第82話「午前七時」

 炎怒と晴翔は光原の家を後にした。

 行きは風のように急いだが、帰りは地に足を着けて歩いていた。

 それでも生身の人間より速いが。


 いまは深夜。

 住宅街は寝静まり、遠くを走る自動車の音しか聞こえない。


 いや、もう一つ。

 モーター音が途切れ途切れに聞こえてくる。

 新聞配達の人たちだ。

 みんなは土曜深夜だが、もう日曜早朝を始めている人たちがいるのだ。


 もうすぐ炎怒が降下してきてから八日目の朝がやってくる。

 そして晴翔にとっては首吊り後に始めて迎える日曜日。

 先週日曜日に人間としてこの世を去り、今日、霊としてこの世を去る。


 湯野木から立ヶ原へ向かう途中、道が分かれている。

 立ヶ原に向かう道と兜置山に向かう道。


 任務が終わったいま、二人と久路乃はこの場で決めなければならなかった。

 これからどうするのかを。


 炎怒は弘原海家には帰らず、このまま兜置山に戻ることを提案した。

 晴翔の悪霊化はいまも進行中。

 あの一家との約束がどうでもいいとは言わないが、いまは晴翔との約束を第一に考えるべき。

 正気でいられるうちに帰還するべきだと主張する。


 久路乃は一旦、弘原海家に帰るべきだと主張した。

 付近に悪霊の波動はなく、晴翔君も安定している。

 光原家出撃前、初恵さんを落ち着かせるためとはいえ、帰ると約束したのだ。

 約束の七時までに一度、顔を見せにいくべき。

 それから改めて山へ……


 このような平行線を辿り続ける議論は、続けても結論が出ない。

 結局、晴翔がどうしたいかに委ねることになった。


 分かれ道、晴翔はどちらに帰るのか……


「僕は、ちゃんと別れを言ってからいきたい」


 光原家をあとにしてからずっと考えていたのだ。

 中岡が帰ってから、炎怒と晴翔は横たわる光原をそのままにして帰ってきた。

 本来、光原が部屋の主だったのだから、惣太郎の影響が消えれば、元に戻れる。

 中岡への協力者という契約も〈悪魔惣太郎〉の消滅により消えるだろう。


 炎怒と久路乃はそう説明して、早くあの場所から退去することを促してきた。

 急いでいる理由はわかる。

 ゲーム店と同じような崩壊が起こるからだ。

 光原以外はタダでは済まない。


 勧めに従って退去してきたから、いまこうして無事に歩いている。

 ただ、晴翔は光原に別れの挨拶ができなかった。


 思い出してみると、中岡からボコボコにされた光原を送ったあと、「お邪魔しました」と言ったのが最後だ。

 あれが別れの挨拶になった。


 でもあれは炎怒が言ったこと。

 僕じゃない。


 知り合ったばかりの友人にそこまで拘る必要はないのかもしれない。

 だが、いよいよこの世を去る段階になると気になるのだ。

 その人との最後のやり取りが何だったかを。


 だから家に帰ると決断した。

 炎怒はその決断に異議を唱えなかった。


 任務はもう終わっている。

 それがいまもこうしてこの世を歩いているのは、晴翔との約束のためだ。

 あとは彼が〈いつ〉いきたいか。

 家族に挨拶してからいきたいというなら、その意思を尊重するまで。


 二人は一本、二本、と白煙を上げながら家を目指した。



 ***



 弘原海家午前六時——


 初恵はいつも通り、朝食を作り始めた。

 出来上がる頃には晴翔が二階から下りてくる。

 いつも通りに下りてくる。

 絶対に下りてくる。


 何も変わらない。

 普段通りの朝がやってくるのだ。

 今日も明日もその先も。


 だから変わったことはしない。

 別れでもなんでもないのだから、奮発もしない。

 いつもと代わり映えしない弘原海家の朝食を作っていた……


 弘原海家は俊道により厳しい規則が制定されていた。

 当然、就寝時間も決められている。


 しかし、昨夜は俊道自ら規則を破った。


 晴翔のことが心配で、一家は規則の時刻になっても眠れなかったのだ。


 出発前に炎怒から注意されていた。

 晴翔が襲われないよう、結界を張るから開けるな、と。


 でも——


 何かあったらすぐ助けられるように、二階の廊下で待とう。

 そういう意見も出たのだが、三人でリビングに固まって待つことになった。

 ドアの前で待っていると、ちょっとだけ開けて覗いてしまいそうだから……


 みんな、しばらくは起きていたが睡魔には勝てず、一人、また一人と意識を失っていった。

 初めに渡、続いて俊道がソファーで脱落し、初恵は風邪を引かないように毛布をかけてあげた。

 そのあと、自分も肩に暖かい上着をかけて食卓に戻り、時計の針を睨んでいた。


 覚えているのはそこまで。

 気がつくとテーブルに突っ伏していた。

 時計は五時五〇分を指していた。


「晴翔……」


 パタパタとスリッパの音を響かせながら階段を目指す。

 その一段目——

 上りかけた初恵の足が止まり、一階廊下に戻した。


 ドアを開けてしまったばかりに、晴翔が夕方みたいになってしまったら……


 炎怒の注意が脳裏をよぎった。

 あと一時間と少し……

 初恵はリビングに戻った。

 羽織っていた上着を脱ぎ、エプロンを着ける。


 ——そろそろ朝食を作り始める時間だわ。


 いつも通り!

 あの鬼が何と言おうと、いつも通りの日常がこれからも続いていく。

 続いていくように、毎朝やっている通りにみんなの朝食を作る。


 台所に立つ初恵の姿はこれでも晴翔を連れて行くのか、と炎怒に抗議するかのようだった。


 寝ていた二人が起きたのはそれから三〇分程あと。

 こちらも大体普段通りの起床のようだ。

 俊道はソファーが硬かったのか、痛そうに身体を摩りながら食卓にやってきた。


「晴翔は?」

「……まだ寝てると思うわ。下りてくるのはいつもギリギリだから……あの子」


 台所で忙しい初恵は背中越しに答えた。


「……そうだな」


 不安なのは一緒だ。

 語り合わずとも初恵の言いたいことはわかった。


 ——いつも通りにして晴翔を迎えよう。


 俊道も賛同し、努めて普段通りに振る舞う。

 顔を洗い、身支度を整える。


 二人が食卓に戻ってきた頃、朝食も完成していた。

 時刻は六時四五分。


 ここからは弘原海家の規則通りにする。

 みんな揃うまで朝食が始まらない。

 三人で晴翔を待つ。


 晴翔は平凡な高校生だった。

 とても炎怒の役に立つとは思えないが、あれからどうなったのだろうか……


 炎怒は言っていた。

 任務成功で戻れたら、いつも通り七時にリビングに下りていく、と。


 成功したら、だ。

 では失敗だったら……

 七時を過ぎても下りてくることはない。永遠に……


 そのときは彼の言葉通り、救急車を呼んだり、後の処理——


 …………


 そこまできたとき、三人にその言葉の重みが伸し掛かった。


 後の処理とは——

 弔うということ。


 四人で引っ越せるか、その前に葬式になるのかが決する一五分。

 長い。

 長いが、誰も気を紛らわせようとは思わない。

 ひたすら時計の秒針を目で追う。


 そんな地獄が一〇分経過したときだった。

 二階から物音が。


 ガチャ……バタン。

 …………

 トン、トン、トン。


 三人は速かった。

 まるで短距離走の選手のように。


 先頭は初恵。

 弾丸のようなスタートダッシュだ。

 リビングを出て、廊下から階段へ。


 駆け上がろうとしたとき、つま先が視界に入ってきた。

 見上げるとそこには——


「ただいま」


 晴翔が立っていた。

 生きていた!


 初恵は涙ぐむ。

 彼女から出た第一声、それは「おかえり」ではなかった。


「晴翔なの? それとも炎怒さん?」

「ん。いまは僕だよ」


 三人から歓声が上がる。

 晴翔が帰ってきた。


 安心した俊道が笑いながら突っ込んだ。


「家で寝ていたのに『ただいま』はおかしいだろ」

「『ただいま』じゃなくて『おはよう』でしょ」


 四人は賑やかに笑いながらリビングへ向かった。

 弘原海家にいつも通りの朝がやってきた。


「いただきます」


 四人全員が声を揃えて始まった朝食。

 炎怒はその様子を廊下から眺めていた。


 三人は誰も気が付いていないが、晴翔はこう言ったのだ。


 ——〈いま〉は僕だよ、と。


 ということは、〈いま〉が過ぎれば炎怒に交代するということ。

 任務は終わったが、炎怒と晴翔の約束がまだ終わっていない。

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