第261話:天敵

 頑強とは言っても人体の急所の一つが後頭部である構造は変わらない。

 要するに地面に叩き伏せられた体勢から反撃を行うのは、あくまでも人間ベースの肉体の人狼では不可能だと断言できる。


 その思考そのものが一滴の油断だったと知るのは、ほんの二秒後。


 彗が多少なりとも油断をしてしまったのは無理もなかった。

 この言わばマウントを取れる体勢に持って行った上に、相手の急所に全力で衝撃を与えた現状は決着と見てもいい。

 無論、彗は気を抜ける相手でないと理解していたが、一瞬でも気を緩めてしまったのは失敗と言えど責められることではない。


「こい、つ……!!」


 なぜなら、人間の肉体をベースにした彗の考えは間違っていなかった。

 構造上では、人狼が腕を満足な状態で振れない体勢からの反撃は難しいのだ。

 つまり、人狼が行った反撃は自分の肉体によるものではなかったし、事前に罠を仕掛けていたわけでもない。


 ごぼり、と紅の何かが気体のように零れ出す。


 実体を持たないはずの赤色は、まるで腕の如く九重を目掛けて襲い掛かる。

 九重とて気を抜いたつもりはなくとも、その奇襲だけは予想外で当然だ。

 人狼の腕は地面付近にあるのに分離した紅の何かだけが刃と化して、敵を貫かんと殺意を体現して走る。


 彗から少し横に九重、その位置関係では人狼を叩くにも間に合わない。



 ———鮮血が周囲に散る。



 間に合ったのは攻撃ではなかった。



「な、何……して」


 呆然と呟く九重は不意に突き飛ばしてきた男を呆然と見返す。


 紅い刃が貫いたのは九重でなく、彼女を逃がすだけで精一杯だった彗の胴。

 ごぽりと包丁で刺されたに近い傷口から血液が零れ出し、九重は咄嗟に彗の腹に突き刺さった紅色の刃に向かって槍を叩き付ける。

 刃自体は霧散したものの、人狼本体はよろめきながらも立ち上がった。


 後頭部に彗の一撃を貰って意識があるのが既に驚異的だ。


 今度は九重側が選択を迫られ、自分だけでも持て余しているのに彗を守り治療を受けさせるとあらば難易度が別次元である。

 彗は呼吸はしているので息はあるが、時間が経てば変異者といえど怪しい。


「逃……げ……」


 まだ呟こうとする彗の想いなど彼女には理解できない。


 彼はそこまで他人を優先するタイプではないと思っていたのに。

 出会ったばかりの九重を庇って倒れる理由なんて何処にもないはずだった。

 本当になぜ庇われたのかが解っていないが、このまま九重のせいで死なせてはならないことだけは間違いない。


「死なせ、ないッ!!」


 難易度が高かろうと死なせない覚悟のみで震える足を踏み締める。

 相手が九重一人では絶対に勝てない相手だとしても。


 人の世は変異者も変わらず、時には残酷だ。


 変異者同士は強い者が勝ち、敗北者が逃げることも許されずに圧倒的な実力差で殺害された例も挙げればキリがない。

 勝てない相手には勝てないし、死ぬ時は死ぬしかないのが変異者の世界。

 この戦況は精神論だけでは覆らない。いかに頑張ろうと状況の圧倒的不利も彼女の死も、逃れ得ぬ未来として口を開けて待っていた。


 自身の手に余るものならば、人は一人で運命を覆すには力が足りない。


 黒の騎士も今この場では助けに来るはずもなく、恵と竜胆が別の捜索に出ている以上はレギオン・レイド側からの増援も望めないだろう。




「………反発せよリアクティブッ!!」




 中空から鈴が鳴るような声が降ってきたのは、その時だった。


 空を裂く蒼色の輝きはアスファルトの地面と人狼の右腕装甲の一部を容易く割り、周囲の空間に小さな氷柱を振り撒いていた。

 九重も知っている相手、ここにいるはずのない人間が現実に存在している。


「早く連れてってあげて。こいつは私が見とくから」


「なんで……あんたが?」


「事情は後だって。早く早くっ!!」


 唯はぱちんと小さくウインクすると、右手に具現化した剣を握り直す。

 天瀬唯はレギオン・レイドのメンバーに過ぎず、エンプレス・ロアに味方する義理も事情もないはずだ。増してや、この場所をなぜ知っていたのか疑問が残る。


 そして、九重が彗を抱えて去った後。


 人狼は裂かれた右腕の血液を止めようともせずに唯と対峙していた。

 唯の具現器は剣と銃を同時に使用できる対応力の高い武装だが、人狼側は爪のみしか今の所は使用していない。

 人狼が吸収するか、唯が先に装甲を裂くか。どちらも速度に優れた変異者だけに勝負は単純明快な内容へと発展すると思われた。


「さて、それじゃ……始めよっか!!」


 唯は真っすぐに駆けると無造作に剣を振るう。

 僅かに冷気を放つ剣を視認し、人狼は回避の一手を選択すると具現器が纏う能力を奪おうと爪で直に刃を叩き返す。

 新たな能力さえ得てしまえば、いかにスカーレット・フォースの精鋭と言えども自分を殺し得ないと絶対の自信を持って。


 しかし、人狼はすぐに異変に気付く。


「奪えるはずないじゃん。私の具現器……知らないよね?」


 唯が不敵に笑った通り、人狼は初めて力の末端すら得られずに困惑した。

 いかに強大な力だろうと、触れれば一欠片程度は奪えるはずが全く力を得られていない理由に思い至らない。

 唯はあえて、その理由を告げずに有利に戦況を運んでいく。


 具現器アバター・セイレーンは、傷付けた具現器の機能を減退させる。


 人狼の装甲は他の具現器の能力を纏う為の器であり、その機能が減退すればまず奪われるのは他者の能力を吸収する力だ。

 唯は相手から能力を吸収する手段を、根本から断ち切れる数少ない変異者。続けて何度か斬られれば今までに得た能力すら凍結されかねない。


「…………くそッ!!」


 人狼は滅多に漏らさない声を漏らして現状を噛み締めた。

 少女の正体を完全に知っているわけではないが明らかな事実がある。


 この少女は、紛れもなく天敵だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る