第79話「地震、雷、火事、久路乃」

 惣太郎は泣きじゃくっていた。


 もう取り返しがつかない。

 いまから父母の下へ行って詫びてくることもできない。

 ずっと昔に二人とも寿命を全うしてこの世を去っている。


 そして自分は——

 自分は、人霊ですらなくなってしまった……


 人霊ではないから天界に帰れない。

 では、悪魔なのかというと、それも違う。

 レットウから悪魔のように仕立て上げられていただけで、正真正銘の悪魔として認められていたわけではなかった。

 だから魔界にも帰れない。


 世界のどこにも居場所がない。

 そんな惣太郎という存在を、風化が容赦なく溶かしていった。


 ——ジワジワと自身が風化していくのを味わえとは……


 さすが久路乃だ、えげつない、と炎怒が皮肉を込めて見直していたときだった。

 上から一陣の突風が吹き下ろしてきた。

 膝下の灰が舞い上がり、惣太郎は思わず目を瞑る。


 未練を一つ残さずという意思の表れなのか、突風は粉々になった炭も灰もすべて吹き飛ばしてしまった。

 あとに残ったのは溶けかけた惣太郎のみ。


 ——いや、もう一つ残っている。

 炭が落ちていたところに何かある。


 風が止み、恐る恐る開いた惣太郎の目に飛び込んできたもの。

 それは、一冊の本だった。

 表紙にはこう書いてある——「六法全書」と。


「なんじゃ、この書は?」


 反応に困っている子侍に久路乃が説明した。


 もう江戸時代は終わり、武士という身分もなくなった。

 だが、現代も本当の〈鬼〉に苦しめられている人はいるし、それを助ける人がいる。

 彼らは鉄の剣ではなく、江戸時代でいう御法度で〈鬼退治〉をする。


 その本は現代の御法度をまとめたもの。

 いわば現代の真剣。

 久路乃が惣太郎のために用意した本物の武士の魂。


「理由はどうあれ——」


 そこまで優しく労わるようだった久路乃の声が厳しいものに変わった。


 悪魔になったことは間違いだが、正せばいい。

 汚点と思ってはいけない。

 汚点は引け目になり、劣等感の素になる。


 レットウと組んだ日々……

 間違いが正されたとき、その日々は汚点ではなく、経験になる。


「経験……」


 惣太郎がポツリと呟き、俯いた。

 自然と視界に六法全書が入ってくる。

 子侍の中で何かが変わろうとしていた。


「レットウは狡猾だ。炎怒ですら苦戦し、逃げられてしまった」


 ——偉そうに天界から口だけ出してる奴がっ……!


 不意に失態を指摘された炎怒はムッとして睨み上げる。

 そのことに気づいている久路乃だったが意にも介さない。

 いつものように喧嘩している場合ではない。


 今回は退散したが、喜手門魔界化を諦めたわけではない。

 いつか帰ってくるだろう。


 だが——


「おまえはレットウの傍にいたから手の内を知っている。おまえの経験は必ず役立つ」


「経験……手の内……」


 惣太郎の口から胸に残った言葉が紡がれる。


「だから、その〈真剣〉を取れ。いつか再びこの世に戻ってくるレットウから人々を守れ」


 話を聞いている間も風化は止まらない。

 溶けかけた頭と四肢は辛うじて形が保たれている状態だった。

 ぼやけていく霊体と意識の中、長い鬼退治の日々を思い出す。


 目の前に現れた殆どの鬼たちを退治してきた。

 そう、〈殆ど〉なのだ。

 数は僅かだが、退治できなかったときがあった。

 特に現代になってから。


 正確には鬼そのものではなく、鬼の味方に妨害されて退治できないことがあったのだ。

 その鬼の味方は分厚い本を傍に「異議あり!」と鬼退治の邪魔をしてきた。


 その分厚い本が目の前にある。

 惣太郎はしげしげと眺めた。


 ——そうか、あの本は真剣だったのか。これでやっと本当の武士に……


 やっと念願が叶う。

 胸を躍らせながら手を伸ばした。


 初めて触れた現代の真剣。

 その感触は——

 和紙の代わりに板でも使っているのだろうか?

 表紙に触れる指から硬い感触が伝わってきた。


 だが、それが心地よい。

 鉄製でなくともこれは真剣なのだから、その頑丈さが頼もしく感じられる。

 ありがたく頂戴し、胸に抱こうと持ち上げる。


 しかし……


 ドサッ——!


 左手がボロッと崩れて本が転がり落ちた。

 本は彼の手から離れ、傍に立つ炎怒の足元まで転がり去っていった。

 心の折れた霊体は風化が進み、竹炭と同じ末路を辿ろうとしていた。

 そんな身に六法全書は重すぎたのだ。


 ——やっと本物に出会えたのに……


 限界だった。

 左手に続いて身体も崩れ、まるでファンタジーゲームに登場するスライムのように地面に広がっていった。


 崩壊していく霊体を立て直し、これ以上存続していく理由がなくなったのだ。

 希望は完全に潰えた。


 目と思しきところから涙が一筋流れる。

 そして安らかに目を閉じた。


 …………


 ひたむきに頑張ってきた一人の少年。

 虐待に耐え、周囲からの迫害と軽蔑に抵抗しながら真の武士を目指した。

 あきらめなければいつしか夢は叶うと信じて。


 滅びのきわ、神様は少年の切なる願いを聞き届けてくれた。

 天使を遣わし、現代の人々を守る武士の証を授けようとしてくれた。


 しかし時すでに遅し。

 少年にその証を受け取る力は残っていなかった。

 真の武士を目指し、奮励努力してきた惣太郎の物語はこれにて終わ——


「立てぇぇぇっ! 惣太郎っ!」


 雷のような大音量が終焉を遮った。

 炎怒は煩そうに、晴翔はびっくりして見上げた。


 久路乃に対して物静かな印象を抱いていた。

 例えるなら炎怒が孫悟空で久路乃は三蔵法師のような。

 誰だって三蔵法師が雷鳴の如く怒りだしたら驚くだろう。


「悪魔に堕ちるほど焦がれたものなんだろう? 手がないなら口でも何でも使って取れ!」


 雷鳴は続いた——


 今日まで紛れもなく悪魔だった。

 改心したからといって、すぐには受け入れられないだろう。

 でもいつか救われた人々がおまえを認める日はやってくる。

 救い続けた日々が真の武士だと証明する日はやってくる。

 だからその日まで人々を守れ。


「わかったか! わかったらその真剣を取れっ!」


 厳しい言葉が落雷となって〈気〉の塊と化した惣太郎を何度も打った。

 それが効いたのか、溶解が止まり、少しずつ塊から四肢と頭のある人型に戻っていった。


 そして——

 閉じた目が再び開いた。

 左手が砕けて落としてしまった本を探し始め、それが炎怒の足元に落ちているのを見つける。


「うぅぅ……」


 苦しそうに呻きながら少しずつ這いずっていく人型。

 炎怒は邪魔しないように脇へ退いた。


 惣太郎はようやく本の下に辿り着いた。

 しかしそこからが大変だった。


 辛うじて腕の形はしているが肘から先が液体に近く、しかも手首から先はまだ気体だった。

 その手で何度も本を拾い上げようと試みるが、何も拾えず擦り抜ける。


 さっきはそこで諦めた。

 だが今度は違う。

 諦めなかった。

 何度も、何度も、何度も。


「……ぅぐっ……うぅっ……」


 やがて嗚咽が混じり始めたが、それでも諦めない。

 不撓不屈。

 彼の努力は素晴らしかったが、何度やろうと気体の手で物体を持ち上げることは無理なのだ。


 その様子を晴翔は何も出来ずに傍観していた。

 半鬼と悪魔の戦いに人間が協力できることなどない。

 炎怒からも手を出さずに離れてろ、と言われていた。

 自分もそうすべきだと従った。


 戦いは終わったが、いまもそうだ。

 自分に出来ることは何もない。

 あってもするべきではない。

 今がそういう場面だということは理解できる。


 炎怒がしたことと言えば、進路を妨害しないように退いただけ。

 久路乃は厳しく見守っているのだろう。

 姿は見えないので想像の域を出ないのだが、そんな気配を感じる。


 やっぱり部外者は大人しくしているべきだ。

 わかっている。


 ただ……


 あの法律の本、学校の辞書ほどもある。あの手では絶対に持ち上がらないだろう。

 それを泣きじゃくりながら何度も繰り返している。


 ……胸が痛む。


 正確には自分も惣太郎の被害者だ。

 彼が中岡を操って僕をいじめたのか、中岡自身が僕に抱いていた悪意を刺激してやらせたのかはわからない。


 でも——


 晴翔は、もし自分が惣太郎だったらどうしただろう、と思い浮かべてみた。


 同じように周囲から認められないことを嘆いていた。

 そして生きていくことに行き詰まり、偶然にも同じ山で命を。

 僕も機会を与えられたら〈鬼退治〉に走ったかもしれない……


 ——彼は、僕だ。


 僕は炎怒に止められた。

 彼は誰にも止められなかった。

 違いはそれだけだ。

 意思の強さでも何でもない。

 運が良かっただけだ。


 運が良かったから炎怒があの日現れて、僕はその後の〈答え合わせ〉が出来た。

 でも惣太郎は……


 もし僕が惣太郎なら、いま何がほしいか……


 嗚咽の響く中、考え込んでいた晴翔は何かを思い付き、顔を上げた。

 息を大きく吸い込んで、

「頑張れぇぇぇっ! 惣太郎!」


 嗚咽は止まり、炎怒が驚いて振り返った。

 おそらく久路乃も。


 晴翔は皆の視線を受けて我に帰った。

 何もするな、考えるなと言われているのに〈間列車〉に引き続き、またやってしまった。


「あ……その、ごめん」


 気不味さと気恥ずかしさに居た堪れず、後ろに下がった。


「……余計なことを」


 炎怒が思わず呟いた。

 余計なことだった。

 兜置山以来、炎怒と久路乃は晴翔に何も期待していなかった。

 見下しているのではない。

 これは神と悪魔のいわば縄張り争いであり、人間に手伝ってもらえることは殆どないからだ。


 ところが若者に身体を借りると、隣で余計なことを考える者がいる。

 死ぬほど嫌だった世界のことなど気にしなければ良いのに。

 晴翔がそのタイプだ。

 事あるごとに余計なことを……


 しかし、その余計なことは列車内でレットウをぶっ飛ばして炎怒を助けた。

 そしていまもまた、その余計なことが一人の子供を救おうとしていた。

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