第81話「後始末」

 炎怒と久路乃の言い争い、晴翔の笑い声。

 光原は気絶しているし、炎怒に蹴られた中岡は依然体育座りで蹲ったまま。

 もうすぐ光原家の光景に戻ってしまう空間は、混沌としていた。


 その時、

「うるせぇぇぇっ!」


 突然の怒鳴り声に喧嘩の声も笑い声も止まった。

 中岡だった。


「……うるせーよ」


 炎怒は口喧嘩をやめて再び中岡の前に立つ。


「おい、おまえ。『助けて』以外も言えるじゃないか。なぜ返事をしない?」

「…………」

「またシカトか」


 久路乃に止められていた二発目の前蹴りが中岡の頭を襲う。

 蹴られたままに後ろへ倒れ込み、そのまま起き上がらない。

 頭を抱えて丸まりながら「やめろよ……蹴るなよ……」と、か細く呟いていた。


 一番近くにいたので、炎怒だけが呟きを聞き取ることができた。


「蹴ると喋れるようになるなんて、おまえ変わってるな」


 そう言うと、倒れたままの頭を何度も繰り返し踏みつけ始めた。

 中岡は決して変態ではないが、蹴られると話ができるようになるというのはある意味正しかった。

 蹴りが刺激となって茫然自失の状態から正気に戻ってきた。


「これでやっと話ができるな」

「……やめっ! 痛っ!」

「ここは崩壊するから、いますぐどこかに行けよ」

「どこかって、どこに行けばいいんだよ!?」

「自分の身体に帰ればいいだろ」


 会話中もずっと蹴り続けている。

 会話を円滑にするためなのか、任務中に受けた妨害の仕返しなのか、炎怒の胸中は誰にもわからない。


 中岡はすっかり正気を取り戻していた。

 立ち上がり、鬼の蹴りを防御しようとしていた。

 しかしその防御の隙間を縫って、的確に蹴りが命中する。

 炎怒は読心を用いていた。


 残酷なようだが、忘れてはいけない。

 炎怒は天から遣わされた使いではあるが、人間に優しい天使ではないのだ。


 その厳しく正確無比な蹴りがついに中岡の顎を捉え、膝からガクガクと崩れ落ちそうになる。

 だが、襟を掴んでそのまま倒れることを許さない。


「なあ、早く帰ってくれないか?」

「…………」


 中岡は蹴られすぎてぐったりしていた。

 その返事も出来ない状態を自らの蹴りのダメージのせいとは考えない。


 ——ああ、やっぱり蹴りが止まると話せなくなるんだな。


 これが炎怒の考え方だ。

 さらに蹴りをお見舞いするために襟を放す。


 もはや立っていられない中岡はその場に崩れ、大の字に倒れた。

 その顔面に、再び炎怒の足の裏が無情に迫る。


「ちょっと待ってくれないか。炎怒」


 一度は制止した久路乃だったが、それ以後は思うところがあったのか、ずっと炎怒の一方的な暴行を止めなかった。


 炎怒に蹴るのをやめさせると、静かな声で中岡に尋ねた。


「どうして帰らないの?」

「お、俺……違うんだ……違うんだよ!」

「違う? 何が?」


 中岡は話している相手が目の前の半鬼より高位の存在、天使だと直感した。


 倒れている状態から起き上がり、膝をついて助けを求める。

 いま受けている暴行から助けてということではない。

 今回の一件について、無罪の主張と神様への取り成しを頼みたいということだった。


「無罪?」


 中岡はポツポツと語り始めた。


 小学校の頃、父親がリストラされた。

 以来、家で酒を飲んでゴロゴロと腐っていった。

 夫婦喧嘩が絶えず、家を支えていた母親は子供に対して八つ当たりが酷かった。


 ある日、家がうるさいので近所の惣太郎塚の広場に逃げ、疲れてベンチに座り込んでいるうちに嫌な考えが頭に浮かんできた。


 ——みんな普通に暮らしているのに、なんで自分家ばかりが不幸に!


 そう、心の中で叫んでいたら、目の前に子供の侍が立っていた。

 とても驚いたが、そいつは天の使いの弟子だと名乗った。


「……だから握手したんだね?」


 そこまで聞けば全員理解できた。

 似たような不満を抱えていたから惣太郎が引き寄せられ、握手して憑依を許してしまったのだ。


「それで、取り成してくれるまで心配だから帰れないっていうこと?」

「そうだよ。俺はあのガキに騙された被害者なんだ。あんな風になりたくねーよ!」


 惣太郎はレットウと関わったことで消滅しかけた。

 中岡は惣太郎と関わってしまった。

 自分も悪魔と関わった者として溶けて消えてしまうのではないのか、という不安だった。

 久路乃が惣太郎を消滅から救ったのを見て、自分も安全を保証してもらいたいということなのだろう。


「あんた、天使なんだろ? 助けてくれよ、俺は何の罪もないんだよ!」

「……何の罪もない、ねぇ……」


 相槌を打つ久路乃の声はどこまでも静かだった。

 怖いくらいに……


 コンビを組んで長い炎怒は知っている。

 初めてのことで知らなかったかもしれない晴翔も、敏感に感じ取っていた。

 久路乃が怒っている、と。


「いじめは?」

「は?」

「晴翔君たちをいじめた罪は?」

「あれは俺じゃない。俺の身体を乗っ取って惣太郎がやったんだよ」

「へー、惣太郎がねぇ……」


 久路乃の声と漂ってくる雰囲気が冷たさを増した。

 炎怒と晴翔は同時に思った。

 やばい、と。


「炎怒」

「ん?」


 まだ中岡との話の途中、久路乃は炎怒に命じた。


「幽切を抜刀。目標、中岡君」

「了解」


 間髪を容れずに幽切が抜き放たれた。

 次の獲物は中岡。

 炎怒が八相に構える。


 もう刃の高熱は冷めているようだった。

 代わりに久路乃の冷たい怒りを表すようにひんやりとした光を放っている。


 中岡は腰が抜け、尻もちをついた状態のままバタバタと後退った。


「え? え? なんで!?」

「中岡君——」


 中岡に頼まれている取り成し。

 久路乃の返答は?


 惣太郎がやりたかったのは今晩のような鬼退治。

 基本的に昼間に鬼を見つけておいて、夜、憑代が就寝してる間に惣太郎の霊体だけで退治に行ってくる。

 いじめそのものは目的じゃない。


 それに身体は本人専用。

 憑代本人がやりたいと思ったことが優先される。

 君がいじめたいと思えば、惣太郎の都合より優先していじめを実行する。


 君たちにいじめられていた子が、偶然にも探している鬼の条件に合致していたこともあったかもしれない。

 惣太郎の良くなかった点は、君たちのいじめに便乗して昼間から鬼退治をしようとしたことだ。


 ただしそれもただの便乗。

 誰をいじめるか標的の指定はやってない。

 誰をいじめるかは君の自由な意思で決定している。


 だから——


「いじめは君の仕業だね。惣太郎に罪を擦りつけちゃいけない」

「待ってくれ! 鬼退治を手伝ってくれって、あいつが言ったんだ! それで仕方なく……」

「昼間にいじめておいてくれって頼まれたのか? 手伝いは昼間のうちに鬼を見つけておくことだけだよ」


 どう弁明しようと、中岡の意思によるいじめだったことは明白だった。


「でも、かわいそうだから助けてあげるよ」

「えっ?」


 意外な申し出に怯えていた中岡の顔が少し明るくなった。


 久路乃の救い、それは……


 そもそも平和そうな奴らが憎かったから悪魔や悪霊が寄ってくることになった。

 レットウや惣太郎は去ったが、その憎しみがある限り、似たような悪魔たちに再び憑依されるだろう。

 憑依されなかったとしても自分の意思でいじめを続けるだろう。


「不憫だからこれ以上罪を犯さなくて済むように、とどめを刺してあげるよ」


 喧嘩ばかりの久路乃と炎怒。

 こんなときだけは息がぴったり合っている。

 炎怒は八相構えから一気に中岡に白刃を振り下ろした。


「わあああぁぁぁっ!!!」


 晴翔は思わず目を背けた。

 友達ではないが同級生が斬られた。

 そんな残酷シーンを正視することはできない。


 ゆっくり五つ数えた頃、薄眼を開けてみる。

 中岡は頭を抑えて丸く蹲っていた。

 まるで学校で袋叩きに遭っている時の自分のように。


 幽切は寸前で止まっていた。


 中岡も恐る恐る顔を上げると幽切の切っ先と目が合って、恐れ慄いた。


「構え!」


 久路乃の鋭い命令を受けて炎怒は八相に戻り、中岡を狙ったまま待機する。

 中岡は涙目になりながら、短い呼吸を繰り返している。


「中岡君」

「は、はい!」

「もう一度だけ尋ねるよ? 中岡君はどうして他の人をいじめたの?」


 久路乃が尋ねるその下で、炎怒は悪鬼を睨みつける明王のように身じろぎ一つしない。

 頭を抱えた状態の中岡から啜り泣きが聞こえてきた。


「……ずっとムシャクシャしていたので、ストレス発散のためにやりました」


 中岡はようやく自らの悪心を認めた。


 そうだ。

 この天使の言う通り。


 小学生のときから時々聞こえてくる内なる声——

 その声はこいつが鬼なのか、と確認してくるだけ。

 こいつが鬼だからいじめてやれ、と唆してきたことはない。


 遊びのつもりだった。

 人に嫌な気分を味わわせて、こちらが爽やかな気分になれる遊び。


 遊びなのだから、自分が楽しかったかどうかが重要だった。

 相手の気持ちなどわかる必要はない。

 わかってしまったら興醒めしてしまう。

 むしろ苦しんでくれた分だけこちらの楽しさが増すというもの。


 公平・平等というなら、なぜ俺ばかり我慢が絶えないのか?

 みんな同じ、みんな平等というなら、我慢も公平・平等にしろ。

 俺の遊びのために少しくらい、嫌な思いを我慢しろ。


 そんな気持ちから、自分の意思で——

 いじめていた。


 ついに白状した中岡に久路乃の声が穏やかになった。


「それでも君は感心な若者だったよ」


 話の流れに合わない意外な言葉。

 中岡は驚いて見上げた。


 惣太郎の存在が後押しとなって、乱暴な性格に変貌していったものの、一方では人知れぬ我慢を続けていた。


 欲しい物があっても買わずにバイト代を家に入れたり、寄り道せず早く帰宅して母親の代わりに家事を済ませておいたり……


 この場で久路乃しか知らない彼の努力だった。

 誰も知らない。

 光原にも言ったことがない。


「みんながしない苦労を君だけが。なぜだと思う?」


 中岡にわかるわけがない。

 考えたこともない。

 原因が何かなど考えるのも面倒だから、学校に行って弘原海たちを殴ってきたのだから。

 急に問われても答えられない。


「運命の一環だからだよ」

「自分だけ苦労する運命だから諦めろってこと?」

「違う。運命ってのはもっと長く大きな規模で考えるものなんだ」


 たとえばさっきの惣太郎——


 彼は元々、レットウに対抗していく運命の持ち主だったのかもしれない。

 だからまずは同じ悪魔になり、手口を知るために近づいていくことになった。

 そして手口を知ったので天界に戻り、これからその経験を生かしていく。


 だとしたら、今回の悪魔堕ちは天界の予定の内。

 長い運命の一環だったかもしれないのだ。


「君も同じだ」

「俺?」


 いつか何かに成功するための経験。

 そのための苦労だったんじゃないだろうか?

 君の運命に必要な経験だから、その苦労は君の身にしか起こらないんだよ。


「…………」


 中岡はあちこち痛む体に気合を入れて立ち上がった。

 一同を見渡し、最後に晴翔の方を向いた。

 そして——


「悪かった」


 言葉は短いが、誰にも強制されずに出た本心からの詫びだった。


 続いて、ちょっと恥ずかしそうに躊躇いながら、

「……ありがとう」

 と久路乃の方に向かって一礼した。


 天使に言われて気がついた。

 自分が何にイライラしていたのかを。


 誰かに保証してほしかったのだ。

 味わっている苦労に意味はちゃんとあるのだと。

 誰かに認めてほしかったのだ。

 よく頑張っていると。


 中岡から憑き物が落ちた。

 その憑き物とは惣太郎のことではない。


 みんな順調なのに、自分だけがうまくいかない。

 いくら頑張っても、みんなの水準に達することができないという劣等感。

 どうせ追いつけないなら、勝てそうな奴を引き摺り落としてやればいい。


 中岡の方針を歪めてきたその劣等感という憑き物がいま落ちた。

 彼の霊体を本来の彼らしい霊気が包む。

 やっと悪魔憑きから人の霊体に戻れた瞬間だった。


「俺、帰るわ」


 穏やかさを取り戻した中岡はそう告げると、いま頃熟睡しているであろう自分の身体へと帰っていった。


 ようやく終わった……

 喜手門市魔界化は阻止された。

 長かった炎怒と久路乃の任務が完了した。

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