第10話 祖霊


 空いたペットボトルに地下からの湧き水――魚人たちがいたところだと思うとちょっとゾッとしない――で擦った墨を入れて行く。水っぽくならないように濃いめに、そうするとペットボトル自体が浄化された結界のようになって中々良かった。すぐに札を書けるように、半紙と筆とを輪ゴムで括りつけておく。それをランドセルからぶら下げて登校、と言うのが俺のスタイルになったのは、炉吏子の為だけでなく自分の為でもある。いつでも身を守るようにしていなければいけない。そして行くのはやっぱり橋姫の所だって言うんたから、俺も情けない。結局慰められたがっている。

『童の悪い所ではないよ、それは』

「……そうかな。簡単に祓いを出来ないのは、俺の所為だと思う」

『あやかしは危ない、と学べたではないか』

「橋姫も?」

『一度はお主をもぎかけている』

「そーだった」

 へら、と笑うと、柳眉を顰めて橋姫は心配そうな顔をする。

『本当に大丈夫か? なんならこの橋姫が膝を貸してやっても良いぞ』

「あやかしは危ない、って言った口が甘えを許すなよ。縋りつきたくなるじゃんか」

『縋りついて良いものもあやかしじゃ。童はな。まあ、大概はのろいの方向に縋りつかれるがの』

「今でもいんの? 丑の刻参り」

『五十年に一度程度は見かけるのう。まあ最盛期に比べれば、無いも同然じゃ』

 最盛期。神社で空いてる木を探しながらうろうろと藁人形片手にしている鬼女達の姿を思い浮かべると、ちょっと笑えた。俺が笑った事に気をよくしたのか、なでなでと橋姫はまた伸びてきた俺の髪を手櫛で梳く。

『童は少々優し過ぎただけじゃ。この橋姫とて、また童が来なくなる日の事は覚悟している。娘三人侍らせて歩いていたものな? 童は随分と現世を知ってしまったと見える』

「あいつらはそう言うんじゃねーから」

『そういう事にしておこう、何、もう邪魔はせんよ。安心して色恋沙汰に打ち込むと良い。ただし一人に絞った方が良いぞ』

「だからー」

『冗談じゃ冗談』

 けらけら笑う橋姫は俺に背を向ける。櫛で髪を梳いて欲しいんだろう、俺はおだんごにしてあるその長い髪を解いて、少し色づいてきたつげの櫛を当ててやった。


 次の日、あざみが欠席した。

 次の次の日も、欠席した。

 三日目にもなると心配になるのか友人心という物で。

 俺とサラと炉吏子は、あざみの住んでいる住宅街に向かった。


 あざみが住んでいるのは新興住宅街で、炉吏子やサラの住んでいる方とはちょっと方角が違った。俺もあまり行った事がない――檀家がいないのだ、当然だろう――友達はもっといない、放っとけ――ので迷うかと思ったが、小さな浮遊霊がこっちこっちと手招きして来る方向に向かうと、『風上』と言う表札に巡り合う。逃げようする浮遊霊を捕まえて話を聞いてみると、三日前から通り抜けられないほどの霊気がこもっているのだと言う。確かに、神気でも邪気でもないものが渦巻いているのがメガネ越しに見えるが――一体何だろうと、かしゃかしゃメガネを調整してみる。

 すると見えたのは、老人達の霊だった。

 若いのも混じっているが、恐らくあざみの先祖だろう。なんとなく顔の印象が似ているお婆さんもいる。

 取り敢えずピンポン、とインターホンを鳴らしてみると、カメラが俺達をとらえ――

 あざみが泣きながら、飛び出して来た。

「リドル、リドルーっ!」

「ど、どうしたよあざみ。三日も学校来てない割には元気だな」

「が、学校もどこも電話通じなくて、スマホも圏外でっ! お母さんは倒れちゃったしお父さんは週末まで帰って来れないし、大変だったんだよー!」

「お母さんが倒れた? 何で?」

「わかんないっ、掃除機掛けてる時に倒れたみたいで、四日前にあたしが帰ったらもう倒れてた! それから目が覚めなくて、お父さんに電話しようとしても繋がんなくてっとりあえずお布団に寝かせて吸い飲みでスポドリ飲ませてるしか出来なくてっ! あーんリドルが来てくれて良かったよー、心霊現象なら直してよー!」

 わんわん泣くその身体をとりあえず家の中に引っ込め、鍵はいざという時のために空けておく。とりあえずお母さんが寝ていると言う布団の方に行くと、随分乱れた布団が敷かれてあったが、十歳の力で大人を担ぎながらと考えると適当なようでもあった。

 ふむ、と俺はレンズを変える。

 老人達が眠っているあざみの母親に、正座していた。

 あざみに顔立ちが似ている母親は、うーんうーんと唸っている。

 しかし老人達はどかない。

 意地でも、どかない。

 俺は札を書いて、ぺとりと一番後ろに座っていたお爺さんにくっつけてみた。

『あじゃっ! 何をするんじゃ小童!』

「いやそれこっちのセリフで。この人俺の友達のかーちゃんなんだけど、なんで座ってんですか」

『こやつが先祖孝行せんからじゃ!』

「って言うと……墓洗いとか、お供えとか?」

『そうじゃ! 仏壇でも持ってるならまだしも、それもない! 今年も帰ってくる様子がないので、わしらも一致団結して反抗に出てみたんじゃ!』

「あー……」

 そろそろ盆の季節だもんなあ……。

「あざみ、お前生まれてから何回墓参り行ったことある?」

「へ? ないよ?」

「十年ほっとかれればそりゃ怒るか……ちなみにお前の両親の実家は?」

「佐渡島」

「行きづらっ! えーと、とりあえずサラ、炉吏子、お前らにお使いに行ってもらう」

「はい?」

「にゃーに?」

「赤飯と、仏壇に供えるあれ解るか? えーと」

「あ、三個セットのやつ?」

「そうそれ」

「わかった! いこ、サラちゃん」

「あ、はい」

「で、あざみ。お前今年は両親がどう渋ってでも墓参りに行け。ご先祖様たちが怒ってこんなことしてるらしいから」

「ご、ご先祖様って守ってくれる人たちなんじゃないの?」

「仏の顔も三度までって言うだろ。十年以上放置されてたら流石に怒る」

「そ、そっか、そういう物なんだ」

「なんならうちの檀家に入っても良い。向こうの墓閉めてからな。ここに家買ったって事はここに永住するつもりなんだろ?」

「うん、お父さんたちはそのつもりみたい」

「尚更行きづらいトコの墓は閉めて、こっちに来た方が良い。それがお前に出来る唯一の危機脱出方法だ」

「えっと、変な宗教に勧誘されてるわけじゃないよね、あたし」

「誰が変な宗教か」

 ぺしっとあざみに札を被せると――

「うわあああああ!?」

 あざみにも、たむろする祖霊達が見えたらしい。

「どっどうしよう、お赤飯足りないよね、今から炊く!? 炊く!?」

『子孫は可愛いのー』

『ほんに可愛いのうー』

「可愛いんならそろそろお母さんから退いてあげてください。その人も子孫ですよ、まったく」

『やじゃ! 赤飯盛って貰うまではここにおる!』

『そうじゃそうじゃ! そのぐらいの権利はある!』

 あー……めんどくせー……。

「ちなみにお父さんの単身赴任先は?」

「え、新潟だけど」

「近いのに行かねーから怒られんだよ!」

「に、新潟だって広いよ! でもお父さんに連絡は……スマホ相変わらず圏外で電話できない……」

 俺のも圏外か。家の電話は――ノイズしか聞こえねえ。

「おい爺ちゃん達、今どきは電話が使えなきゃ何にも出来ねーぞ。墓参りの算段もな」

「あっ繋がった! リドルすごい! ……え、お父さんもこの三日間寝たきりだったの!? 大丈夫、会社クビになってない!? そっか、社宅の人がお見舞いに……良かったー、あのね、今年のお盆なんだけど……」

「リドルー赤飯買ってきたから盛るねー!」

「頼んだ炉吏子ー。こっちも一段落つきそうだ。主にその赤飯で」

『甘くない赤飯なんぞ……』

「そんなローカルな要望は聞きません!」

 炉吏子が赤飯を詰め、水もくむ。白米も入れれば完璧だ。スマホで方角を確認してからそこに供えると、一気に霊が離れて行くのが解って、俺はかしゃかしゃとレンズを入れ替える。邪気も妖気も霊気も無し。健全な家だ。あざみが潰されなかったのは、多分小さいから可哀想ってのと、御朱印帳も要因だろう。やっぱ神様はすげーよなあ、思っていると院があざみの母親に触れて少し神気を分ける。それで母親ははっと目を覚まし、きょろきょろしていた。きっと何が起こったのか解らないんだろう。とりあえず。

「ご先祖様は大事にした方が良いですよ。あと赤飯代とか下さい。こっちはしがない十歳児なんで」

「え? え?」

「お母さん、今年は絶対、お墓参りしに行くんだからね。そんでもって出来るならこっちに引っ越してくるんだからね!」

 子供の突飛な要望にきょときょとしているのを見て、俺は思わずふすっと笑う。スマホはバリ四、家電もノイズなし。今回は危ないところが無くってホッとした。祖霊は悪霊になりにくい。子供が大切だからだ。でもたまには雷を落とす。それも親の仕事って事なんだろう。地震雷火事親父って言うしな。それも随分古い言葉になったが。うちは地震雷火事じーちゃん、って所か。そーいやとーちゃんが本気で怒ってるところって見た事ないし。

 どこかちゃらんぽらんな、それでも尊敬すべき父を思い、俺はふすふすっと鼻で笑った。

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