第9話『もう二度と、忘れはしない』

 俺の言葉を聞いた女神の瞳は、いつの間にか溢れんばかりの涙に満ちていた。


 本当に、優しい人なのだろう。他人のために涙を流せる程度には。


 ――ダメだな。本当に。


 昔からの癖で、他人の優しさをどうも素直に捉えられない。斜に構えて受け取ってしまう。

 今だけは、そんな俺の悪癖も、鳴りを潜めてほしいものだ。


「……良いの、ですか、本当に……? 決めた後、やっぱり帰りたいは通らないんですよ?」


「分かっています。それでも構いません。それに、言ったじゃないですか。下心がない訳じゃないって。彼女は助かって、俺も罪を償う必要がなくなる。これが最善ですよ」


 詳しい事情は分からないし、訊いてもきっと教えてはくれないのだろう。

 だったら、俺は自分の知り得る限りの情報を持って、自分にできる最善を。納得のできる、結末を。


 俺が話を続けている間も、女神は溢れる涙を手で拭い続けていた。


「…………分かりました。貴方の願いは『彼女を生き返らせること』その代わりに貴方には、異世界へ行ってもらいます。……よろしいですか?」


「……はい。それで、お願いします」


 そうだ。これで、これで良い。


 女神は泣き腫らした顔のまま、俺に対して深く、深く頭を下げた。



 ◇◇◇◇◇



 それから、暫くして。

 どこからか取り出したハンカチで涙を綺麗に拭った女神は、「そうだ」と言って両手を叩き、こちらに向き直った。


「貴方は自分の命を賭してまで私の力になってくれました。そのお礼は、するべきですよね」


「お礼……?」


「いわゆる、異世界転生特典、というやつなのですよ。本当は、正当な理由なく神が人に力を与えるのは禁じられているのですが……破る禁則事項が一つ増えたところで今更なのですよ」


「なんだか……急にラノベみたいな話になりましたね」


「ラノベ……? ああ、娯楽小説のことですね。確かに、少し似ているかもしれないのですよ」


 似ている、というかそのものだ。

 異世界転生の際に神様から特典がもらえるとか、今時王道展開でも中々見ない。


「さぁ、何が欲しいですか? と言っても私自身の能力を分け与える形になるので、そこまで大したものはあげられないのですが……」


「何、と言われても……なんでも良いですよ。貴女がどんな力を持っているかなんて分かりませんし」


 異世界転生を申し出たのは特典を貰うためではない。

 そんなものがあろうとなかろうと、異世界には行くつもりだったのだから。


「だったら……空間制御の能力とかどうですか? 私のように異次元間を転移したりさせたりすることはできませんが、同一空間内であれば瞬間移動なんかもできるのですよ」


「あー、えっと、じゃあそれで良いです」


 成り行きで、なんか凄そうな能力を貰うことになってしまった。

 別に欲しいわけではないが、くれると言うなら貰っておこう。


「それじゃあ――」


 そう言って近づいてきた女神は、俺の顔に手を触れると、静かに微笑んだ。


「譲渡完了、なのですよ。使い方は向こうに行けば自然に分かる筈なので、安心してほしいのですよ」


「はぁ」


 正直、何か変わったかと言われれば、何も変わっていないと言わざるを得ない。騙されていると言われても納得できる程だ。

 だが、もし騙されていても、それならそれで構わない。


「……大丈夫、なのですよ」


 そんな俺の心を読んだのか、女神は少し寂しそうな笑顔を浮かべてそう言った。

 その瞬間、不意に平衡感覚が掴めなくなり、思わず膝をつく。


「流石に、時間切れなのですよ。これ以上魂と肉体を切り離していては、今度は貴方が死んでしまいます」


 言われて自分の体に目を向けると、体の存在感が薄れ、透けて見えるようになっていた。


「それでは、これから貴方を今までとは別の、異世界に転生させます。願いは「事故被害者の彼女を生き返らせること」間違いありませんか?」


 はい。と答えようとして、声が出ないことに気づく。

 仕方がないので、頷くことで肯定の意思を示す。


「心の中で思うだけでも良いのですよ。――最後に、何か聞き逃したこと、知りたいことは、ありますか?」


 最後に、知りたいこと。

 ……そういえば、俺が轢いてしまった彼女は、死んでしまった彼女は、殺してしまった彼女は、なんて名前だっただろうか。

 取り調べの際、聞いた筈なのに、どうしても、思い出せない。

 いくら放心状態だったからと言って、自分が殺した相手のことも覚えていないのか、俺は。


 ――彼女の、俺が殺してしまった彼女の、名前を、教えてください。


さち夏木梨かきなし さちという名前なのですよ」


 夏木梨、幸。

 そうだ。その名前だ。


 もう、忘れない。


「……本当は、転生時に記憶は引き継げないのですが、今回は特別ですよ?」


 ありがとう、ございます。最後まで、良くしてもらって。


「それと……殺してしまった人、ではないのですよ」


 ……それは、どういう。


「――貴方が救った人、なのですよ」


 女神は、笑っていたと思う。


 きっと、俺も、笑っていたんじゃないかと思う。


 その言葉で、俺までも救われた気がしたから。

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