第70話「弘原海炎怒」

 晴翔は山で炎怒と出会ってからずっと目を背けていた。

 考えないようにしてきた。

 一五年間、結局よくわからないまま終わりにしてしまった〈生きる〉ということについて。


 考えたら、苦しみを思い出してしまう。

 一人になったら死を噛み締めてしまう。

 とてもじゃないが、ネタ作りなどできなかった。


 だから僕は炎怒に同行していた。

 その間だけは自分のことを忘れることができたから。


 しかしいま、考えないようにしてきた絶望的な事実を、いやでも認めざるを得ない。


 僕は……

 既に死んでいるのだ、と。


 山で入れ替わったあと、炎怒や久路乃さんから説明を受けた。

 身体が生きたままなので、完全な霊として扱うことはできない。

 当面、幽体離脱とか仮死状態のような暫定的な霊として扱う、と。


 こうして僕は生きることも死ぬことも許されない曖昧な存在になった。


 命を粗末にしたからバチが当たったのかもしれない。

 一度自分自身から離れて客観視してみろ。

 よく見て、どう生きれば良かったのか反省しろ、と。


 だから僕は見ることにした。

 炎怒の後ろから。


 兜置山以降、勝手に動く自分を後方から見ていて思った。

 彼は弘原海炎怒だ。

 弘原海晴翔ではない。

 容姿や声はそっくりだが別人なのだと。


 見ていて痛快だった。

 なるほどと感心することばかりだった。


 だが参考にはならない。

 彼にあって僕にないものが多すぎる……


 …………


 桜井さんを炎怒の後方から見ていて思った。

 読書が趣味だったなんて知らなかった。

 知る術がなかった。

 あんなに話が合うなんて。

 一緒にお祭りに行けるなんて夢にも思わなかった。


 ……違う。


 桜井さんと親しくなったのは弘原海炎怒。

 お祭りに一緒に行く約束をしたのも弘原海炎怒。


 僕が親しくなれたわけじゃない……


 …………


 終わったはずなのに勝手に続く人生を後方から見ていて思った。

 人生というテストを途中で放棄した者にも答え合わせが待っているのだと。


 炎怒は神様という先生がテスト後に示す模範解答なのだ。

 テストならば間違いをよく復習して次に活かせばいい。


 では人生は?

 人生というテストは一度きり。

 次回なんてないのに模範解答を見て、どうしろというのか。


 …………


 渡のこれからが決まり、穏やかで楽しかった頃に戻ろうとしている家を後方から見ていて思った。

 僕たちは立ち直っていける。良かったと。


 親父は渡のためにみんなで引っ越そう、と僕の方を見て言ってくれた。

〈みんなで〉と。

 嬉しかった。


 でも思い出してしまった。

 学校と同じだ。

 ここまで立て直せたのは炎怒の力だ。


 僕は今も追放されたままだった……


 だとしたらあれはこの僕ではなく優秀な炎怒と入れ替わった〈僕〉に向かって言ったんじゃないのか?

 あの〈みんな〉に僕は含まれていない。


 …………


 さっき炎怒の後方で自転車に揺られながら気がついた。


 僕は……

 弘原海晴翔であることをもうやめてしまったのだ。


 …………


 じゃあ、今こうしている自分は一体誰?


 アレ? 


 僕ハ、誰ダッケ?

 僕ハ、ダ……

 ボク……

 ボ……


 …………


「晴翔っ!」

「晴翔君!」


 応戦しながら必死に呼びかける炎怒と久路乃。

 その孤軍奮闘も虚しく、一体斬っている間に三体、四体と取り付く。

 倒れ込んでいる晴翔に半透明の霊達が折り重なり、浸み込んでいく。


「……久路乃、境守に連絡。これより二名帰還する」

「炎怒!?」

「うち一名は悪霊化のおそれあり。降下室の閉鎖と任務中の後見たちの即時退避を要請」

「ダメだ、炎怒!」


 炎怒は悪霊たちに向けていた幽切を、横たわる晴翔に構えた。


「晴翔……協力に感謝する」


 約束は守る。

 任務が終わったら天界に連れて行く約束だ。

 だから今回の任務はここで終了する。


 完全に悪霊化した者は天界に入れない。

 そうなる前にやるしかない。

 晴翔の霊魂と身体を結ぶ線を断つ!


 その時だった。


「晴翔っ——!」


 炎怒と久路乃ではない。

 だがその声に晴翔は微かに反応した。


 初恵だった。


 リビングで夕食の仕度をしていたが、なんだか胸騒ぎがした。

 どうにも玄関が気になる……


 調理の火を止めて、玄関に行ってみるが、さらに扉の外が気になった。

 一体、何がこんなに気になるのか、と自分の感覚に首を傾げながら玄関の外に出てきたのだった。


 彼女に霊感のようなものはない。

 だがいまは魔の影響により、人間も霊を目撃するようになっていた。

 彼女も例外ではない。


 見れば、家の前で半透明の薄気味悪い霊の大群が渦を巻いている。


「な、なにこれ!?」


 初めて見る大量の霊たちに、思わず腰が抜けそうになる。

 なんとか気持ちを落ち着けると、渦の中心で戦っている炎怒の姿を見つけた。

 いつも見かける晴翔の姿ではない。

 夫にガラス片で止めを刺そうとしたときの鬼の姿だ。


 ——あれ? 晴翔はどこに……?


 キョロキョロと見渡し、すぐに炎怒の足元に倒れているのを見つける。

 渦が炎怒ではなく、晴翔を目掛けていることも。


 霊たちは息子に取り付き、山となっていた。

 炎怒はそれを阻止しようとしているのだが、数が多すぎて取り除けずにいる。


 初恵はおかしな点に気づく。

 炎怒の健闘虚しく、霊たちが次々と倒れている息子の上に折り重なっている。

 なのに、その山が大きくなっていかない。

 理由は山の下の方にいる霊たちから順番に、スーッと晴翔の中に入っていくからだ。


 何が起きているのか、瞬時に理解した。

 同時に初恵は弾けるように玄関から飛び出した。


「晴翔っ——!」


 晴翔が反応し、炎怒が聞いた声はこれだった。

 まさに間一髪。

 あと一瞬遅ければ炎怒が晴翔の線を切っていたことだろう。


「うちの子に何するの! 離れて! あっちへ行って!」


 炎怒のような使いでもない、ただの生身の人間。

 だが彼女は霊たちを素手で追い払い、上に被さって晴翔を庇った。

 子供を守ろうという母親の強力な一念。

 悪霊たちは一振りされただけで晴翔から吹き飛ばされた。


「…………」


 まさかの出来事に炎怒は一瞬気をとられた。

 しかしすぐに気を取り直し、思いがけず現れた味方に指示を出す。


「初恵さん! ここは俺が防ぐから晴翔を家の中へ!」

「わかった!」


 指示に従い、晴翔の腕を掴んで玄関の方へ引っ張ろうとする。

 だが、決して大柄ではない息子の身体が異常に重くなっていた。

 両手で掴んで全身で引っ張っても、びくともしない。


 引っ張ったままの体勢で家を振り返って叫んだ。


「渡っ! 渡っ! 早く下りてきてっ! お兄ちゃんが!!」


 すでに帰宅して部屋で夕食を待っていた渡だったが、何事かと駆け下りてきた。

 慌てて外に出てくるとそこには悪霊の群れ。

 先ほどの母親と同じ反応を示すが、彼女から一喝され、救助に加わる。


 今度は二人掛かり。

 だが、それでもびくともしない。

 初恵より力がある渡が加わったことで晴翔を救えると思われたのだが、巨岩のように重たい。


 玄関まであと少し。

 その少しが果てしなく遠かった。


「……なんで、こんなに重いのっ?」

「あ、兄貴、ダイエットしとけよっ……重てぇっ!」


 晴翔のことを二人に任せ、霊たちを斬り払うことに専念していた炎怒だったが、苦戦に気がついた。


「久路乃、一体どうなっている!?」

「おそらくだけど、晴翔君が家に入ってはいけないと思っている……」

「はぁっ?」


 この一週間、毎日この家で生活し、ここから登校していたではないか?

 意味がわからない。


「山で会ったときのことを思い出して、炎怒——」


 晴翔君はどこにも居場所がなくなったから山に来たと言っていた。

 その一つがこの家だ。

 確か俊道さんから「出て行け」と言われていたはず。

 この家に入ってよいのは炎怒。自分はまだ追放されたまま。


「そいつらに蒸し返されて、思い出しちゃったんじゃないか?」

「じゃあ、どうするんだ?」


 その間も増える一方の霊たちを斬り捨てていく。

 炎怒も霊だから、これくらいで人間のようにスタミナ切れにはならないが、一人一人斬っていくやり方では防ぎきれない。

 そうなれば晴翔だけでなく、一緒にいる二人にも憑依される危険が。


 やはり一帯を焼き払うしかないが、だからといってそれで晴翔が軽くなるわけではない。

 ずっと同じことを繰り返すわけにもいかない。


 炎怒も久路乃も弘原海家の二人も万事休すだった。

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