第138話:正体
指を取り出したハンカチで拭うと紅月は語り始める。
あの日になぜアスタロトが今のような存在になったのか、加えて
「そうだな。最初に結論を言おう。アスタロト、彼女は―――」
そして、ようやく楓人は相棒の正体を知ることになる。
「変異者として完全に覚醒することなく、本来は命を落とすはずだった人間だよ」
「・・・・・・人間、だと?」
“嘘・・・・・・私が?”
確かにカンナは
だが、本質的に人間だと言うならば、アスタロトの力を楓人に捧げてくれる状態の彼女が何なのか説明が付かない。
存在そのものを完全に変える変異者などいないはずなのだから。
「前提から話をしよう。黒の騎士は無意識ながら大災害前から力を持っていた、これは間違いない。しかし、アスタロトがキミの中に存在していても主が覚醒しなければ存在しないも同義だ」
「お前の言う通りなら、アスタロトは
「人間と同じ生命活動を行える
ようやく、紅月はアスタロトに関する全てを語り始める。
それは奇しくも二人の関係にさえ変化をもたらすものだった。
「大災害の日、俺は燃え盛る街の中を歩いた。救える人間を求めて地獄を進んだ。その中で出会ったのはアスタロトではない少女だったんだ」
紅月が過去を語りながら、まるでその日の出来事を悼むように目を閉じる様子からも大災害を許せないと考えているのが伝わってくる。
“それが、私なの・・・・・・?”
「ああ、変異者になりかけた彼女の命は今にも燃え尽きようとしていた。俺が手を差し伸べる意味も無い、が・・・・・・祈りを聞いてしまってね。彼女はその状況で人を救うべく動こうとしていた。人々の幸福が引き裂かれないように。清らかな祈りには、救いがあって然るべきだと思わないか?」
命が消えゆくのを知って、なお見ず知らずの他人の為に祈りを捧げられる強さを持った人間はそう多くはない。
死の間際に自分の生を強く願うのは当然の心理であり、烏間のように自分の命でさえも手放せる歪みを抱えた人間もまたごく少数だ。
だから、最後に祈りを捧げた人間がいたならば美しさに目を奪われるだろう。
その気持ちだけは、信じるに至らない紅月の言葉でも共感できる所だった。
「俺とて消える人間の命までは救えない。だが、そこで目に着いたのは炎の中を歩く少年・・・・・・今はどう成長したか知らないがキミだよ」
「俺のことも知っていたのか?」
「六年前の話だ、素性までは知らない。変異者としての力が覚醒し始めたキミは、炎の中で自分の命を惜しんでなお他人の死を悼んだ。恐怖を受け入れて前に進む強さを持つキミも救うに値すると俺は判断した。そこで一つ、彼女を生存させる方法を思い付いたのさ」
それがアスタロトが誕生した理由だと、もう楓人にも理解できていた。
「
アスタロトが人間の肉体を持っていた理由がようやく合点がいった。
人間として在り続けられたのは人間の肉体を持つ能力でも、人間が
人として失われつつあった命をアスタロトという存在で埋めた結果、人間としても
要するに彼女は元を辿るなら、死ぬはずだった人間なのだ。
「……そういうことかよ、お前が関わってたんだな」
「あの精神状態では、恐らくはキミも強力なアスタロトを制御し切れずに命を落としていた。アスタロトは主を救うために器を求めたんだ。その利害が一致しただけのことさ」
「アスタロトが、望んだってことか?」
「その通りだ。彼女の力は主の認識に大きく依存する。本来は不安定な存在だが、周囲とキミが人間と認識し続けたことで半永久的に彼女は人間の姿を持つようになった。奇跡的なまでにキミとの相性が良かったのも要因だろう」
つまり、槍型含む形態や黒い風への変化を最終的に決めるのは楓人がどう認識するかにかかっている。
雲雀カンナとして生きているのも、楓人が過去に不安定だった状態の彼女を完全に人間として認識したことがきっかけだろう。
最初は安定してカンナの姿にはなれなかったのも、楓人が彼女を人間として受け入れるかを迷っていたからだ。
楓人が彼女が人間と定義し、周囲が彼女を人間として見続けたことで半永久的な存在の安定を可能にした。
何にせよアスタロトが楓人の命を救い、アスタロトに少女の命が救われたという事実は疑いようはなかった。
だからこそ、楓人は辛うじて冷静さを保っていられる。
「正体を烏間にも伝えなかったのは、器になった子に思い入れがあったからか?」
「救うに値した彼女が、キミと生き続けることを望んでいる。それを邪魔するほど非情ではないつもりだよ。良き人間の幸福は阻害されるべきでないと俺は考える」
「・・・・・・そうかよ」
正直言って、急にその事実を突き付けられても頭の中が整理できていない。
カンナとは今まで通りに相棒としてやっていくことに変わりはないが、彼女が正しく人間だと知ったことで望まれない遠慮をしてしまいそうで怖かった。
「烏間は最後に何か言おうとしてたが、大災害について何か知っているのか?」
「俺に聞かれても困るな。彼女との出会いに居合わせた、話が出来るのはその程度のものだ」
そして、紅月は踵を返してその場から立ち去っていく。
ここでの用件は全て終わったとばかりに楓人と戦闘を続けることもなく、無警戒とも言える程に堂々と背中を晒して歩いていく。
だが、最後に一つだけ聞いておかなければならなかった。
「なぜ、それを俺に話したんだ?」
「俺はキミには期待している。そして、黒の騎士がそれ以上の力を得るならば彼女の全てを知る必要がある。俺なりに塩を送ったんだ、期待を裏切らないでくれ」
そして、今度こそ足を止めずに紅の王はその場を後にする。
アスタロトの正体を他人に口にすることはない、と最後に言い残してその姿は見えなくなった。
かくして、烏間との戦いは様々な出来事と共に望まぬ形で終わりを告げる。
後には楓人が烏間を殺そうと決意したせいで残った強い苦さと、改めて強く実感した命の重さだけが残ったのだった。
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