第69話「ありがとう……」
図書館からの帰り道、晴翔は自転車を漕ぐ炎怒と背中合わせに揺られていた。
晴翔から見ると後ろから前に向かって景色が流れていく。
いつも見慣れた立ヶ原の風景。
悪魔がやってきてこの街を魔界に変えようとしている。
そんなことなど嘘に思えてくるような穏やかな夕日。
——もう一週間経ったんだな。
晴翔はすべてに絶望して山に登った日のことを思い出していた。
あの日も晴れで、最後に見たのはこんな綺麗な夕日だった。
まさかその夜からこんな不思議な経験をするとは思ってもみなかった。
でも、それまでの一五年より遥かに濃密な時間だった。
自分の何が悪かったのか、どうすれば良かったのか、いろいろなことがわかった。
とても有意義だった。
「炎怒」
「なんだ?」
お互い背中合わせなので顔は見えない。
だがそれでいい。
これから恥ずかしいことを言うのだ。顔が見えないほうが言いやすい。
「ありがとう……」
「晴翔?」
様子がおかしい。
振り返って確認しようとしたとき、それより早く久路乃が叫んだ。
「炎怒、晴翔君が!」
自転車を漕ぐ足を止めずに振り返ると——
晴翔の悪霊化が進行していた。
——なぜだ? なぜ急に!?
いま喜手門はレットウが制圧を早めるために魔の影響を増大させていた。
市全域で霊的なものが活性化している状況。
現在の晴翔は自分の身体に寄り添っているとはいえ、外に露出している状態。
同様にその強い影響を受けていた。
さらに時刻は夕方。
昼と夜がせめぎ合う逢魔時。
人間たちに昼を譲っていたこの世ならざる者たちが浸み出してくる時。
気の早い霊たちが物陰から街に出始めていた。
そいつらはすぐに晴翔を見つけた。
同じ心に闇を抱える者同士、仲間に引き込もうと囁きかけてくる。
「何か喋ってる。何だろ?」
「何も聞くな! そこには誰もいない!」
もう遅い。
見てしまった。
聞いてしまった。
魔の影響、炎怒の憑依状態……
弱っている晴翔に抗う気力は残っていなかった。
「久路乃! 妨害しろ」
「さっきからやってる! でも晴翔君が聞こうとしているから効果がない!」
懸命に自転車を走らせるが、霊たちは追いついてくる。
炎怒は身体にそのまま自転車を漕がせたまま、自らの霊体を半身だけ離脱させた。
後ろを振り返って幽切を抜き、晴翔に追い縋る霊たちを薙ぎ払う。
斬り払われた霊はその激痛に叫び声を上げながら脱落していくが、数が多すぎる。
斬撃の隙を縫って少しずつ、晴翔に縋り付いていく。
この浮遊霊たちは群体のようなもの。
一人が知り得た情報はすぐに全体で共有する。
斬り払われながらも断片的に入手した情報を繋ぎ合わせ、晴翔の事情を理解した。
……その苦しみを。
霊たちはその苦しみに畳み掛けた。
——ねえ、いつまで生きてるの?
みんなから邪魔だと思われているのに。
炎怒?
その半鬼は任務が終わるまで身体を保ちたいだけだよ。
終われば君にもその命にも用はないよ。
そんな身勝手にいつまで付き合うの?
何も思うように生きられなかった人生、せめて死ぬときくらいは自由に決めればいいのに。
簡単だよ。
そのまま自転車から降りて身体から遠ざかればいいんだよ。
何も苦しいことなんてない。
その半鬼の言うことなんて聞く必要はないんだよ。
さあ、一つになって楽になろう。
こっちにおいで——
晴翔が闇に染まっていく一方で、久路乃は懸命に炎怒を支援していた。
「炎怒、反応がますます増大している!」
「久路乃、こいつらのことはもういい! それよりも悪魔の反応だけ監視しろ! 特に——」
「特に、中岡君と光原君!」
後見というだけあり、一々、全部伝えずとも理解していた。
「晴翔! 返事をしろ、晴翔!」
後ろを振り返ると、もはや焼け石に水の状態だった。
「久路乃! 呼びかけを続けろ!」
「わかった! 晴翔君! 弘原海晴翔君!!」
炎怒はこの場で浮遊霊たちを追い払うことを諦めた。
幽切をしまい、とにかく早く自宅にたどり着くことに注力する。
家はそれ自体が一つの結界。
家人と招かれている者以外は自由に出入りできない強固な結界だ。
一刻も早くそこに逃げ込む!
重くなる自転車を懸命に漕ぎ、なんとか自宅に着いた。
自転車を中に入れる余裕はない。
路肩に放置したまま、避難する。
重たくなった晴翔を伴い、門扉を開けようとしたときだった。
身体を凄まじい重さが襲う。
耐えられず倒れこむ炎怒は何が起きたのか悟る。
——あと少しだったのに……!
晴翔の限界だった。
本人の霊状態が身体に反映しているのだ。
炎怒は身体から離脱し、晴翔の霊体を無理やり身体に戻した。
再び幽切を出し、くっついてきた霊たちを素早く始末する。
交代して身体を動かしたいが、いま晴翔の霊体を外に出すのは危険だ。
初恵に運び入れてもらおうと、炎怒は霊体のまま玄関扉に向かう。
しかし二、三歩進んだところで、背後から津波のような大きな気配が迫ってきた。
振り返るとそこには、晴翔を同質と認識した周辺の悪霊の大群が押し寄せようとしていた。
「……久路乃、いますぐ吹雪の岩山に行って、氷精をたくさん捕まえてこい! 早くしろよ? ……長くは保たないぞ」
それだけ言うと炎怒は晴翔の前に立ち、幽切を構える。
久路乃は瞬時に理解する。
あの大群を焼き払うのだ。
半鬼一人であの大群を撃退するにはそれしかない。
周辺の家が霊的に焼けないよう、氷精で炎を防ぐのだ。
だが、悪霊の大津波はもうすぐそこまで迫っている。
ダメだ。
もう間に合わない……
大津波はすぐに炎怒と晴翔を飲み込んだ。
濁流の中、先日の古戦場とは比較にならない大群に一人立ち向かう炎怒。
しかし多勢に無勢。
横を次々と突破される。
一体、また一体と晴翔の霊体に取り付いていき、辛うじて残っている希望や自我を絶望と怨念で塗りつぶしていく。
「晴翔ーっ!!」
「晴翔君!! 晴翔君!!!」
悲鳴のような炎怒と久路乃の叫びだった。
しかし晴翔がそれに反応することはなかった……
炎怒と晴翔はまだ出会ったばかり。
消えかけている自我を呼び起こすほどの強い絆はない。
声は、届かない。
誰も救えない。
いま、晴翔は悪霊と化す。
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