第116話:氷華
足を止めたのは目深に帽子を被った客観的に見ても陰気な男だった。
肩まで伸びた髪に痩せた顔の中で瞳だけは異様に狂気染みた光を帯びており、その様子は落ち着いてはいるものの自身の制御を出来ているかが怪しい。
「もしかして、暴走しちゃった感じかな?」
「僕は正常なつもりだ、エンプレス・ロアの人間か?」
その声には卑屈さこそ宿っているが口調そのものはしっかりしていて会話には困らなかった。
「残念、別団体だよ。まー、そっちからしたら今は敵だろうけどね」
唯は嫌悪を表情に露骨に見せながらも男の挙動を伺いながら進路を塞ぐ形で一跳びで更に位置を移す。
普通の人間ならば得体の知れない狂気を宿した男相手に怯えるだろうが、変異者とは己の変革と共に感性にも変化が見える。
例えば、強力な変異者は本能的に己が強者だと理解した先に戦うことへの恐怖という感情がやや薄くなり易い。
その自信に満ちた所作は唯が強力な変異者である証明だったが、自分の力に呑まれた男も同じ感性を獲得していた。
そうでなければ人を傷付ける為に武器を振るう闘争がまかり通るはずがない。
結論として、人のいなくなったショッピングモールには戦場の気配が宿る。
「関係ないなら消えろ。僕は・・・・・・自分の力を証明しなきゃならないんだ」
笑うように、泣くように男は顔を歪ませる。
時に自分への卑屈さや過去への脱却を目的に動く人間は存在するとはいえ、男のそれは明らかに妄執にも似ていて唯からすれば見るに堪えなかった。
蔑んでいるわけではないが、明らかに正常ではない。
「ま、どんな理由で戦っててもとやかく言うことじゃないのかもしれないけどさ―――」
唯は吐き捨てるようにそう言うと戦意を研ぎ澄ます。
「悪いけど単純にムカつくんだよね」
この男は多くの人間を過去への妄執から来る快楽で殺めた人間なのは確実だ。
唯には目の前の敵を許す気は皆無、あまりにも俗すぎる暴走への動機を見て救おうとする気持ちも既に失せかけていた。
人は皆、幸せになるべきだと唯は心から思う。
だが、既に狂ってしまって絶対に救えない人間が存在することも、彼女は知っていたから迷うことなく力を振るえる。
狂うことにも罪はないのかもしれないが、狂った以上は引導を渡すのが慈悲であり憐憫なのだろう。
何よりどんな事情があったとしても他人の命で欲望を埋めようとするのが許せなかった。
コミュニティーのリーダーからも “彼がやりすぎるようなら容赦はするな” と言われており、許すべきではないと彼女の心の奥底から衝動が湧き上がってくる。
「・・・・・・お前、スカーレット・フォースか。僕を始末しろとでも言われたか?まあ、いい。邪魔をするならお前も僕の敵だ」
そう主が告げるのを合図に床を這うようにして、腕が異常に長く半人型を保った異形が姿を現す。
ひび割れた仮面と空洞になった目は並みの人間が出会ったら発狂しかねないおぞましさを帯びていたが、唯はそれを一瞥するなり視線を使役する男に戻した。
素手ではこの動作性を誇る異形達を捌くには主に攻撃面で多少は不安があると今の一瞬で読んだ。
それほどに人形の質が上がった原因は床に零れ落ちる血液。
変異者の血液を使用することでより人間に近付いた人形は動きの繊細さを獲得したというわけだ。
―――ああ、絶対にこの男はここで潰す。
「・・・・・・おいで、セイレーン」
唯が左手に構えたのはまるで魚のヒレを思わせる刃を左側面に備え、空色に薄く透き通った銃型の
ゲームセンターで片手しか使わなかったのは、その銃を片手で扱う戦い方に普段から慣れきってしまっていたからだ。
燐花のホークアリアの弾丸が風の塊ならば、セイレーンの弾丸は氷柱を小さく凝縮したような雹に近いものだった。
弾を撃ち出すのは銃の内部で破裂する氷塊が起こす小規模な爆発、故にセイレーンには明確な弱点がある。
連射されるは八発の弾丸、それらは難なく人形の額と胸を撃ち抜いて命中箇所を中心に氷結させて機能不全に追い込む。
一度まともに当たれば敵を蝕む魔性の弾丸、それが呪いにも似たセイレーンの強力無比な力の一端だった。
八の弾丸を打ち切ると再度の補充が開始されており、その連射速度は片手で銃を操っているにも関わらず燐花よりも優れている。
そして、次々に現れる人形を撃ち抜きながら唯は銃身を眺める。
ビキンと内部爆発の影響で銃身に入った亀裂の修復にリソースを回す関係でどうしても弾丸の補充が遅れる瞬間がある。
それがセイレーンの抱える欠点だが、それを晒してなお彼女は冷静さを崩すことはない。
不意に唯の銃を握った左手が真上の虚空に伸ばされる。
それこそがセイレーンの真価の片鱗に他ならなかった。
ぐにゃりと銃が飴のように形を変えて、姿を見せたのは同じく透き通った氷細工を思わせる細身の刃を備えた長剣型の
そして、唯は水の膜のように自身の懐に出来た水面に剣の先を突き入れる。
どこからか生まれた水を鞘とした居合さながら、変貌した武装を携えて彼女は目前の異形達を静かに待った。
そこで男に冷静に人形を退かせる度胸があれば、しばらくは戦いらしいものになる可能性もわずかにあった。
だが、彼の臆病さは沈黙を許容できなかった。
人形体はおぞましく体を軋ませて獲物を駆らんと疾走していく。
「————
瞬間、男の頭は目の前の光景を受け入れられなかった。
自慢の能力を持つはずの人形達がわずか一瞬で胴を真っ二つに両断されて転がっていたのだから。
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