第66話「テーマ」
炎怒の真意がわからなかった夫婦は、一家の方針が定まったことを喜んでいた。
あとは弘原海家の話。
部外者の炎怒は再び静かな夕食に戻った。
「ところで——」
また食事中に俊道から話しかけられた。
別に構わないが、もう規則はどうでも良いらしい。
「学校でのいじめはその後大丈夫なのか?」
渡のことについてとりあえず目処がついた。
次は晴翔ということなのか。
身体が生きているだけで、晴翔そのものはとっくに首を吊ってしまった。
大丈夫ではないと思うが、それを口にはしなかった。
「完全解決したわけではないが収まりつつある。あんたたちに助けてもらうことはない」
収まりつつある——
その言葉は何よりも夫婦を安心させたのだった。
学校でどうやっているのかは不明だが、炎怒がこの家で俊道や渡を完封した手腕は見事だった。
また深い考えの持ち主だと認めている。
夫婦は炎怒を信頼していた。
「これからも晴翔のことをよろしくお願いね」
夫婦を代表して初恵に頼まれた。
「……ああ」
この身体が抱えている境遇はこちらで対処する。
その約束は守る。
だが天界に連れて行ったら、天使に引き渡してお別れだ。
ただ、この夫婦には関係ないことだし、知る必要もない。
それまでは大事な憑代を守ることに違いはない。
結果として、いまの頼まれ事を引き受けている形になる。
余計な発言は控えた。
夕食後——
お茶を啜る炎怒に夫婦は晴翔の夢をどう思うか、と尋ねた。
(随分信頼されてるねー 炎怒)
(うるさいぞ)
炎怒は久路乃から冷やかされた。
それほど昨日までの二人とは違っていた。
夫婦から意見を求められるなど、考えられなかった。
「現時点で、才能の有無は評価できない——」
物語は作者を造物主とするひとつの世界。
晴翔が造物主になるには知識も経験も足りない。
「行かせてくれるというのだから進学して力を蓄えるべきだったと伝えた」
俊道のようなサラリーマンになるためだけではない。
夢のためにも大学進学はするべき。
炎怒の話は何の抵抗なく頷けるものだった。
大学進学はプラスになるという点で、何の利害関係もない第三者と自分たちの教育方針が一致した。
子供の育て方を間違えてしまい、これからその修復に取り組もうとしている夫婦にとって何よりの激励となった。
しかし、人は物事を自分の都合に沿うように考えてしまいがちだ。
炎怒の言葉に重大な意味が含まれていることに気づくことはなかった。
炎怒はこう言ったのだ。
「——蓄えるべき『だった』と伝えた」
過去形だ。
これからこうすべきという表現ではない。
家が明るい方向へ向かっていきそうだと希望を抱いている。
まさにその最中の夫婦がこの『だった』の意味に気がつくことはなかった。
この夫婦から炎怒に対する話はそれだけだったようだ。
二人はアルバムを見ながら、改めて本来この一家はどうあるべきだったのかを思い出していた。
その様子を眺めながら、炎怒は食後のお茶を飲み終えた。
家を包む空気が変わった原因がわかった。
誰の手も借りず、自分たちで過ちに気がついた。
この三人なら新しい土地でやっていける。
世話になった一家に明るい兆しが見えてきたことを心から祝福したい。
だからこそ新生弘原海家は〈家族だけ〉で始めるべきだ。
そこに汚物を連れて行ってはならない。
(炎怒、いまなら剥がれている)
(ああ、やるか)
上から一家を見ていた久路乃も炎怒に実行を勧めた。
お茶を飲み終えていた炎怒は湯呑みを少し遠くに置く。
「俊道さん」
「ん?」
声をかけると同時に抜刀一閃!
アルバムから目を離し、顔を上げた俊道の眼前に白刃が迫っていた。
炎怒の霊刀、幽切だった。
俊道は一瞬の出来事に、竦むことも悲鳴を上げることもできず、微動だにしないまま右こめかみから斜め上に斬り払われた。
…………!?
彼は無傷だった。
顳顬を触った手のひらにも血はついていない。
炎怒が斬ろうとしていたのは俊道ではない。
標的は、俊道の頭の中に巣食っていた悪霊。
幽切は炎怒の意図をよく理解している。
何を生かし、何を滅ぼすべきかを間違えない。
斬り払われた悪霊は俊道からズレて、外に出された。
幽切は悪霊の頭の途中で止まったので、まるで眉間から串刺しにされているような状態だった。
「ギィヤァァァッッッ!!」
耳をつんざく悲鳴がリビングに反響する。
夫婦は思わず自らの両耳を押さえた。
現実の声ではないから無駄なのだが、気持ちがそのような行動になった。
悪霊は落ち武者だった。
おそらく商店街にいた一人だろう。
痛みから逃れようとしているのか、頭に刺さる幽切を掴んで引き抜こうともがいている。
しかしまるで生えているかのようにびくとも動かない。
「おい、おまえ」
幽切を突き刺したまま悪霊に尋問する。
「親分の名前を言ってみろ。憑依して操れとおまえに命じた奴の名だ」
「知らぬ!」
「そうかい。それじゃ、おまえの脳みそに直接聞いてみるか」
そう言うと炎怒は幽切に炎の力を込めた。
途端に再び轟く武者の悲鳴。
眉間から白煙が上がり、ジューッと肉が焼ける音までし始めた。
「主君はおらぬ! お取り立て頂きたくて合戦に参じたんじゃ!」
嘘は言っていないようだった。
本当に悪魔との関係はなさそうだ。
突き刺した幽切を通して伝わってくる。
俊道に憑依したときの光景が。
こいつは平凡な武士だったが、身の丈に合わない野心のために失敗続きで、どこにも仕官が叶わなかったようだ。
大手柄でそれまでの〈負け〉を挽回しようと考えたが、合戦で命を落としたらしい。
死後も野心を捨てられずに彷徨っていたある日、商店街で俊道を見つけて憑いたのだ。
いま喜手門に悪魔が来ていることも知らなかった。
俊道に取り憑いたのはそれ以前ということか。
炎怒はもうこいつに聞きたいこともなくなったので、始末することにした。
正直に答えたら解放するなどと約束した覚えはない。
幽切に込める炎を強めた。
「ああぁっ、こんなところで! 無念じゃ……力があればこんな目に遭わずに!!」
そう言い残し、焼け焦げた落ち武者は霧散した。
終わった炎怒は幽切を鞘に納めた。
「いまのは一体……」
夫婦が初めて経験した現象。
——なぜウチに落ち武者が? それがどうして頭から?
どう解釈してよいかわからない。
炎怒は困惑している夫婦の方を向いた。
「実は初めて会った時から、いまの落ち武者が憑依していることを知っていた」
「だったら、いまみたいにすぐ除霊してくれたら良かったのに」
と、ショックでうまく喋れない俊道に代わり、初恵が抗議する。
だが炎怒は、それはできなかったと否定した。
憑いていると知っていながら、なぜ今日まで取り除けなかったのか?
それは俊道があの落ち武者と相通じる部分があって、憑依を受け入れてしまったから。
誰も悪霊と知りつつ、憑依を受け入れる人間などいない。
俊道は真面な人間だ。
身に覚えはないだろう。
しかし、いままで思ってもみなかった悪い考えが急に浮かんできて、あまり抵抗せずに従ったことがあったはず。
それは自らの進むべき方向を霊の方針に合わせるということ。
つまり憑依を受け入れたのだ。
そういう意気投合している状態では、落ち武者だけを分離して引き摺り出すことはできない。
ところが、俊道はその方針が間違いだと気がついて邪念を捨てた。
霊の方針に従うのをやめたのだ。
そうすることで相通じる部分がなくなり、俊道から剥がれた。
それでようやく今日、取り除くことができたのだ。
いままでそこにあったものがなくなったことで、俊道は少し頭が痛かったが心も体も軽かった。
さっきまでも渡の問題が片付いたことで気持ちが軽くなった気がしていたが、今はもっと深い部分にある魂のようなものが楽になった気がする。
「ずっと頭が重くて気分が悪かったのは、このせいだったのか……」
炎怒はその呟きに何も返さなかった。
世話になっている礼はした。
こちらは任務で来ているのだ。人助けに来たわけではない。
今日まで大変だったね、と慰めてもらいたいなら隣の初恵さんにしてもらうといい。
「ごちそうさま」
そう夕食の挨拶を述べ、リビングを出た。
廊下の晴翔を拾い、部屋に戻る。
階段を上っている間、晴翔は無言だ。
父は憑依されていた。
だからもう信用できない、というのではない。
ただ、ショックなのだ。
父の頭を斬る直前、炎怒の考えていることが伝わってきた。
ちょっと同調しただけで憑依を受け入れたことになるなんて……
いままで自分たち一家は父を通して、あの落ち武者に苦しめられてきたのか?
「それは違うよ。晴翔君」
「久路乃さん?」
ゲーム店の犯人と同じだ。
人間側にも悪心があるので、そこに付け込まれるのだ。
俊道は若い頃の挫折にずっと苦しみ続けていた。
その苦しみはやがて結果が全てという考えに歪んでいった。
結果のためなら多少の理不尽や非道は致し方なし、と。
あの落ち武者も仕官が叶わず嘆いていた。
手柄を立てて知行を得るために、手段など選んでいられぬ。
二人は似ていたのだ。
だからお互いに引き合った。
風を送って大火事にしたのは落ち武者だが、いつまでも吹っ切れず、心の中に大量の燃え草を放置していたのは俊道。
たとえ小さな火だろうと、目的のためならば暴力も辞さない凶暴さを心に宿していたのも俊道なのだ。
「さっき炎怒が退治したから、もう安心だと思うけど」
そう、晴翔は廊下で見ていた。
退治のあと、父を覆う霊気が心なしか穏やかになった。
霊になっている身なので、久路乃が言っていることはよく理解できた。
晴翔のショックが治ったので、久路乃と炎怒の話になった。
二人はさっきの落ち武者から、あることを確信していた。
それは今回の悪魔の正体。
この街に悪魔がやってきたことで霊たちが刺激を受けている。
特にある種類の霊たちが強く影響を受け、人間を通して事件を起こしている。
深夜早朝の暴行事件は意地の張り合いが原因だったという。
なぜ意地を張るかといえば、相手に劣っていると思われたくないからだ。
ゲーム店への殴り込み事件は引きこもりの青年が起こした。
常々、劣等感に苦しみながら生きていたのだろう。
そして事件ではないが、ここ数年の俊道の凶暴化。
夢というものに対する強い拒絶と危機感があった。
その根底にあったものは夢を叶えられず、出世もできなかった自分の非力さを嘆く劣等感。
その俊道から祓われる寸前、落ち武者が言い残したことを聞き逃さなかった。
——力があれば、と。
力がないことを嘆いていた。
すべてに共通していることは劣等感。
劣等感を抱えている霊たちがより強く影響を受けている。
今回の悪魔は劣等感を司っているのだ。
ただ、人と霊の劣等感を煽る劣等というのはややこしい。
二人は今後、この悪魔を「レットウ」と呼称することにした。
相手が何の悪魔なのかは特定できた。
あとは主たる憑代が誰なのかだ。
中岡——
人の苦しみに快楽を感じるおかしい人間か、人生が上手くいかない劣等感を八つ当たりしている人間。
光原によれば小学生の頃は普通だったという。
だから生まれつき頭がおかしい人間ではなかったということ。
ならば劣等感による八つ当たりの方か?
いじめをやっているのが劣等感に囚われている証しだ。
だが、悪魔の主たる憑代なら自分は手を出さず、他の奴にいじめさせる。
あいつは、憑代らしくない。
光原——
中岡と違って霊気はあった。
闇も劣等感も感じられない。
黒靄は謎だが、彼の心界にレットウはいなかった。
まだ明るみになっていない事情が隠れているのかもしれない。
そのことで光原自身も気づいていない深刻な劣等感を抱えている可能性はある。
しかし現時点では、中岡と逆の意味で憑代らしくない。
二人とも限りなく怪しいのだが、断定の決め手にかけていた。
頭を掻きながら珍しく炎怒がぼやいた。
「どちらかだと思うんだがな……」
「炎怒、今日はもう終わりにして晴翔君を休ませよう」
「え? 僕は大丈夫だよ」
晴翔の意見など気にせず、炎怒は久路乃の提案に賛成した。
また今日も晴翔にいろいろなショックを与えてしまったが、おかげで魔界側の〈テーマ〉が判明した。
喜手門の人や霊の劣等感を煽って暴走させるつもりなのだ。
明日からそのテーマに沿って調べていく。
だから晴翔をしっかり休ませなければならない。
睡眠は身体の健康だけでなく、霊体も回復させるのだ。
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