第78話「悪魔の目にも涙」
霊同士の戦いは念と念のぶつかり合い。
イメージの送り込み合いだ。
惣太郎は鬼から伝えられたイメージ通りに、竹光が炭に変わる光景を思い浮かべてしまった。
ここは思ったことが叶う世界。
彼が思い浮かべた通りのことが、こうして叶ってしまったのだ。
惣太郎は炎から逃れたことで、落ち着きを取り戻すことができた。
すぐにどちらの手にも、鞘にも、愛刀がないことに気がついてキョロキョロと探す。
手を離して炎から飛び退ったのだから、前に落ちているはず。
果たして愛刀はすぐに見つかった。
いや、愛刀だったものが……
子侍の目に飛び込んできたのは、主人が捨てたボロボロの炭。
ついさっきまで武士の魂だったもの。
落下の衝撃で粉々になった姿だった。
「あ……あああぁっ……」
よろよろと炭の下に崩れ落ちる。
ポタッ、ポタッ……と炭の上に大粒の涙が一つ、また一つ、と降り始めの夕立のように落ちていった。
火傷で爛れた手でその炭をかき集めて胸に抱きしめる。
蹲ったまま小刻みに肩だけが震えた。
——やっぱり自分は武士ではなかった。武士になることも叶わなかった……
悪魔の生ある憑代の代わりになるほど強固だった信念は折れた。
挫けそうなとき、いつも傍に寄り添い、励ましてくれた師匠はもうそこにはいない。
当然だ。
レットウにとってバレて足が付いた憑代など、何の用もないのだから。
どうしても師と慕ってくるなら、せいぜい天の使いを足止めして、魔界に退却する時間を稼いでくれ。
あとは炎怒に勝とうが負けようが、弟子とやらの行く末に興味はなかった。
天の使いに敗れ、悪魔から用済みとなった惣太郎に風化が容赦なく襲いかかる。
幾筋もの白煙が全身の彼方此方から湧き出し、ドライアイスのように地に溜まりながら蒸発していく。
人霊や炎怒たちは上空へ蒸発していって天界で再び元の形に戻るが、悪魔は違う。
天界は受け入れを拒むので、地に溜まっていくのだ。
そうなると魔界に帰るしかないが、役立たずは拒まれるだろう。
ただの浮遊霊たちのように、形を保てなくなったら世界に漂う「気」に混ざり戻る、ということも許されない。
負けた悪魔は蒸発したあと、いずれ消滅するのだ。
過去、現在、未来、彼岸、此岸、どの世界にも惣太郎という存在はいなかったことになるのだ。
しかし炎怒は消滅を待つ気はない。
十手だった幽切を鞘に戻す。
鯉口の形は変わらないが、十手が細く変化しながら吸い込まれていった。
そしてすべて収まるや否や、すぐに抜く。
幽切はいつもの刀剣の姿に戻っていた。
蹲る惣太郎の傍に立つ炎怒。
首目掛けて大上段に構える。
「終わりだ」
天を向く幽切の切っ先。
弧を描いて閃き、惣太郎の項に迫る。
白刃が幼い首を刎ねる、まさにその瞬間——
「待って!」
急に降り注いできた静止の声。
あと皮一枚のところだった。
炎怒は制止のまま、声がした方を見上げる。
声の主は久路乃だった。
「惣太郎——」
名を呼ばれた惣太郎は、涙と鼻水でグチャグチャになった顔を上げる。
誰に呼ばれたのかと周囲を見渡すが、鬼と高校生達しかいない。
もう一度鬼を見ると、視線を上に向けているので、声は上からのものと気が付いた。
惣太郎も啜り泣きながら上を見上げる。
「あいつは師匠じゃなかったんだよ——」
久路乃は語った。
師匠と信じていたのは劣等感を抱く人間を惑わす悪魔。
人々に過ちを犯させるために、ただ、おまえを利用したかっただけ。
おまえを救う気も協力する気もない。
だから今日までしてきたことは鬼退治ではない。
何の罪もない人々を苦しめる悪行だった。
「…………」
惣太郎にとって名前も立場もわからない謎の声。
おそらくはこの鬼の仲間と推測するが、その声の主にいままでの鬼退治を否定されてしまった。
しかし、不思議と反抗心は湧かなかった。
事実、ここに師匠はいない。
この声の主が止めなければいま頃、鬼に斬られていただろう。
それでも助けに戻ってきてはくれなかった。
思い出してみれば、提案や励ましだけで手助けは一切なかった。
天から降り注ぐこの声が語る〈利用〉という言葉が耳から離れなかった。
惣太郎は話に聞き入った。
久路乃の話は続き、惣太郎亡きあとの夫婦について語った。
泥沼と化していた一家は一人息子がいなくなったことで、一緒にいる理由も詰り合う理由もなくなった。
夫婦は離婚した。
憎み合っての離婚ではない。
夫は酒をやめて出家し、妻は尼になって息子を弔う。
そのための離婚だった。
惣太郎がへたり込む傍にスポットライトが当たった。
一同が注目すると、そこには湯野木の惣太郎塚が映し出されていた。
「この石は?」
死に損なったと思い込み、数年彷徨った後にレットウに見出されたので、石碑を知らないのは仕方がなかった。
————!?
子侍は石碑に刻まれた名前に気がついた。
墓ならば家名が刻まれているはず。
なぜ自分の名前だけが刻まれているのか?
その疑問には答えず、久路乃は見上げる子侍に尋ねた。
毎年この石碑を供養している寺の名前を知っているか、と。
当然、首を横に振る。
石碑のことも知らなかったのだから、供養している寺などわかるはずがない。
久路乃は優しく教えた。
「想安寺という」
名前を聞いても心当たりはない。
遺骸を放置するわけにもいかなかっただろうから、誰かが運び込んだ寺がそこだったのだろう。
……その寺が一体どうしたというのか?
声の主の真意を計りかね、惣太郎は困惑していた。
「その寺はおまえを供養するために、父親が作った寺だよ」
「……えっ!?」
驚きで固まる惣太郎。
胸に抱いていた炭が指の間から零れ落ちて、膝と膝の間に積もっていった。
久路乃は続ける。
父親は兜置山の麓に塚と寺を建て、惣太郎の安寧を願って一生を終えた。
本当は「惣」の字を使いたかったのだろうが、子を「想」うという字になった。
母親も尼寺こそ作らなかったが同様の一生だった。
二人とも一粒種を出来損ないなどと思っていなかった。
もしそうなら供養などしない。
ずっと大切に思っていた。
——劣等感など拭い去り、武士らしく胸を張って生きたい。
だが、うまくいかないから酒に逃げ、いくら耐えても惨めな境遇から抜けられない憤りを、近くにいた子供にぶつけてしまった。
劣等感を捨てられなかったために起きた不幸だった。
久路乃から語られた真相。
「う、うぅ……」
惣太郎は嗚咽を漏らした。
火傷の痛みではない。
勝手に絶望して命を捨て、両親を悲しみのどん底に落としてしまったことへの後悔。
その涙が次々と零れ落ちていった。
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