第237話:水辺の安寧-Ⅱ
「楓人から先に行っていいよ」
「おう、そうか。じゃあ先に滑るぞ」
何かカンナと椿希が目配せした気はするが、きっと気のせいだと言い聞かせて滑る前の位置へと腰を下ろした。
何か嫌な予感がひしひしと押し寄せるが、それでも気のせいのはずだった。
「私、右貰っちゃおうかな」
「……じゃあ、逆にしましょう」
カンナはこの上なく嬉しそうに、椿希は目を逸らしながら、楓人の隣にぴとりとくっついて腕を絡めてくる。
係員の人が早く注意しろと思わなくもないが、今は何とも都合よく席を外してしまっているようである。
あの目配せはそういうことか、と恋愛的には宿敵のはずなのに妙に仲の良い二人の連携に戦慄しつつも振り払うわけにもいかない。
「じゃ、スタートっ!!」
「スタートっ!!じゃねえええええ!!!!」
カンナの馬鹿力のせいで、強引に滑り始める楓人の視界がほぼ反転しながらもコーナーを曲がり、ゴールの水面へと近付いていく。
もはや、どちらの胸やら太ももやらに誤爆的にタッチしたか記憶していないほどの速度で視界はいきなり水の中へと沈んだ。
音が消えて、自分の吐く息が泡となって零れる様を見ながら水面に顔を出す。
「ぷ、はっ!!カンナ、お前の馬鹿力で押したらこうなるに決まってんだろ。コースアウトするかと思ったわ!!」
「わ、私そんなムキムキじゃないよ!!」
「まあ、確かに柔らかかったしなぁ」
椿希は楓人が抱えて念の為に守ったが、人間離れした力でスタートしたウォータースライダーは地獄が見えるのだと初めて知った。
貴重な体験ではあるが、同時に恐怖を覚えるまでの速度は最早、滑落と言える。
「楓人、さりげなく私のこといっぱい触ってたよね……えっち」
「いっぱい所か、おっ……何でもないから、腕の皮をつねるな」
「私も大分、触られた気がするわ」
「椿希、俺が変態オヤジかのような言い方はやめてくれ」
変異者であるのは否定し難いが、変質者になったつもりはない。
むしろ、あの状況で一般人の椿希だけでも守ろうとしたのは殊勲者だと思うのだが、世間の風当たりは冷たいものである。
女性に興味はあるが、今回の状況でラッキースケベを期待したわけではない。
しかも、冷静に振り返ってみれば、略してラキスケを挑んできたのは確実にカンナや椿希の悪乗りのせいではないか、とはわざわざ言わない。
「ありがとう、助かったわ。悪ふざけし過ぎたわね」
だが、椿希はくすりと笑うとこっそり囁いてくる。
意外と言うと失礼かもしれないが、世の中には必死の働きを見てくれている人間もいるものだった。
「次は怪我しないように気を付ければいいだろ。ぶっちゃけ楽しかったし」
「そう言えば、カンナも力凄いんだったわね」
「ああ、ムキムキだからな」
「そ、そういえば、ちょっぴり体重増えたかも。頑張ってスタイル良くしようと頑張ってるのにー……」
「カンナは羨ましくなるくらいにスタイルいいわ。努力の成果はちゃんと出てるから安心していいんじゃないかしら」
「椿希ー、ありがとー!!」
抱き着いてくるカンナに若干、苦笑しながらもされるがままになる椿希。
結局の所はカンナと椿希はお互いのことが大好きなので、こうして親密に付き合いを続けていられるのだろう。
二人の心根の良さも大いに関係しているのはもちろんなのだが。
「おーい、楓人。ちょっと泳がねえ?別に競争しようってんじゃないけどよ」
燐花とじゃれ合っていた柳太郎がこちらに来ており、レーン分けされた競泳用のプールを指さしてにやりと笑う。
変異者同士が全力で水を掻けば、とんでもない波が起こるのは解り切っているし速度も異常なものになってしまうだろう。
それを理解している柳太郎だから、泳ぐ速さを競うのが無理と悟っている。
変異者が本当の意味で、好きなことをして生きるのは無理だ。
人の身には過ぎた力を持つ変異者は、どうしても自分の最大出力を抑えて生きることになってしまうからだ。
だから、プールだけ一つを取っても常に加減を強いられている。
もしかしたら、人が本音を隠し続けて生きる集団の在り方にも、似通っている点はあるのかもしれないが。
「よし、久しぶりに泳ぐか!!」
「ついでに光先輩も連れてくっか。子供用プールから出てきたみてーだし」
怜司や明璃も燐花と合流して流れるプールを楽しんでいるようだし、こちらも久しぶりに男三人で水中ながら水入らずで時間を過ごすもよかろう。
柳太郎が引っ張ってきた光をプールに入れるなり、凄まじい速度で泳ぎ始める。
相変わらず、たまに変態的な発作を起こすだけで基本スペックは高い人だった。
「ふむ、中々だ。競争といかないか?」
「……あー、別にいいっすよ」
純然たる勝負に加減するのは気が引けるが、まともに勝負するわけにもいかないので手加減を入れるのは仕方あるまい。
結局、二十五メートル競走をさせられてしまうが、器用な柳太郎は上手くギリギリで年長に勝ちを譲る辺りが大人だった。
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