第43話『届かない言葉。届いた言葉』

 いまだに妹の存在に慣れていないとは言いつつも、俺はここ最近、暇さえあればフォナの部屋に足を運んでいた。

 なんだかんだ言っても妹は可愛かわいい。感覚としては妹というよりも、近所の子供を見ている感覚に近いのだが、俺の精神的な年齢を考えれば仕方がないのかなとも思う。


 そんな訳で、俺は今日も今日とてフォナの部屋に足を運んでいた。

 書斎から持ってきた本を小脇に抱えて、ジャンプをして部屋の扉のドアノブに手を掛ける。

 普段であればフォナの部屋には母さんやリネ、ソラなどがいるのだが、今は偶々誰も居ないようだった。

 揺りかごの中をのぞき込むと、静かに寝息を立てて眠るフィナがいた。きっと誰かが寝かしつけたのだろう。

 俺はそっと揺り籠から離れると、床に座って本を読むことにした。


 近頃、ある程度文字が読めるようになってきた俺は、書斎から適当な本を引っ張ってきて読むことが増えた。元から読書は好きだったし、この世界における数少ない娯楽の一つとなれば、手を出さない理由はなかった。

 家の書斎は、それこそ小さな図書館と言っても差し支えないほどの蔵書があり、専門用語の飛び交う専門書が多いが、小説なども読みきれない程度には保管されていた。

 今日持ってきたこの本は、どうやら恋愛小説であるらしい。らしい、というのは、俺が書斎で本を選んでいる時、偶々そこを掃除していた使用人――クラウ、という名前だったか――に本のあらすじを聞いたからだ。有名な作品のようで、とても面白いと言っていた。それと同時に、「フェリクス様にはまだ少し難しいかもしれませんが」なんてことも言っていたが、スルーした。


 未だ慣れない文字に苦戦しながらも、大体10ページほど本を読み進めた頃、揺り籠の方から声が聞こえた。フォナが目覚めたらしい。


『おあお、うー』


 読書を一旦いったん中断して揺り籠に近寄ると、フォナはジッとこちらを見つめてきた。

 真っぐに見つめてくる子供の目は苦手だな、なんてことを考えつつ、フォナの頭を優しくでる。


「おはよう、フォナ。よく眠れたか?」


『……あい、あおー』


「…………」


 相変わらずなんと言っているかはわからないが、時々、実は何かを意味のある言葉をしゃべっているんじゃないかと思うことがある。

 まだ舌が上手うまく動かないから母音しか話せないだけで、実は何か意味があるんじゃないかと。

 例えば、「おあおう」という音は、日本語の「おはよう」に聞こえないこともない。

 さっきの「あいあお」なら……そうだな、「ありがとう」とか。

 勿論こじつけにも程があることは理解している。こんなの、『喋る動物特集!』とかそんなタイトルでテレビの動物バラエティー番組に登場する犬や猫と同じで、本人たちに意味にある言葉を口にしているつもりなんてないんだろう。

 所詮しょせんは、似た音を知っているが故の幻聴。妄想。思い込み。そんなことはわかっている。


 だから、別に理由があった訳じゃない。気の迷いのようなもの。どうせ周りには誰も居ないし、聞かせる相手は生まれたばかりの赤ちゃん。どうせ理解しちゃいない。

 そう考えて、久々に俺は母語である日本語を口にした。


『おはよう。母さん、呼んでこようか?』



 ◇◇◇◇◇



 いくら私が『趣味はなんですか?』と聞かれて、『読書です』と答えるぐらいには読書が好きであっても、1ヶ月近くも本を読み続けていれば流石さすがに飽きてもくる。

 大体3日で1冊読み終わるペースで現在8冊目。記憶の中の本の在庫は、この本を読み続ける生活が後1年続いても読み切れないぐらいにはあるけれど、きっとそれだけつ頃には、私が『読書です』と答える質問の内容は、『嫌いなことはなんですか?』に変わっていることだろう。

 元々もともと私は多趣味な方ではなかったし、娯楽が特別好きだとも思っていなかった。本さえあれば他に娯楽は要らないと思ったこともあった。けど、この世界に来て実感した。あの世界――日本には、娯楽がむせ返るほどあふれていて、溺れてしまうほど情報に満ち満ちていたんだって。

 テレビ番組。電車内の広告。通り過ぎていく街の景色。何でも教えてくれる携帯電話。別にそこまで高望みはしない。でも今の私には、本来誰でも出来るはずの“他人とのコミュニケーション”という娯楽すら、はるか遠くの手が届かない場所にあるように思えた。


 ――寂しい。


 手が届くほど近くにいて、事実手を伸ばせば触れることができて、抱き抱えてもくれるのに、こんなにも満たされない。

 だからこそ、届かないと分かっていても止めることはできなくて。

 今日も私は、思い通りにならない体で、決して届かない言葉で話し掛ける。


 ――おはよう。


 ――ありがとう。


 ――おやすみなさい。


 ただの自己満足。

 だから、最初は理解出来なかった。

 夢でも見ているんじゃないかと思った。

 でも確かに、目の前の男の子は、私の兄はこう言った。


『おはよう。母さん、読んでこようか?』


 日本語で、そう言った。

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