第51話『体の年齢。心の年齢』

「はぁ……はぁ……」


「10周お疲れ様、フェリ。少し休憩したら身体強化の練習にしよう」


 走り込みを終え、肩で息をする俺に対して、ソラは一度深呼吸しただけで呼吸を整えていた。

 だいぶ体力がついてきたのではないかという自信をいつも通りへし折られたところで、リネが水とタオルを手渡してくれた。


「フェリクス様、お水と、タオル、です」


「あぁ、ありがとう」


 俺が生まれたばかりの頃はメイド見習いといった感じだったリネだが、この10年で落ち着きのある性格になり、数年前から俺とフォナの専属メイド――といっても、メイドとしての基本的な業務もあるが――となり、身の回りの世話をしてくれている。

 空になったコップと汗を拭いたタオルをリネに返すと、リネは一礼して家に戻っていった。

 10年たって立場も性格も変化したリネだったが、一つだけ、あまり変化の見られない部分があった。


「ねぇソラ、リネって人間だよね?」


「突然何の話だ?」


「いや、リネって外見の変化があまりないなって思って」


「あぁ……確かに言われてみればそうだな」


 長命種族のエルフであるソラは10年程度で外見に変化は見られない。しかし人間であるリネはそうではないはずだ。リネの正確な年齢は知らないが、俺が生まれた時点で母さんよりも少し若い程度だったと思う。

 母さんも年齢より若く見えるが、それは年齢より若く見えるだけであって、変化がないわけではない。少なくとも俺の目には、リネの外見がこの10年で変化したようには見えなかった。


「リネはエンリィが拾ってきた子でさ。発見時には記憶を失っていて、あたしたちにも詳しい出自は分からないんだ」


「そうだったんだ……」


「リネがこの家に来たばかりの頃は言葉も喋れなくてな。リネの喋り方が少したどたどしいのは、もうその話し方が癖になってるんだろう」


 突然明かされたリネの過去にどう反応するべきか迷った結果、俺は話を聞くことに徹した。


「リネは別に自分の過去を悲観してはいないから、フェリとフォナもあまり気を使わないようにな。まあそれはそれとして。もしかしたらリネは、ハーフエルフなのかもしれないな」


「ハーフエルフ?」


「そのまま、半分エルフの血を引く人間のことだ。エルフの特徴であるこの耳は、ハーフエルフには遺伝しないことが多くてな。人間と変わらない見た目なのに、人間よりも遥かに長い寿命を持つことから、迫害されることも多いんだが……。リネが記憶を失った状態で発見されたことに、もしかしたら関係しているのかもしれないな」


 どうやらこの世界の種族事情も中々に複雑らしい。


「ま、考えても分からないことは仕方がない。そろそろ身体強化の練習を始めるぞ」



 ◇◇◇◇◇



 この世界の戦闘において最も強力とされているのは魔術だが、では魔術を使えなければ戦う手段がないかと言われれば、そうでもない。魔力は魔術以外にも使用することができる。

 身体強化は魔術以外の魔力を使う技術の一つだ。


「それでは、今日も魔力の活性化から始めようか。活性化率は今できる最大にすること。では、始め!」


 身体強化とは体内の魔力を活性化させ、身体能力を強化したり、他者の魔術から身を守る術のことだ。

 詳しい仕組みをソラから説明されたが、正直なところよく分かっていない。しかし、複雑にできた機械を使うのに仕組みを理解する必要がないのと同じように、身体強化を使うにあたって細かな仕組みを理解する必要はなかった。

 何をどうすれば何が起こるのか。それだけ理解していれば問題ない。


 体の内側へ意識を向ける。魔力の源泉である心臓を意識し、鼓動と呼吸をシンクロさせていく。

 血液とともに魔力を全身に巡らせ、加速させる。

 空間制御能力を使う時のように、魔力を制御した状態で展開させるのではなく、なりふり構わず力任せに放出する。


「活性化開始から放出まで大体5秒か。最低でも3秒は切れるようになりたいな。でも、この年齢でここまでできれば上出来だ。それじゃあ、フェリは魔力放出の出力を最低にして待機」


 力任せに放出というと無理をしているように聞こえるかもしれないが、実のところ、最大出力で魔力を放出している状態が一番楽だったりする。

 最大出力で魔力が体外に放出されている今は出口が開け放たれている状態だ。勢いよく魔力が出ているこの状態から、出力をそのままに放出量だけを少なくしていくのは、かなり神経を使う。しかし、これができなければそう遠くないうちに魔力切れで倒れてしまうのでやるしかない。


 ソラは俺に課題を与えると、未だに身体強化のコツがつかめていないフォナのほうへ向かう。


「フォナは魔力の活性化はできているけど、放出が上手くいかないんだな。十分に魔力が活性化されれば、意識しなくても魔力は体外に流れ出ていくから、まずはそれを目指して、フォナは魔力活性化を続けるように」


「はい……っ!」


「じゃあフェリ、今日も始めよう」


 俺の正面、3メートルほど離れてソラと向かい合う。そして、瞬きよりも短い一瞬の時間で、ソラは全身から魔力を迸らせた。

 魔力の活性化から放出までが自分とは比べ物にならないほど速い。

 これが、実力の差。


「今日は防御と反撃だけじゃなく、あたしからも攻撃をする。今までのように攻撃にばかり気を取られていると、一瞬で意識を飛ばすことになるから注意しなよ」


 ソラの戦闘訓練は、訓練だけあって力加減はしてくれるが、手加減はしてくれない。

 身体強化とソラの手加減のお陰で大怪我はしないが、意識ぐらいは簡単に飛ばされる。

 昨日までソラは、その場から動かず防御と反撃に徹していた。にもかかわらず、俺は何度も気絶させられた。

 こちらから一方的に攻撃できるという条件でその有様なのに、今日はソラからも攻撃してくるという。

 今日の訓練が一段とハードなものになるのは、考えるまでもなかった。


 気を引き締めて、構えを取る。


 スタートの合図はない。

 ソラと睨み合いの時間が続く。


 決して、気を抜いたりはしていなかった。

 一度もソラから目を離したりもしなかった。


 しかし気が付いた時には、ソラの拳は目の前にまで迫っていた。



 ◇◇◇◇◇



 青い空に白い雲。とても爽やかな光景だった。


「お兄ちゃん……大丈夫……?」


「あぁ……大丈夫……」


 本日何度目か分からない気絶から目が覚めると、フォナが俺の顔を覗き込んでいた。


「今日はここまで。フェリ、お疲れ様」


「痛つつ……ありがとうございました」


 何度も殴られ投げられ叩きつけられたことで、体のあちこちがズキズキと痛むが、怪我をしている個所は一つもない。

 以前に一度、こうも何度も気絶させられて大丈夫なのかとソラに尋ねたことがある。ソラによれば、『怪我をさせないように攻撃するのも技術の内だ』とのことだった。

 身体強化のお陰もあるだろうが、あれだけ殴られて捻挫も打撲も痣すらもできていないのは、ソラの絶妙な力加減があってこそだろう。

 そんなことを考えながら体についた土や汚れを払っていると、フォナが声をかけてきた。


「お兄ちゃん、私はこれからお風呂に行くけど、お兄ちゃんはもう少し休んでく?」


「いや、一緒に行くよ」


「そっか、じゃあ行こう」


 フォナはそう言って俺の手を取ると、お風呂場までの道を歩いて行った。



 ◇◇◇◇◇



 魔術が最も利用されているのは軍事の場だが、では魔術師は全員軍人かといえばそうでもない。

 魔術の適性はあるが、戦闘で使用できるほどの才能や技術がない者もいる。そんな戦闘魔術師になれない魔術師は、日常生活の中でその才能を使用することになる。

 例えば、火属性に適性がある魔術師なら、火の扱いに長けていることから鍛冶師などを志す者も多いと聞く。水属性に適性がある魔術師なら、食材を腐らせないように冷やした状態で運搬する、なんてことも可能だ。

 軍人として働くことができない魔術師でも、その技能は貴重なものであり、日常の様々な分野で重宝されている。


 そしてこの家にも、軍人ではない魔術師が数名いる。


「クラウ、いつもありがとう」


「いえ、私にはこれぐらいしかできませんから」


 クラウという名のこのメイドも、軍人ではない魔術師の一人だ。

 魔術の適性は火属性。その才能を使って、この家では料理をしたりお風呂のお湯を沸かしたりしてくれている。

 クラウをお風呂場に呼んだのは、湯船に張った水をお湯に変えてもらうためだった。


「それでは、フェリクス様、フォナ様、ごゆっくりどうぞ。何か御用がありましたらすぐにお呼びください」


 一礼してクラウがお風呂場を出ていく。


 この世界に給湯器はない。当然シャワーなんて便利なものもないので、体を洗うには湯船に張ったお湯を桶ですくって使う必要がある。

 この世界に来たばかりの頃は面倒に感じたが、今ではもう慣れてしまった。


「フォナ、髪洗うから目つぶって」


「はーい」


 こうしてフォナと一緒にお風呂に入るようになったのはいつからだったか。確か最初は、二回に分けてお風呂に入れるのが面倒なので一緒に入ってくださいと、使用人の誰かに言われたのがきっかけだった気がする。

 もちろん今では自分の体は自分で洗えるぐらいに成長しているが、それでもお風呂は二人で入るもの、という感覚が抜けず、俺もフォナもやめようとは言いださないので、一緒にお風呂に入るという習慣は今日まで続いてしまっている。


 湯船から桶でお湯をすくい、フォナの頭にかける。母さんに似た綺麗な金髪がお湯をかけられたことによって、キラキラと輝いていた。

 石鹸でフォナの髪を洗いながら、特に意味もなく以前から気になっていたことをフォナに尋ねてみた。


「フォナはさ、俺と一緒にお風呂に入るの、嫌じゃないのか?」


「嫌って、どうして?」


「俺は体こそ12歳だけど、中身はもう40手前のおじさんだぞ? 普通嫌だと思うんだけど」


「そんなこと言ったら、私だって30手前のおばさんですけど?」


「30歳はまだおばさんじゃないだろ」


「そうかもね。けど、中身の年齢なんて関係ないんじゃない? お兄ちゃんは普段、自分のことを40歳手前のおじさんだって思いながら生活してる?」


「それは……してないけど」


「私もそうだよ。多分、体の年齢に心の年齢が引っ張られてるんだと思う」


「……確かにな」


 もし自分の年齢を40代手前だと考えていたなら、きっと、素直に生きられない。満足に甘えられない。

 それに、周りにいる誰しもが自分のことを子供として扱うと、不思議なことに、自分は子供なのだと思えてきてしまうのだ。


「私は今10歳の女の子で、お兄ちゃんは今12歳の男の子。兄妹なんだし、一緒にお風呂に入るぐらいおかしくない。それに、お母さんたちからも、二人はできるだけ一緒にいるようにって言われてるしね」


 そう、俺とフォナは、父さんや母さん、そしてソラから、できる限り同じ空間で一緒に生活するようにと言われている。

 それには、俺とフォナの運命力というものが関係しているらしい。

 ソラによると、この世界の生物は皆運命力というものを持っているとのことだ。運命力とは、簡単に言えば運のことで、運命力が高ければ運が良く、低ければ運が悪いといった具合らしい。

 そして俺は、そんな運命力が極端に低いとのことだった。

 これについては今更驚かない。むしろ、今までの不幸にもきちんと理由があったのだと、ある意味ホッとしたぐらいだ。

 しかし最近、とりわけフォナが生まれてからは、不幸に見舞われることが少なくなった。

 ソラが言うには、フォナの高い運命力によって均衡がとれたからではないか、とのことだった。


 行き過ぎた幸運は結果的に不運を招くこともある。

 振り切れた不運はそのまま周りに不幸を振りまく。

 だからこそ俺とフォナは、できるだけ二人一緒にいるようにと言われているのだった。


「でもね、そんなことは関係なく、私はお兄ちゃんとお風呂に入るの、結構好きだよ」


「どうして?」


「誰かに体を洗ってもらうのって、気持ちいいから」


「……なるほどな」


 変な理屈を並べられるよりも、納得できる話だった。

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