…………暗い……。

 真っ暗で真っ黒で何一つ見えはしないことを人は闇と呼ぶのだろうが、何も見えないのではなく何も無いからこそ有るこの暗さも、はたして闇と呼んでよいのだろうか?

 少年はぼんやりとした意識だけを抱いて、闇の道をただただ歩いていた。それしかすることなどないと言うように、足音も響かない無の中をひた進む。そこでは光も音も時間も空間も存在しはせず、歩くという自身の動作だけが存在と呼べた。

 …………。

 ……。

 ポタッ。

 永らく永らく働いていなかった少年の耳が、ほんの微かに、けれど確かな音を久しく受け取る。それが何か解らずに周囲を見回してみるも、暗い暗い闇が続くばかりだ。

 ポタッ。ポタッ。

 さらに頻度を増して聞こえてくるその音が水滴の落ちる音だと気付くのに、落ちる水滴が自分の涙だと気付くのに、一体どれだけかかったことだろう。ここに時間などないのだから、それを知り得る術もまたないのだが、自分が泣いているとやっと気がついたことで、少年は思い出すことができた。

 自分が誰で、どんな人間だったか。どんな出来事があったか。ここを歩き出す前どんな状況だったか。

「……また、死んだのか」

 一度手放した筈の人格が少年へ戻ってきて、記憶という名の曖昧な時空間も返ってきて、考える力が蘇って、そこに光が再生した。曇天の中のように鈍色に輝く世界で、少年は立ち止まり一人佇んでいる。

 最初に感じたのは痛み。この闇に対する寂しさ。次に感じたのは驚き。自分が寂しいなんて感じることは、今まででは考えられなかった話である。

 虚無感以外の感情を、手に入れたのだ――。

 そう思うといっそう涙が出た。心願が成されたことへの歓喜と、もう自分が死んでしまっていることへの落胆が入り交じり、無性に涙がとどめなく溢れ出てくる。あたかも今まで泣けなかった分を取り返すようなその雫たちが鈍い光を受けて輝くのを、少年は長い間見つめ続けた。

 ……死んでから生きていたころの願いを叶えるだなんて、どんな皮肉だよ。

 悔しい。嬉しい。晴れがましい。可笑しい。寂しい。悲しい。申し訳ない。嬉しい。嬉しい……。激しい感情の奔流が少年に襲い掛かり、処理しきれなかったらしい頭が痛みを訴え始め、光と同じく鈍く曖昧に少年を蝕む痛みは川の中以来のもので、少年は懐かしさすら覚えた。

「は、……はは、は」

 ついには、少年は声を上げて笑い出す。何が可笑しくて笑っているのかもわからないほど様々な感情にもみくちゃにされて、慣れないそれに少しばかり疲労して、それでも涙と笑いは止まらない。

 止まらない。どうにも、心の中には留められない。

 狂いだしそうになるのだけはなんとか押し留め、少年は歪な表情のまま小さく呟く。

「ありがとう」

 当然それは、自分を二回目の死へ導いた少女に向けての言葉。自分の心願を叶えてくれた少女に向けての言葉。

 ふわりと、闇がほどける。

「へぇ、私にお礼を言う人なんて初めて見たよ。どういたしまして?」

 自らの言葉に応えたその声に驚いて、少年は咄嗟に顔を上げる。明るみ始めた世界が白んでゆく様子を背にして立つ少女は、相変わらずの満面の笑みで首を傾げ、少年に手を差し出した。少年はその手をとって立ち上がり、もう一度はっきりと自身の気持ちを声に出す。

「ありがとう」

「……こちらこそ、二回も言ってくれてありがとう。私も嬉しいよ」

 決して気取らない笑顔を浮かべる少女の返答に少年が頷くと、少女は握った手は離さないまま、その笑顔を消して切り出す。

「さて、成羅くん。キミは……」

 無の闇が有の世界に溶けていくのを、舞う光が色を帯びていくのを、少年は肌で感じた。世界に時空が“始まる”ことを知らせる白い光が、そこに満ち満ちていた鈍い灰色を塗り替え、透明に包み込む。少女の紡ぐ少年へ問いかける台詞も、光にもみ消されて――。

「……キミは、生きたいよね」

 繋いでいた手が離れ、眩しさに目が眩んだ。


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