第38話『私がここにいる理由』

 ふわふわとした浮遊感。水に浮かんで漂っているような不思議な感覚。

 耳栓でもされているかのように、周囲の音がこもって聴こえる。

 強い光を見た後のように、視界も白で覆われている。

 触覚も鈍く、体全体を薄い膜のようなもので包まれているような、可笑おかしな感覚。

 それでいて不快ではなく、何処どこか心地良さにも似たものを感じる。

 喩えるなら、休日の朝、ベッドの上で微睡んでいるかのような。ずっとこのままでも良いとさえ、思えてしまう。


 一体どれだけの時間そうしていたのだろう。

 こもったような耳の違和感はいつのまにか消え、耳は周囲の音を拾い始める。

 小さく聴こえてくるチュンチュンという小鳥の鳴き声。近くからは人の話し声のようなものも聴こえるが、日本語ではないのか、どのような意味なのかは分からない。


 白で染まっていた視界が徐々に鮮やかな色を持ち始める。

 ようやく本来の機能を取り戻した二つの目がまず捉えたのは、一人の男の子の顔。

 目に軽く掛かるぐらいにまで伸びた黒髪と、深みのある濃い青色をした瞳。

 少年というには幼すぎるが、既に整ったその顔は、将来容姿で困ることはないだろうと思わせるには十分だった。


 男の子と、目が合った。


 すると男の子は、何処かほっとしたような、安心したような表情を浮かべた後、笑いかけてくる。


 この子は誰なんだろう。どうして私のことを見ているんだろう。というより、ここは何処なんだろう。

 さっきまで何をしていたんだっけ。

 いつもの調子で記憶をさかのぼり、そして、思い出す――いや、彼女の場合は、“取り出す”という表現の方が適切だ。


 ――転生後の貴女あなたに、限りない幸運と、幸福がありますように。


 目に涙を浮かべながら、ぎこちなく笑っていた女性。

 自らを神様だと言っていた彼女は、自分を転生させると言っていた。


 転生。新生。生まれ変わり。

 死後、新たな肉体を得て新たな生活を送るという意味を持つ言葉。それらが示すのは、つまり――


 瞬間、意図せず記憶は巻き戻る。


 近道。作業着の男。駅までの道。首に巻き付くひも

 締め付けられる痛み。

 呼吸の出来できない苦しさ。

 苦痛。

 後悔。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい苦しいくるしいくるしいくるしいクルシイ――


 ――死。


 嫌なくらい鮮明にフラッシュバックする記憶を、意思を持ってして断ち切り、引き出しへ仕舞い、鍵を掛ける。


 そうだ。そうだった。


 ここが何処かは分からない。

 どうやってここに来たのかも、どうして自分の身にそんなことが起きているのかも分からない。


 でも、今ここにいる理由。それだけははっきり分かる。


 ――私は、死んだからここにいるんだ。

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