゆらゆらと漂っていた。


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