第10話 鬼


 炉吏子が熱を出したらしい。

 その知らせはなぜか医者ではなく、早朝の我が家にやって来た。


 炉吏子を除霊した件から、浪花家は我が家を医者より優先して利用するようになった。大概はただの風邪だったりするのだが、何せ守護霊のいない特殊体質の炉吏子のこと、油断はできない。ランドセルを背負って一応じーちゃんの札――我が家最強アイテムだ――を持って炉吏子の家に行ってみると、なるほど良くない気が溜まっている。勝手知ったる他人の家、炉吏子の部屋に行くと邪気は濃くなって俺はメガネの明度を上げた。殆ど真っ白なレンズにそれでも映り込むのは、鬼の姿だ。

 鬼――漂着した異人がモデルと言われているが、そして確かにそう言うのもいるんだろうが、実際にそれと言うのはいる。ちりちりした髪、赤黒い肌、ぎょろりとした眼、八尺は有りそうな体躯。虎の腰巻。じーちゃんの札でどうにかなるかな。ちょっと不安になって炉吏子のかーちゃんに一応とーちゃんも呼んでもらう。それから俺は、いつものパターンに入った。ずばり、対話だ。

「なあ、あんた」

 ぎょろっとした眼がこっちを向く。その目と目を合わせて、見えていることを知らせる。しかし鬼はすぐに炉吏子に視線を戻した。こっちと話すことは無いと言いたいのか。一応俺、そいつの友達なんですけどね。

「あんたの邪気でそいつは体調を崩してるんだ。なんだってとり憑くことにしたのか、理由を教えてもらえないか」

『邪気?』

 きょとんとした丸い目はやっと俺を認識して、そして心外そうにしている。

「鬼はあんまり良い存在じゃないんだ、俺達みたいな人間には。おまけにそいつには守護霊がいない。はっきり言うと、あんたがそこにいるだけで命に関わる」

『俺はそんなつもりでは――』

「つもりでなくても、なっちまうんだよ。特にそいつみたいな非力な人間には」

 しょぼん、とした顔になる鬼を見るに、本当に何か因縁や怨念かあって炉吏子に取りついたわけではないらしい。さて、俺は座り込んでそいつを見上げるようにして見る。機動性は関係ないのが呪術だから、座っていても問題はない。足がしびれるのは嫌だからあぐらだけど。

「どこで炉吏子に会ったんだ?」

『何処も何も、この娘はいつも俺のいる社の前を通る』

「通学路か。そういや鬼封じの跡があったな。近寄るなって言っといたのに」

『夏に入ってからは、暑いでしょうと水を掛けてくれるようになって』

 八方美人な優柔不断は優しさじゃないぞ、炉吏子。猫といい、鬼といい。猫又が牙を剥いて何とか壁になっているのが解ったが、それは些細なものだ。炉吏子は確実に、死に掛かっている。

「とりあえずここに居ると炉吏子が消耗するたけなんだ。場所を変えて話さないか」

 こく、と頷いた鬼はすごすごと、炉吏子の家から出て行った。

 場所を変えて、鬼塚である。平家だか源氏だかが昔鬼を切り伏せてからずっと塚として祀られているそこは、なるほど林もなく日差しが強い。そこにはペットボトルの水が備えてあって、二リットルと言うおおざっぱさがいよいよ炉吏子を思わせた。これを掛けられてたのか、と問うと、こくん、と頷く。どこぞの天然水。てきめんだろう。あやかしにも、神にも、こう言うのは。もっともどの程度配合されているのかは解らないが。とりあえず俺はそれを塚にかけてやると、鬼は心地良さそうにして頬を緩めた。陰気が転じて行くのが解る。こんなの毎日やってたのか、炉吏子の奴。そりゃ好かれるわ、鬼にだって。否、鬼だからこそなのか? 何でもかんでも自分の所為にされて来た鬼だからこそ、そんな人間の子供の優しさが染みたのかもしれない。だがそれで自分が陰の気に当てられたら本末転倒だろう。炉吏子の方にはとーちゃんが行ってるからそろそろ意識を取り戻しているかもしれないが、二・三日欠席になるだろうことは確実だ。それは迷惑以外の何でもない。恩返しがしたくて塚を出たは良いが――ん、待てよ。

「そもそもなんであんた塚から出られたんだ?」

『塚が弱っていたのと、俺の力もまた弱っていたからだろう。毎日清水を被っていれば、怨念も消える』

 そういう意味ではよく出来ましたなんだけどなあ、炉吏子も。

 でもこういう中途半端に力の強い奴を解き放っちゃいかんだろう。

「もう少し、炉吏子が邪気を受け付けなくなるまで、ここで待っててもらっちゃダメか? なんなら式神として炉吏子と契約を結んでやることもできるし、上下関係が嫌ならあんたを守護霊にしてやってもいい。守護霊が付けばあいつも少しは元気になるだろうしな。今でも夏場と外の体育は欠席だし、それが良くなればあんたも嬉しくはないだろうか」

『それは、あの娘のためになるのか?』

「そう言える」

『ならば――俺をあの娘の守護霊にしてはくれないだろうか。鬼にも優しいあの娘を、俺は守ってやりたい』

「ははっ、炉吏子も院もびっくりだろうがな。っと、あんたがここでいつも行き会うのは炉吏子だけか?」

『どういう意味だ?』

「炉吏子の友達には神様に近い守護霊を持ってる奴もいるんだ。それであんたが浄化されちゃ、言っちゃなんだが報われないし救われない。一応俺の方からも話は通しておくつもりだが、覚悟はあるのかい、あんた」

『……それがさだめならば、受け入れよう』

「気に入った。まずはあんたの髪をくれ。髪は神に転ず、神に見てもらうには一番だからな」

『解った』

 ぶちぶちっと景気良く引き抜いたそれを、俺はじーちゃんの札に包む。鬼は陰とも呼ばれ、陰は院に転ず。もし院の力が借りられれば、こいつを炉吏子の守護霊に出来るかもしれない。それは今まで守護霊がいなかった炉吏子には、その体調には、てきめんに効くだろう。もしも悪さを企んでいなければ――だが。


『嫌じゃ。この鬼のケガレはいまだ人間の害悪になる。守護霊などにはなれぬ』

 と。

 学校に行って先に来ていたサラに鬼の毛を見せると、渋面で言われた。

 思えばここまで不機嫌な顔をされたのは初めてかもしれない。

「式神は?」

『娘の体力が持たぬ』

「そっか……」

 まあ受け入れるって言ってたし、仕方ないだろう。

 サラに今日は俺も欠席にしてもらって、俺は塚に戻る。そして結果を報告すれば、鬼はぶるぶるぶるっと震えて一段と大きく見えた。それから、ええい、と唸る。雷のような声だった。

『千年もここで大人しくしていてやったと言うのにまだ俺には辛抱が足りぬと言うのか! 俺は早くここから解放されたいのだ! あの娘の水で往時の力も戻ってきつつあると言うのに、何故また待たねばならぬ!』

「は? お前、炉吏子を守るんじゃ」

『そんな方便に騙されるのはお前ぐらいだ、未熟の祓い師! 神に近いその守護霊とやらがいなければ、俺は自由になれたと言うのに! お前も娘も食い殺して!』

 殺す――

 初めてそんな言葉を向けられて、ぞっとする。橋姫はもぎ取るのが目的だったが、こっちは明確に俺達を殺すのが目的だった。総毛立つ身体中、俺は声を上げようとしても出来ないことにまた恐怖を覚える。殺される? こんな所で? 炉吏子も守れず?

 ――そんなのは、いやだ!

 口の中で真言を唱えを俺はじーちゃんの札をかざす。ぱあっと光が出て、鬼は今度は俺より一回りも小さくなったようだった。それでもまだ殺気は発しているから、油断はできない。ぎゃお、と人の言葉も忘れたようなそいつが襲ってくる前に、俺はまたじーちゃんの札を――

「な、」

 焼け焦げている!? まさか、鬼は力を相殺したのか!? じーちゃんの札でもまだ生きてるあやかしなんて初めて見たぞ!? ノーガード状態の俺はせめて腕を突き出して身体を守ろうとするが、恐怖で目を閉じてしまう。

 ぱん、と音がして、それでも俺には何の感覚もなかった。

 そっと目を開けると、見慣れたシャギー入りのショートカットが目に入って来る。

 御朱印帳を片手に鬼に向かって立っていたのは、あざみだった。

「リドル、平和ボケしすぎ。鬼がはいそうですかとまた立てこもると思ってたの? ばっかじゃない? 鬼だよ? 相手。地獄にいるような奴がそんなに簡単に手なずけられてくれるわけないじゃない」

 どうやら帳面でブッ叩かれたらしい鬼は、その神気でまた身体を小さくしていた。って言うか凄いな御朱印帳。じーちゃんの札に匹敵するぞ、その威力。しかも複数回使用可能とか。神様との縁ってすごい。

 でも、あざみも震えていた。こんな露骨な怪奇現象に合わせたのは初めてかもしれない。だから本当は、怖いのかもしれない。それでも俺と炉吏子のために、御朱印帳を持って来てくれた。喜ぶべき誤算だ、これは。と、メガネの脇から光が入って来る。

「すみません小坂識君。あざみさんに相談したのは私なんです。どうしても、気になってしまって」

 後ろから聞こえた声はサラだろう。鬼用に明度を一番高く設定しているメガネからは、そのシルエットも解らないが、院が後光を放っているのは解る。今までにないそれに、俺はかしゃかしゃとメガネをいじる。両方が見えるようにしてから、やっと自分の呼吸が荒くなっているのに気付いた。俺は恐ろしがっていたのだろうか。恐怖していたのだろうか。こわい。こわいと思ったのは、初めてかもしれなかった。死にたくないと思ったのは、初めてかもしれなかった。こんな。こんなことをいつも俺は、していたのか?

 ――信じられない。

 普段は他人を祓っているせいか、自分の祓い方なんて忘れていた。後でじーちゃんととーちゃんに聞いておかなきゃなるまい、そんな大事なこと。初歩的なこと。自分の身を守るのが一番に大切なのだと、すっかり忘れていた。やっぱり俺は未熟者で、修行が足りていない。

『我に縁のある者を害するのでは、な。そうら残りのその邪気、我が吸い取ってくれよう』

「お願いします。院様」

「お願いするんだよ。院様」

『ひっひいい! いやだ、死にたくない、死にたくないい!』

「じゃあ何で殺すなんて言ったんだよ! それが無けりゃ俺だって、穏便に塚を直すことだってしてやったのに……!」

『お前は優しいな小僧。だが優しさと優柔不断な八方美人は違うぞ』

 それは――

 俺が炉吏子に思った事だ。

 院が鬼に触れると、その姿はしおしおと縮んでいき、やがてぱっと無くなってしまった。

 俺も炉吏子と同程度、って事か。

 祓い師としては致命的だ。

 俯いていると、あざみとサラに両側から腕を引っ張られる。

「ほら、炉吏子ちゃんのとこ行くんでしょ?」

「きっと心配していますよ。さ、早く行きましょう?」

 自分がへたり込んでいることに気付いたのも、その時だった。


 炉吏子にはとーちゃんが付きっきりでいてくれた所為か、意識も戻って猫又もあくびをしていた。元凶だった鬼のことを話して、院様が助けてくれた、と話すと、とーちゃんは深々とサラに頭を下げる。そしてあざみにも。多分俺の持ってたじーちゃんの札が焼け焦げていたのを見て色々悟ったんだろう。とーちゃんにはやっぱり、敵わない。存外お不動さんが言ってた『頼りない後継者』とは俺の事だったのかもしれない。自惚れていた。色んなものを見てきたはずだったのに、対話でどうにもならない相手がいる事なんて考えてなかった。今回だってあざみがいなかったら、院がいなかったら、どうなっていたかしれない。

「取り敢えず方違えは必須な、炉吏子」

「かたたがえ? ってなに、リドル」

 はふ、とまだ荒い息でスポドリを呑んでいる炉吏子に、俺はゆっくり説明する。

「お前が今まで通ってた道は、悪いものに憑かれやすい道だった。今その悪いものは一応いないが、また何か来るかもしれない。だからまず、通学路を変えろ」

「具体的にどこを避ければ良いの?」

「塚のある場所はダメだ。あと、そう言うのに情けを掛けるのもだめだ」

「道祖神様もだめ?」

「だめだ。お前は本当、自分の体質をもうちょっと理解しろ。とにかく憑かれやすいんだ、お前は」

「はぁい……」

「それとこれ、新しいお札な。今度は木札だからちょっと重いかもしれないが、なるべく身に着けておいてくれ。書いたのはじーちゃんだから、てきめんに効くと思う」

「ん……」

「学校は二・三日休め。良いな」

「解った。今回もありがとね、リドル」

 俺は何もしていない。

 俺は何もしていないのに、礼を言われてしまった。

 何だか情けなくて、顔が熱くなるのをメガネで隠して、俺は炉吏子の家を出る。

 待っていたとーちゃんとあざみとサラが、眩し過ぎて見えなかった。

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