第41話『感謝の言葉』

 誰が来たのだろうと、幸は自分の内側に向けていた意識を一旦いったん外側へ向け直す。

 薄く目を開けてみると、視界の先にはこちらを見下ろしている男の子の姿があった。

 見覚えがある、いや、見慣れた、と言うべきか。

 この体で意識が芽生えてから、自分の身の回りの世話を焼いてくれている男の子だ。

 世話を焼く、といっても大したことをしているわけではない。

 何処どこかから持ってきた玩具おもちゃを渡してくれたり、何かを話しかけてくれたりといった些細ささいなことだ。ただ、幸はまだこの世界の言葉を理解していないため、話しかけられても何を言っているのかわからない。子供用の玩具を渡されても、見た目は赤ちゃん、中身は17歳の女子高生である幸からすれば大して面白いものでもないのだが、それでも幸はこの男の子に感謝していた。


 理由は、安心出来るからだ。


 記憶を持ったまま転生した幸にとって、今の状況は突然拉致されたに等しい。その上言葉も通じず、体も自由に動かせない状況だ。生殺与奪の権利が完全に他人に委ねられている現状は、幸の不安をあおるには十分過ぎた。

 そんな時、幸の目の前に現れたのが一人の男の子――フェリクスだった。

 別に何かをしてくれたわけではない。フェリクスはただ、普通に生活していて、幸はそれを見ていただけだ。

 けれど、ただそれだけの、そんな些細なことが、この場所が安全である何よりの証拠であるような気がして、幸は少しだけ安心出来たのだった。


 幸は薄く開けていた目を閉じると、中断していた読書を再開するべく、記憶の隅に置かれたままだった絵本を手に取る。

 さてどんな話なのだろうと絵本を開いた時、ふわりと、体に何かを掛けられたような感触がした。小さく手を動かして確認してみると、どうやらそれは薄手の布のようなものらしかった。おそらく、あの男の子が掛けてくれたのだろう。

 閉じていた目を開いて周囲を確認すると、男の子は少し離れた場所で本を読んでいた。


 年の差や今の状況を考えるに、きっとあの男の子は兄なのだろう。

 精神的な年齢で言えば、自分よりはるかに幼いのだろうが、それでも、こうして自分のことを気にかけてくれる存在がいるというのは、素直に嬉しかった。


 だから、その気持ちを伝えたかった。

 この世界の言葉はまだ分からないし、この体ではまだ上手うまく話せないだろうけれど、せめて、雰囲気だけでも伝わればと。

 自分の使い慣れた言葉で、幸は感謝の気持ちを伝えた。


「――あい、あ、お」



 ◇◇◇◇◇



「え……?」


 声が聞こえた気がして、読んでいた本から顔を上げる。

 この部屋にいるのは俺とフォナの二人だけ。普段ならここにリネかソラがいるんだが、二人とも用事があるらしく、今ここにはいない。

 読書をやめて立ち上がり、フォナが眠っている揺り籠をのぞき込む。すると、フォナと目があった。いつの間にか目を覚ましていたらしい。


「どうした? 母さん、呼んでこようか?」


 話しかけたところで言葉の意味なんて分かってないんだろうけど、俺の経験上、話しかけてくれた方が言葉は覚えやすかった。もっともそれは、俺が前世の記憶を持って生まれてきた人間だからかも知れないが。どちらにせよ、やらないよりはやった方がいいだろう。


「さっき、なんて言ったんだ?」


 頭に近い方の手、左手でフォナの頭をでようとして、思い止まる。まだ傷が完治していない包帯で巻かれた手よりも、素手の方がいいだろう。

 撫でやすいように揺り籠の反対側へ回り、フォナの頭を優しく撫でる。

 するとフォナは、ゆっくりと口を開いて、もう一度言葉を発した。


『……あい、あお』


「……ダメだ。全然分からない」


 とりあえず微笑ほほえんでおくことにする。

 まあ、多分意味なんてないんだろう。生まれたばかりの赤ちゃんが「あうあう」言ってるのと同じだ。


 それにしても、「あいあお」か。


 まるで、日本語の「ありがとう」みたいだ。

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