8 ラスト


 目が覚めると、視界に広がる薄暗い水色と、鼻につく木と紙の匂いが少年を出迎える。何度か瞬きを繰り返して、その水色は自分がいつも机にただ敷いているだけのノートの色で、匂いは自分の机によるものだと理解する。少年は咄嗟にもぞもぞと体を動かし、一つの疑問、そして結論に辿り着く。

 ……あれ。

 生きている。

 勢いよく、但しほんの僅かにのみ顔を上げれば、そこはまさにいつも通りの日常を切り取った風景、つまり授業中の教室の中で、少年は驚きに目を見張る。少女の存在や二つ目の生、はたまた二回の死まで、全てが夢だったのではないか。そんなえもいわれない恐怖にとらわれ辺りをキョロキョロと見回し、やがて少年は小さく息をついた。これは夢なんかでなく、三つ目の生だ、と。

「…………っ」

 なぜそれがわかったか。その答えは、少年の視線の先、一週間眺め続けていた少女の机の上に、無造作に置かれた花瓶にある。花瓶が置かれているとなれば意味することは一つで、あの少女は、瀬井園花は、死んだらしい。滑らかな曲線を描く細いフォルムのガラス花瓶の中には、既に萎れた花やゴミが無造作に入れられている。

 死んでまでいじめられている少女の実態を目の当たりにし、心がすっと冷え込むような怒りを覚える自分は、どうやらいつの間にか少女を気に入っていたらしい。他人事のようにそれを知り、少年は僅かに笑みを浮かべた。

 が、彼女は自由に死を選び日常から逃げきったのだから、少女へのいじめももうこれで終わるのだろう。彼女の恐怖は、痛みは全てが終わりを告げるのだ。

 対して少年の命は今、始まりを告げた。おそらく少女の命を犠牲にして、少年は三つ目の生を、望んだ生を始めることができている。

 ありがとう。

 もう一度心の中で呟いてみても、少女がそれに笑いかけることは決してないということが悲しくて、少年は花瓶から視線を逸らした。やっと何かを得た少年が少女と話したのはたかが一言二言のみで、せめてもう少し話していたかったと思ってしまうのは致し方ないことである。今の自分と話したらあの少女がどんな笑みを浮かべるのか知りたくなったのも、遅い。

 何もなかった少年に足りなかったのは、痛みと恐怖。それをあんなにも容易く導き出した少女による殺人が、少年にどれだけのものを与えたのだろうか? 解けなかった問いを瞬時に解いてみせた少女に、少年はどれだけのものを返せたのだろうか? 痛みと恐怖に支配され苦しんで生きてきた少女に一度は虚しさを感じた少年が、今ではひたすらに有り難さばかりを感じていることを、少女は知っているのだろうか? それらの問いは今度こそ解かれない問いだが、確かなのは、少女の人生すべてが、彼女のすべての苦しみが、今の自分を導いたこと。自分は、少女を苛んだすべての元凶にまで、感謝していること。彼女に苦しんだ経験がなければ、今ここで生きている少年もいなかったこと。

 そして、そうして無数に生まれた想いも、届くことはないということ。

 それでもいい。人は自由でいいのだから、少女は少女なりに自由に、少年は少年なりに自由にやればいい。そんな投げやりな考えが結局二人の自殺者をこんな場所まで運んできたのだが、少年はそう自分に言い聞かせた。

 ……あとの人生は自由で、縛ってくれるものなんてありはしない。

 その事実に少年は、今更恐怖を覚え、小さく身を震わせる。自由の広さと孤独さに呆然とし、自分一人の選択が生死に繋がる世界で生きることを目の当たりにして、じわじわと恐怖は広がっていく。

 やがて、少年はノートを開いた。

 怖いと思うことさえ今は嬉しい。だからこそこれからを生きなくてはならない、つまり少女にもらった生を無駄にはできないのだ。自分で殺した日常に戻ろうとは断じて思わない。

 ……これから生きる世界に、今までの日常は亡いのだから。





(了)

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