【IF】後日談1


 朝方の強い秋風が窓を揺らした。ガタガタと鳴る窓枠に起こされ、私は気だるさを堪えてのろのろと目を開ける。そろそろ窓枠用のスポンジをつけるべきかな、なんて考えながら身を起こすと、目の前に置かれた鏡の中の自分と目があった。しばらく寝惚け顔の私を見つめると、むくむくと焦燥に似た感覚が胸から顔まで競り上がってくる。そうだ、笑わないと。

「おはよう」

 少しだけついた寝癖を整え、ガタガタうるさい窓の端で、私は鏡に向かって笑顔で言った。

 まだ寝ている両親を起こさぬよう身支度を整え、朝食もそこそこにそっと玄関を押し開ける。いってきます、それだけはちゃんと言うようにしている。ただし小声で、笑顔でだ。扉を閉めると張り詰めていた心持ちがとたんにほぐれ、外の冴えた空気を目一杯に吸って私は息をついた。人と会わない移動時間だけは唯一、気を抜いてもいいのだ。そして重たい足を引きずり、学校へ向かう。

 毎日必ず通りかかる近所の川が、今日はとても穏やかだった。秋だが、もう一週間は雨が降っていない。高く抜けるような青空に雲はちらほらとも見えず、濁った水面がその影を映すこともない。ゆったりとした水流は覗き込む私に答えず、この足元の橋をくぐり抜けて遠くへ遠くへ続いてゆく。しばらく眺めて、満足した私はそろそろ学校へ向かうことに決めた。

 今日の夕方、私は死ぬだろう。遺書は既に準備してある。

 あとは、最後の仕事をするだけだ。


 私の机にはいつもの通り、白い安物の花瓶に挿された枯れた花と、塵と、落書きとが。でも、そんなものたちにもう興味はないから、気にすることはなく椅子の上の画鋲を払い、席につく。肘をつくいとまもない机上には手を出さず縮こまっていると、どこからともなく、忍び笑いが室内をひそかに満たしていった。ねえ、片付けないの? 無言の圧力を帯びた視線が突き刺さってくるのも心地よくすらある。私が片付けなければ、いじめは教師の目に留まり、彼らは罰せられるだろう。そののちに逆上した彼らが報復に来るやもしれないが、知ったことではない。

 がたん。鳴り響く音に、刹那、教室じゅうが静まり返る。リーダー格が立ち上がったのだ。まっすぐにこちらに向かってきて、言葉はなく、塵がわんさと乗った机を私のほうへ押し倒してくる。私が花瓶だけは落とすまいと陶器を掴むと、庇いきれなかった塵が私の身体に舞いかかり、思わず噎せ返る。机が腹に食い込んで、少し痛む。笑い声がどっと増した。片付けろ、と、そういうことらしい。

 私は口元に笑みを貼り付け、花瓶を机に戻し、身体についた塵を払ってそのまま着席した。いつもならすくみ上がってそそくさと片付けてしまうのだが、今日だけは譲るまい。

 見ていろ。せいぜい笑え。楽しいでしょう? それも今日で終わるんだから、あなたたちの下世話な余興もみんな許してあげよう。仕返しはこれで済む。そう思うと、すべてが可笑しくて、こんな素晴らしい日はないと思えた。

 私が露骨に従わないのを見かねてか、ついに一人が声をあげる。

「これでまだ笑ってんの? 気持ち悪いんだけど」

「それはうれしいねー。あなたの気分が悪くなれば、私は幸せだよ」

「は?」

「あなたが私を貶めて楽しいのと同じ。わかりやすいでしょう?」

 煽る。そのやり方は、さんざんやられたお陰でなんとなくわかっていた。案の定相手は徐々に顔を赤くして、わかりやすく、煽られる。馬鹿だね、と思う私は優越感を得る。

「自分の立場わかってないの?」

「わかってるよ?」

 私はあなたたちと平等なのだ。だから、あなたたちにされただけ同じように貶めても、誰にも文句は言えない。行き過ぎない限りは制裁が許される。それがこの社会というものだ。

「全然わかってない!」

 つんざくような叫びは、いつの間にやら静まっていた周囲の沈黙に吸い込まれて消えた。私は立ち上がり、教室の出口へ向け、余裕たっぷりに歩む。どこへ行く気、と、怒りを含んだ声がそれを追随する。だっさいなあ。叫ぶばかりで、手を出せもしないくせに。

 くるりと踵を返し半回転、満面の笑みで彼らに向き直り、ずっと言ってやりたかった台詞を叩きつける。こうすることで、彼らは深く傷つき、成長してからもたびたびこの件を思い出すことになるだろう。私はそれで満足なのだ。

「せいぜい笑って、優越感に浸っていればいいよ。あとで現実を見るのは君達だからね。君達が私の一生の傷になってくれたお礼に、私が君達の一生の傷になってあげるよ」

 この言い方で察したのは少数だったらしい。さっと顔色を青ざめさせた者が何人か。私を追おうとした者は一人で、しかし空気によって尻込みし、動けなかった。所詮は皆が共犯者だ。誰か一人でも私を止められる者がいるなら、とっくにこんな不毛な事態だって収まっていたのだろう。どうあれ、手遅れではあるが。

 私が廊下に踏み出したとき、ちょうど始業の金が鳴り、教師が向かってきたところだった。教師は私に席につけと言ったが、私は得意の演技で体調が優れないことにして保健室の方向へ足を伸ばす。もちろん、保健室になど行きやしない。その足で昇降口へ向かった。

 うちの学校の下駄箱には蓋がついていないから、幸い靴に細工をされることはあまりない。難なく靴を履き替えようとして、すのこに足をかけるかかけまいかというとき――バタバタと、廊下のリノリウムを打つ足音が耳を打った。あれ、と思う。誰か、追ってこられたのだろうか。しかしそれは見当違いだった。私の目前まで来て足を止めたその人は、話したこともない、おそらくクラスさえ違う男子だった。小柄で前髪が長くて、見るからに暗そうなその人は、どことなく私と同類のようなオーラがあった。

 何秒か。見つめあい、すぐに少年が目を逸らす。変な奴だなあ。そう思うも、ぎしぎし悲鳴をあげるすのこを歩みながら、笑って問いかけてみる。

「君もサボりなのかな」

「あ、いや、まあそうだけどな」

「なんでそんな急いで?」

「なあ。名前は?」

「はい? 私?」挙動不審にも程がある。少年は質問にもまともに答えず、なにやら慌てた様子で尋ねてきた。「――瀬井園花だけど?」

 彼は信じられないとでも言い出しそうに目を見張り、絶句する。さらには、話ながらも靴を替え出ていこうとする私に、はっとした様子で続いてくる。何の用だか知れずに私は内心で眉根を寄せたが、まあいいか、どうせ今日限りだしな、と思い直す。待てよと彼は言って、私は構わずに足を前へ。やることがあるのだ。邪魔は、しないでほしかった。

「死ぬ気なんだろ?」

 背後からかけられた声に、私の足が――止まった。

 振り返る。無愛想な顔が私のへらへらとした笑みをにらんでいる。

「橋の手すりに遺書くくって、川に飛び込んで、死ぬ気なんだろ。親といじめへの仕返しに」

 突然、見知らぬ人から、心の内に固く秘めていたことを言い当てられる。これほど人の動揺を誘いやすい事柄があるだろうか。私は一瞬、呆然として、しかしまた笑みを浮かべることに成功する。笑顔と共に、平静を保つのだ。

「なにかの妄想かな? ちょっと面白いけど、インパクトに欠けると思うなあ」

「お前、」

「ねえ。君の名前は?」

 先ほどされたことを、やり返してやった。少年はかすかに面食らって押し黙る。その隙に、私は逃げ出すように背を向け、走り出していた。汚れた制服をひるがえし、もとから手にしていない荷物になど構わず両手を振って、どんどん前へ駆けてゆく。当然、後ろで少年が声をあげ、同じく走り出す。鬼ごっこのはじまりだ。しかし、おそらくは私も彼も体力のあるほうではないのだろう。いくつか区画を越え、あの川に辿り着く頃には、息も絶え絶え、二人して手すりにしがみつく有り様だった。

 ここは風通しが最高だ。冷たい秋風が熱く吹き出す汗をゆるりと乾かしてくれる。その心地よさに甘え、私達は橋の上でゆっくりと呼吸を整えた。

「……柏木成羅、だよ」

「へーえ、成羅くん、か。女の子みたいな名前、だね」

「…………」

「……はぁーっ、疲れた。で、何さ? いきなり何の用?」

 見やると、少年は私に構うことなく納戸色の川面を懐かしげに眺めていた。どこか遠いところを見る目で、揺らぐ水の流れゆくさまを取り逃すことなく記憶に納めていくみたいに、じっと俯いて見いっている。そんなに景色の良い川というわけではないのに、不思議なほどさまざまな感慨を秘める少年の表情に、私は息をつまらせる。心底哀しいような、それでいて嬉しいような、そんな。

 古びたアスファルトで形作られた橋を踏み、私は少年の隣に立って同じ景色を見た。質問への答えを促すつもりのその行為が彼には伝わらなかったようで、彼が口を開いたのはそれからたっぷりと時間が経ってからのことだった。

「なんなら一緒に死のうか?」

「……え?」

「お前に救われた命だから」

 私よりもよほど自然で穏やかな笑顔で、彼は言い放った。ついに思考が止まり、私は閉口して彼の長い前髪を見つめる。

「あのさ、成羅くん、もしかして私と昔なんかあったの?」

「あった。けっこういろいろ」

「へーえ……そんな記憶微塵もないんだけどなー」

「それは忘れたお前が酷い」

「教えてくれない君も酷いじゃんか」

「別に、昔のことなんていいだろ。俺は今のお前と話がしたい。あ、ちなみにこれ含めてさっきのも全部冗談だ」

「……え、冗談?」

 あっけにとられる。君、冗談なんて言うキャラにはとても見えないんだけど。しかもそんなたちの悪い冗談を。

 少年はそんな私を目に軽く笑って、

「俺はいろいろ面白い妄想をするから、ちょっと聞いてみてくれないか。冥土の土産にでも」

 そして少年は語りだした。歌うように、大切そうに、昔どこかの川で自殺したという少女の物語を紡いだ。

 幼いころからなかなか笑わない子で、家族や友人からも虐められ、そうかと言って笑う努力をしたらなおさら気味悪がられた。日を追うごとに虐めはエスカレートし、親は虐待の末に殺人予告までするようになり、少女は絶望し、仕返しのために自殺を決意したのだと言う。川に飛び込んだ少女は死に際、流れながらに思った。人には等しくこうして自分の意思で死ぬ権利が、逃げる権利があった。本当は怯える必要などなく、気ままに生きればよかったのだと。だから、後悔したのだ。死に際にようやく自らの自由を知って、苦しみから解放されたというのに、その先にはもう未来がない。いつ死んだっていい、誰にも文句は言えない、他でもない自分自身が――その時を今と定めてしまったことを。後悔して、そのまま命を絶ったそうだ。

 少年の口調は淡々としていた。話の中の少女を、憐れむでもなく、見下すでもなく、単純な物語として受け入れているようだった。語り終えた少年は、どう、と訊く。

「けっこう面白いだろ」

「全然だよ。ありふれすぎかな」

 私の酷評に、少年はそうかと言ってわずかに不満げにしてみせた。

「で?」

「でって、なんだよ」

「私の自殺を止めに来たんだよね、成羅くん?」

「は、なんで?」

「だったら今の話はなにかな」

「言ったろ。話がしたかった」

 だいいち、お前が行く気なら俺に止める権利はねえよ。そう言って彼は私に背を向けた。いきなり話しかけて悪かった、それじゃあ。私は憮然としてその姿をにらんだ。少年がアスファルトを踏む小さな音が耳にこびりついて、当分は離れそうにない。ぼうっとその背を見送ろうとする自分が、なんだか滑稽に思えて、用もないのに、何かを言うべきだろうと直感する。だが、どんな言葉がいいか、わかりかねて、私はそのまま沈黙する。結局、前を行く背は小さくなり、気づけばもう消えていた。

 流水音と、耳のなかでうねる風の音だけが、世界を満たした。

 平日の朝方。閑静な住宅街の一角。ここは、とても静かだ。

 私は制服の内ポケットに手を差し入れ、折り畳まれたルーズリーフと小さな手鏡を引きずり出す。そこには私の全てがある。まずは鏡のほうを開き、自分の顔を確認して、それから。ぽちゃん、と呆気ない音がして、飾り気のない手鏡が水面を穿ち、納戸色に飲み込まれる。少し待って、手鏡がもうじゅうぶんに流されたかといったところで、髪を結わいていたゴムを解いて、ルーズリーフと共に橋の手すりにくくりつける。これで、準備ができた。覚悟を決める。

 ふわりと、闇がほどける。

 その感覚だけは覚えているんだ。

「私は命を持て余したくない。ただ、それだけのことなんだよ」




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