6
語り終える頃には、少女の顔から一切の表情が消え失せていた。瞳にのみ微かな光を灯し、後は風と共に無に帰して、水面をなぞり流れる無音をそこに際立てている。耳鳴りすら無い無音と、対象的な鮮やかな橋の茶色、その下に滑らかに聳えるくすんだなんど色の川面が、死んだ二人の世界をなんとも中途半端に生かしている。少年は何も言わず無音に沈み、揺らめく橋と自分達の影を眺めていた。
しばらくすると、舞い荒ぶ風が止まっていた音を世界へ運び、再生する。川の流れ以外の全てが止まってしまったかのような時間はそこで途切れ、少年は風にかき消えさせることのない調子で徐に問う。
「……俺は、」
少女はその声に、川面から視線を外して少年へと振り返る。橋の柵を握った少年は、少女を見据えつつ続けた。
「どうしたら……お前の話に同情できるんだ?」
それはどこまでも純粋な疑問だった。自分を自殺へ追いやった元凶、ここが地獄である根拠、これを何度も何度も疑い、そして答えは出なかった問い。感慨を覚えるどころか興味を持とうと、知ろうとすることにさえ虚無感しか抱けない自分への恨めしさを、言葉で綴った結果。
少女はそれを聞くなり、またも口元を歪め、目を細めてふわりとした笑みを顔全体に浮かべる。優しくも冷たさを帯びた表情のままつかつかと、そんなにもない少年への距離を詰めて、答えは知ってるよと自慢するようにくすりと笑みを漏らして見せた。
「面白いこと言うね、キミは。……そうだね、それじゃあここは地獄だね」
これまた知っていて焦らすような言い方に、少年は黙ることで先を急かした。少女は口元は歪めたまま、その目には虚ろさを滲ませて呆気なく言い放つ。
「足りないんだよ。キミには」
表情も声色も笑っているのに、なぜだかひどく冷たいその言葉。いつのまにやら少女が握っていた少年の手も、同時に冷たい。少女は冷ややかさを保ったままに、柔らかく、ただ柔らかく言葉を紡ぐ。
「……なんなら私が、解決しようかな? ねえ、生羅くん」
少女はそう言うと、土手と橋の境、ガードレールと柵の隙間へと少年の手を引いて連れ出した。そして、相も変わらず何も言おうとはしない少年を労るように、そっと手を離して、
「足りないのは、痛みと恐怖だよ」
その背中に掌を押し当て、濁った川面へ少年を突き落とした。
最初に感じたのは強い衝撃だった。体が水圧と気圧に打たれ、パンッと派手な音をたてて、少年の肺から空気を吐き出させる。呆気なく沈み込んだ少年の体によくわからない何かがベトベトとまとわりつき、少年の呼吸はそこで一切遮断される。それから次に覚えたのは身体中の痛み。水の流れの速さにより少年の身体が押され、押され、押されて、全身の軋んでいる感覚が全力で焦燥を訴えてくる。
死んでしまいそうだ、と。
少年は、そんなことを気にしているのではないと思考の中で返答し、さらに言葉を続けようとして、また次の認識へ移行する。
苦しい。
息ができないからなどという理由はもはや浮かばず、ひたすらに苦しさだけが広がっていく。胸がつかえ、締め付けられ、感覚がなくなり体が一ミリも動かせず、脳がだんだん麻痺してきて、苦しいという言葉すら浮かばなくなるくらい苦しみだけが少年を支配する。先ほどまでの激痛すら微少に思えるほど、酸素がないという現状が少年の意識すら塗り変える。感情が混濁し、意識が遠退いていく。
苦しい。
苦しい。
くるしい。
クルシイ。
わからなくなる。走馬灯なんてただのはったり、あまりの苦しさになにもかもがわからなくなる。自分は誰か? 今どうしているか? 何がどうなっているか? もちろんそんな疑問も浮かびはしない。
ああ……
このまま意識を手放せたら。全て放棄して死に身を委ねたら。それは、とても魅力的な話だ。今は痛みのせいでどうにもまだ意識が残っているけれど。
死にたくないと思える脳ももう機能しないのだ。
死のう。
さぁ、激流よ。この身を砕いてくれ。今すぐにこの体を岩か何かに叩きつけて、この世の全てを断ち切ってくれ……!
そして、少年の知らないどこか、遠い遠いどこかで、濁った水が白い泡をたて、波しぶきが激しくけたたましい騒音を響かせた。
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