第80話「大剣豪」
「惣太郎……」
異変に久路乃が気づいた。
炎怒も晴翔もそれに続く。
惣太郎の周囲に溜まっていたドライアイスが天に向かって蒸発を始めた。
霊体の質が悪魔から人霊のものに変化したことを意味していた。
そして本が——
本が持ち上がった。
まだ気体のままの手でブルブルと震えながら、確かに地面から持ち上がっている。
今の惣太郎には何もない。
既に炎怒を苦戦させた力はなく、この世に固着出来るだけの念もなくなった。
他者に認めさせる如何なる力も失った。
こんな消えかけた霊の機嫌を取る必要などどこにもない。
にも関わらず、励まされた。
頑張れ、と。
励ましの言葉を聞いて、惣太郎は思い出した。
単なる鉄の真剣が欲しかったのではない。
真剣を差せるほど頑張った、と認めてもらいたかったのだ。
だからまだ消えるわけにはいかない。
まだ、励ましてくれたことに対してありがとう、と返していない。
子侍は、いや——惣太郎はもう武士に対する執着を捨てた。
そして過去にのみ向けていた意識が、これからの未来に向かい始めていた。
霊界は思ったことが叶う世界。
その意識の変化が反映し、彼のこれからを表す姿になった。
若衆髷だった頭髪は現代の少年のようになり、衣服も着物から洋服に変わっていた。
現代の小学生のようだった。
そうしている間にも白煙は益々増えていく。
そして希薄になっていく身体はついに立ち上がった。
だが残された時間はあまりない。
惣太郎の感謝は惣太郎でいられるうちに伝えなければ。
末端から蒸発していく霊体。
その揺らぐ両足を踏ん張って晴翔のほうに向ける。
晴翔も前に進み出た。
惣太郎はか細く、それでも精一杯の声で思いを伝えた。
「ごめんなさい……それから、応援してくれてありがとう」
言い終えたとき、今度こそ限界を迎えた。
惣太郎の全身から一気に白煙が噴き上げた。
その猛烈な風の中で晴翔は確かに聞いた。
「真剣って、こんなに重かったんだね」
そう微笑むと、天に上っていった。
真剣に対する執着を捨てた惣太郎。
そのことで殿様より更に上の天界から法律書という〈霊刀〉を拝領することができた。
惣太郎の改心を天界が認めたことを意味する。
とはいえ、惣太郎はこれから大変だ。
竹光とはまったく使い方が違う新たな霊刀。
全て一からやり直しだ。
苦労の日々が続くだろう。
でもその苦労は破滅に向かう悪魔の苦労ではない。
だからいつの日かなれるだろう。
悪魔レットウの天敵、〈
***
「お優しいことで」
炎怒は幽切を鞘に収めながら、久路乃に皮肉った。
皮肉を理解した久路乃は照れ臭そうに言い訳する。
「天使はなるべく救うのが仕事だから……」
「で、どうするんだよ?」
どうとは、惣太郎をどうするのかということだ。
いま頃、天界で隔離されていることだろう。
〈魔界帰り〉だから。
大事に抱えていった本が久路乃の推薦状になり、迎え入れられはした。
だが、新しい道を進んでいくためにはこれから久路乃が惣太郎のことを他の天使達に報告し、承認を得なければならないのだ。
〈魔界帰り〉の天界帰化の承認を。
天使達にはそれぞれ個性があり、考え方も皆同じではない。
その相違は今回のような惣太郎の処遇について、肯定派と否定派という形で現れる。
肯定派は全体の四割程度。
中立派はいないので、自動的に残りの六割が否定派ということになる。
では、惣太郎は追い出されるのか?
おそらくそうはならない。
六割の否定派、さらにその半数の天使はどうせダメだろうが、試しにやらせてみればいい、と考えているからだ。
合わせると賛成七割となる。
どうあっても反対と主張する天使たちも決まったことについては協力する。
少なくとも妨害はしてこない。
だから惣太郎の未来は決して暗くない。
「おまえが後見につくのか?」
炎怒は期待を込めて質問した。
どちらかというと、惣太郎のことよりこちらのほうに関心があった。
原則、一人の後見対象に一人の天使がつくという制度だ。
久路乃が惣太郎の後見につくなら、炎怒は監視を解かれる。
晴れて自由の身になれるということだ。
しかし、その期待はあっさりと砕かれる。
「他の者についてもらうよ。私はあんたの後見だから」
気まずそうに苦笑する久路乃。
炎怒はガックリと肩を落とした。
「さあ、早く晴翔君を連れて帰らないと、夜が明けてしまうよ」
項垂れる炎怒を励まして帰路に急き立てた。
(…………)
その背中に久路乃は悲しげな視線を送る。
(炎怒、あんたの後見をやめるわけにはいかないよ……)
人のままで耐えられる怨念には限度がある。
すべてを憎む人間の限界を超える怨念。
そのとき、人は鬼に転化する。
普段は元々の鬼も含めて広く〈鬼〉と呼称しているが、混同させたくないとき、転化した鬼を〈
怨鬼はすべての記憶を失い、力尽きるまで無差別に暴れ狂う。
破壊と殺戮の限りを尽くし、最後は燃え尽きて消えるのだ。
そのような者たちの中で、稀に片角が伸びてしまった段階で怨鬼への転化が止まる者がいる。
転化の途中で雑念が入るからだ。
雑念、それは——
楽しかった日々、輝かしかった夢、愛する人との思い出。
人は雑念が浮かんだとき、転化をやめる。
しかし途中でやめても、一度点いた怨念の炎が消えるわけではない。
人の意識も思い出もすべてを焼き尽くそうとする。
だからそれらを怨念の炎が届かない、自分の中の最も深いところに封印する。
かつて、人であったことを忘れることになろうとも……
怨鬼になりかけ、途中で思いとどまったもの——
それが半鬼だ。
炎怒はその昔、久路乃の目の前で半鬼になった。
その時の久路乃が直ちに確保し、今回の惣太郎同様に天使達の承認を得て後見についた。
「炎怒」という名前は後見についた久路乃が付けた。
本名があったことを忘れているから……
「炎」は彼の持つ炎や熱の能力を表し、「怒」は天界で半鬼の名前によく用いられる文字。
つまり「炎の半鬼」という意味である。
そして今日に至る。
昔日に思いを馳せ、目を瞑っていた久路乃。
目を開くと、炎怒が晴翔君のところにいないことに気がついた。
どこに行ったのか、と見渡すと中岡のところだった。
しゃがみ込んでいる彼に一言、二言、何か言葉をかけている。
何を話しているのかと見ていたら、いま蹴りをいれた。
「あっ! また乱暴なことを!」
おちおち思い出に浸っている暇もない。
久路乃の苦労はまだまだ続くのだった。
***
惣太郎を見送ったあと、高校生三人はまだ〈間〉にいた。
光原は気絶したまま。
晴翔は霊が成仏するところが珍しかったのか、惣太郎が上っていった先を見上げたまま。
中岡はいつ気がついたのか、体育座りのまま震えている。
戦いが終わり、晴翔を連れてさっさとこの空間を出るかと思われた。
だが、向かった先は中岡のところ。
炎怒は彼に何の用があるのか?
この空間は元々霊界にある光原の自室だった。
その後、惣太郎が表に出来てきて主となり、彼の心界の風景に上書きされていた。
いま、その主が去った。
主不在の心界は商店街のゲーム店のように崩壊し、まもなく光原の自室に戻るだろう。
光原は自分の部屋に戻るだけだから、何の影響もない。
晴翔も光原の自室に「遊びにこい」と招待を受けているので問題ない。
炎怒は晴翔に同伴してきた友達のようなもの。
おそらく大丈夫なはず。
問題は中岡だ。
彼は招待されていない。
小学生の頃や高校での再会後に、もしかしたら招待されたかもしれないが、いまは「あいつとは絶交だ」と光原自身がはっきり拒絶している。
家はそれ自体が結界であり、この家が霊界で光原家の形をとっているということは魂があるということ。
だからここが光原家に戻ったとき、この家自身の意思が中岡を侵入者と見なし結界の外に弾き出す。
それは至近距離で大爆発に巻き込まれるようなもの。
中岡の霊体は大怪我を負い、下手をすれば砕け散るかもしれない。
そうなったとき、人に優しく半鬼に厳しい久路乃は命じるだろう。
……拾ってこいと。
世界の果てまで飛び散っていった細かな破片を一つ残さず拾ってくるなど、罰ゲーム以外の何者でもない。
中岡一人が悪いわけではないが、レットウを取り逃がした原因の一端はこいつの紛らわしい振る舞いにある。
本来、そんな奴がどうなろうと知ったことではない。
だが、炎怒は久路乃との長い付き合いの中で、最後は必ず自分にとばっちりが飛んでくることを学習していた。
だから早くこの空間から出ていってほしいのだ。
それなのにさっきから何度「おい」と声をかけても、前方の地面を見つめて「助けて」しか言わない。
炎怒は任務中、ずっと中岡にイライラしていた。
いまもこちらの呼びかけに応じず、時間ばかりが経過していく……
——こいつは久路乃から俺に地獄の命令が下るよう、仕向けているんだ……
まったくの被害妄想なのだが、炎怒はこれから自分に降りかかる運命を悟ってしまった。
直後、その悟りは前蹴りとなって中岡の頭に入ったのだった。
思い出に浸り、反応が遅れてしまった久路乃が慌てて二発目を止める。
「やめなさい、炎怒! いきなり何をするの!?」
「こいつは俺を地獄に落とす気なんだ」
「はぁ? 地獄???」
久路乃が炎怒の被害妄想を鎮めようとするが、これまで辛酸を舐めてきた炎怒は信じない。
悪魔と天の使いの決戦の場は、天の使いと天使の口喧嘩の場に変わった。
ずっと見上げていた晴翔は場が騒がしくなったことに気づき、余韻から戻った。
聞いていると内輪の不平不満のようだ。
正直、内容はよくわからない。
おそらく、自分たち人間が普段している話とそれほど違わないのではないだろうか。
そう思うと、なんだか可笑しい。
晴翔は笑った。
半鬼だって被害妄想になるし、天使だって口喧嘩する。
皆同じだったんだ、と。
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