第20話『欲しいのは、笑顔ではなくて』
一体誰が入って来たのか。そんなこと、確認している余裕はなかった。
俺の視線は、今にも倒れて来そうな鏡台に固定されたまま。
思考スピードはそのままに、見える光景だけがゆっくりになっていく。
この感覚には覚えがある。確か前に体験したのは、そう、交通事故にあったとき。
周囲の状況を明確に認識できるだけのこの現象は、何もできない自分の無力さを実感するには十分すぎた。
こんなものか、俺の人生なんて。
もう十分、迷惑はかけただろう。
これまでのことが、人ひとり救ったぐらいでチャラになるはずもない。
もういいだろう? 十分だろう?
――ここで死んでおけよ。
――また、誰かを殺す前に。
その瞬間、視界を覆い尽くしたのは、倒れてくる鏡台でも、落ちてくる天井でもなく、
青髪の女性の、体だった。
俺が状況を飲み込むより早く、青髪の女性は俺を抱きかかえた。
否応無く顔に柔らかなものが押し付けられる。が、当然そんなことを意識している暇などなく。
女性の体から衝撃がこちらに伝わり、ガラスが割れたような破壊音が耳を
倒れて来た鏡台から女性が身を呈して守ってくれたことは、考えるまでもなく理解できた。
遅れて聞こえてくるのは女性の呻き声。
鏡台が倒れて来たのは俺を抱きかかえて直ぐのこと。
青髪の女性は、腹部を鏡台とベビーベッドの柵に挟まれている状況だった。
このままじゃ不味い。
けれど、現状俺にできることは、何もない。
浅く荒い女性の呼吸が3回ほど繰り返された時、突如、鏡台によって遮られていた光が差し込んだ。
綺麗な銀髪だった。
少女という言葉で表せる容姿をしたその人物は、その外見に反して軽々と、細い左腕で鏡台を持ち上げていた。
初めて見る人物だった。
光を反射する銀髪と髪の合間から見え隠れする尖った耳。
神秘的な美しさを感じさせるその容姿は、ファンタジー世界でよく登場するエルフと酷似していた。
少女は鏡台を元あった位置に戻すと、青髪の女性を抱きおこす。
ベビーベッドに散乱する鏡の破片。
破片や鏡台から身を呈して俺のことを守ってくれた青髪の女性は、頭から血を流しながらも、俺を見て笑っていた。
その姿が不意に、あの時の父と重なった。
文字通り身を滅ぼして、文字通り命を救ってくれた、あの時の父と。
◇◇◇◇◇
母の命と引き換えに生まれて来た俺は、父親に男手一つで育てられた。
裕福ではなかったが不自由を感じることはなく、人並みな幸せを感じることができる生活は送れていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
昔から不幸な目にあうことが多い不幸体質だった俺は、交通事故に遭遇することが多かった。
幸いというべきか、事故加害者になったのは夏木梨幸の一件だけだが、被害者、目撃者として事故に遭遇した回数は数え切れないほどだ。
俺が中学に進学した年の、ある日。
久々に父が休暇を取ることができたため、男二人で外に出かけていた。
出かけると言っても、遊園地や動物園に遊びに行った訳ではなく、スーパーに買い物へ行ったり、家の付近を散策したりしただけだったが、それだけでも、当時の俺には十分すぎる休日だった。
その日の、帰り道。
状況はよく覚えていない。
後から聞かされた話によれば、歩道に自動車が突っ込んだとのことだった。運転手は飲酒をしていたらしい。
しかしそんな記憶、俺にはなく。
気が付いた時には、頭から血を流した父親が目の前に倒れていた。
俺は父に突き飛ばされたことにより車を避けられ、転んだ時に負ったかすり傷以外、目立った外傷はなかった。
大きな怪我のない俺の姿を見た父は、最後まで笑っていて。
その笑顔は、今も俺の心に影を落とし続けている。
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