第42話『経過、変化、既視感』

 あの日――フォナの誕生日から1ヶ月ほどが経過した。

 事件直後の少しピリピリとした雰囲気や、俺がまた何かやらかさないようにと向けられていた監視の目も、ここ1ヶ月でいくらか和らいだような気がする。

 左手の怪我けがの方もふさがり、完治したと言って差し支えないのだが、やはりというべきか、傷跡は消えなかった。

 中指と薬指の間から手首に掛けてぐと、無理矢理むりやりつなぎ合わせたかのようなギザギザとした傷跡が、手のひらと手の甲の両方にくっきりと残っている。

 俺が目覚めた時には既に傷の治療がされていたため、実際にどんな傷だったのかはわからないが、目を背けたくなるような状態だったことは傷跡からも容易に想像が付く。

 聞いてみれば、率先して治療をしてくれたのはリネだったらしい。もう感謝の言葉は伝えてあるが、いつかまた改めてお礼をしておこう。

 そんな訳で、傷自体は完治したのだが、全てが元通りになったかといえばそうではなかった。

 元通りにならなかったもの。それは、手の感覚だ。

 手のひらが裂けるような大怪我だったのだから当たり前といえば当たり前なのだが、俺の左手には麻痺まひが残った。もっとも、手が動かせなくなった訳ではない。力が入りづらくなっただけだ。まあ、“だけ”と言えるほど軽いものでもないのだが。

 日常的な動作には然して問題はない。小さな物を持ったり、軽いものをつかんだりするぐらいのことはできる。しかし、握力が必要な重たい物などはほとんど持てなくなってしまった。

 それでも、俺の利き手が右手だったのは、不幸中の幸いと言えるだろう。

 俺としては左手に麻痺が残ったことよりも、おので割られたまきのような状態だったであろう手が、形だけでも元に戻ったことの方が驚きだ。魔薬ポーションという薬を使ったらしいのだが、裂けた手が元に戻る薬とは一体どんなものなのか。この世界の医療も馬鹿にできないというものだ。



 ◇◇◇◇◇



 何もかもが元通りとはいかなくても、平穏な日常が戻りつつあった。

 最近は“虫の知らせ”や特筆するような不幸な出来事などもなく、少し退屈で平和な日々がただ続いている。

 しかしそれでも変化はあるもので、直近での大きな変化といえば、やはりフォナが生まれたことだろう。

 生前、兄弟がいなかった俺は、家に親以外の人間――それも歳がそれほど変わらない人間が――がいることが殆どなかった。そのため、妹という存在にまだ慣れていないというのが正直なところだ。

 どのように接したら良いのか――まだ赤ちゃんなので気にする必要などないのかも知れないが――分からない。取り敢えずオモチャを与えてみたりしているが、フォナはあまりオモチャに興味がないのか、遊んでいる様子は殆ど見たことがない。

 俺の見る限り、フォナは1日の殆どを眠って過ごしている。そして時折目を覚ますと、「あーうー」などと言って母さんを呼び母乳をもらって、再び眠る。

 こうして思い返してみると、フォナが泣いているところを俺は全くと言って良いほど見たことがない。夜は俺も寝ているので、夜泣きをしているかどうかは定かではないが、フォナの泣き声で目が覚めたことは一度もない。

 俺も人のことは言えないが、かなり手の掛からない子供だと思う。ただまあ、俺の場合は見た目と精神年齢が一致していなかったから故であり、フォナのそれは、きっとフォナ自身の性格によるものだろう。尤も、そうだろうなんて推測が出来るほど、俺は子育てに関する知識は持ち合わせていないのだが。



 ◇◇◇◇◇



 俺の住むこの家は――自分が小さな子供であることを考慮しても――かなり広い。

 正確な敷地面積なんて知る由もないが、部屋の総数が10以上あり、その上駆け回れる庭があり、加えて家の後ろに広がる森まで敷地として有していると言うのだから、もはや変な笑いが出てくるレベルだ。しかも、この家は子育てをするために引っ越してきた別荘のようなもので、両親が元々もともと住んでいた家は――面積こそ森がある分こちらが大きいが――今住んでいる家よりも大きいというのだから意味が分からない。

 今更ながら、とんでもない家に生まれてきてしまったものだと思うが、それはさておき。

 いくら家が広いとはいえ、2年以上も暮らしていれば、頭の中で大雑把おおざっぱな間取り図を描ける程度には家の構造を把握できる。

 そんな勝手知ったるが家の廊下を歩き、辿り着いた目的地はフォナの部屋だ。

 身長的に若干届かないドアノブにジャンプして手を掛けて扉を開ける。

 部屋の中には椅子に座って揺り籠を揺らすリネの姿があった。


「あ、フェリクス様、おはようございます、です」


「おはよう」


 挨拶あいさつもそこそこに俺は揺り籠の中をのぞき込む。

 フォナは起きていて、部屋の窓越しに外をジッと眺めていた。しかし、俺の存在に気がつくと、


『おあ、おー』


 というよく分からない声とともに左手をこちらに伸ばしてきた。


「おはよう、フォナ」


 丸っこくてぷにぷにとした、張りがあるのに柔らかい手を、挨拶をしながら両手で握る。

 何故なぜだかその瞬間、懐かしい感覚がした。

 いや、懐かしいというのとは、少し違う。

 そんな穏やかなものじゃなくて、心がざわつく既視感。


 こんなことが前にも、あったような――。

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