第65話「悪鬼と善鬼」
トン、トン、トン。
トン……トン……トン……
二階から不規則なリズムが下りてきた。
一つはテンポ良く、もう一つは気乗りしないリズムで。
やがて初恵に伴われて、渡がリビングに現れた。
促され、俯いたまま俊道の正面に座った。
シーン……
室内に何の音もなく、外の音が聞こえてくる。
沈黙に耐えかね、初恵は話が始まるきっかけを作ろうとした。
しかし俊道がそれを手で制するので、気まずい沈黙が続いた。
怒っているのではない。
渡が不正に手を染めざるを得ない程、追い込んでおきながら自分は業績不審で出向。
本当は初恵にも子供たちにも会わせる顔がない。
大切な家を鬼の住処に変えてしまった。
だから本物の鬼が来たのだ。
でも炎怒は自分のような悪鬼と違って善鬼なのだろう。
彼の指摘はショックだったが、今はすべて正しかったとわかる。
同僚達も厳しいノルマに苦しんでいた。
苦しんでいたのは自分だけじゃない。
それなのに自分は勝手に劣等感を膨らませた挙句、悪鬼になった。
そもそも仕事を頑張っていたのは、家族の平穏を守るためではなかったのか?
その仕事が上手くいかないからと、自分が受けている劣等感を味わわせて、家族の平穏を乱してしまった。
——みっともない。
あの鬼はそのことを気づかせてくれた。
いまさら家長などとおこがましいかもしれない。
それでも、今からでも救えるなら。
俊道の気持ちは固まった。
一方の渡はうんざりした気持ちでいた。
——今日も殴られる。
親父は一度火が着くと止まらなくなる性格。
昔はそうでもなかったが、三年前に兄貴を滅多打ちにしてからすぐに着火するようになった。
以来、怒り狂っているか、不機嫌そうに燻っているか、そのどちらかの姿しか記憶にない。
そしてしつこい。
飽きるか、別の〈新ネタ〉が登場するまで、ずっと同じネタでキレ続けるのだ。
事情はどうあれ、カンニングしたことは悪かったと反省している。
だからといって、毎日毎日、暗記しているのかと思うほど同じ話をされ、毎回同じ箇所でキレて殴りかかってこられるのは迷惑だ。
——今日もその〈ネタ〉に付き合わされる。
そんな刑場に連行される罪人の気持ちで席に着いたのだった。
「渡——」
静かな声だった。いつもなら名前のあとに「!」マークがついてくるのに。
「…………」
渡は戸惑いながら顔を上げた。
そこにはかつて、兄を血の海に沈めた乱暴な鬼ではなく、子供の頃から知る父が座っていた。
「事情があっても、悪事は悪事。おまえがしていたことは悪いことだ」
だが、点数を釣り上げようと、怖がらせていた私たちも良くなかった。
お互い、悪いことはもうやめよう。
「……ごめんなさい」
殴っている最中の命乞いの謝罪ではない。
事件発覚以来、初めての自発的な謝罪だった。
「俺たちもずっと怖がらせてきて、すまなかった」
俊道も悪事を詫び、親子は和解したのだった。
あとはこれからどうしていくかだ。
「心機一転、どこか別の中学校で頑張ろうと思っているそうだな?」
「うん」
いまの俊道から乱暴者の怖ろしさは感じられず、渡は父の目を見ながら短く決意を伝えた。
俊道も息子の目から怯えも媚びも感じず、真意であると認めた。
「渡、実はな——」
ここで出向の話をした。
すると初恵同様、渡もその偶然に驚いた。
鬼の住処に希望が訪れた。
家長の子会社出向を三人で喜ばしく受け入れるという不思議な光景。
だが、この一家にとっては希望の兆し。
驚きのあとにやってきた和やかな空気。
渡はふと気がつく。
「兄貴の高校は?」
隣県から通えないことはないが、遠くなる。
夫婦は顔を見合わせると、少し困った表情を浮かべながら答えた。
「少し早起きしなければならなくなる」
通学が遠くなってしまう。
そのことを三人で詫びようということに決まった。
晴翔にはいろいろと謝らなければならなかった。
渡のために通学を不便にさせてしまうこと。
ずっと宿題の不正を手伝わせてしまったこと。
そして——
ずっとみんなで迫害していたことを……
***
夜、すっかり暗くなった頃、炎怒と晴翔は帰宅した。
〈間列車〉で悪魔と決裂し、立ヶ原に戻ってきた時はまだ夕方だった。
しかしその後、炎怒が何かを感知する度に立ち止まり、空中を見つめたり、地図の前で立ち止まったりするので帰宅が二〇時近くになってしまった。
靴を脱ぎ、玄関から一歩上がった炎怒は家の空気が朝と違うことに気づく。
——何かあったか?
リビングから人の気配がするので帰宅の挨拶をしに行く。
「ただいま」
すぐに初恵からおかえりなさい、と返ってきた。
その声がどことなく明るい。
——やはりおかしい……留守中に何か入り込んだか?
と、霊査の目を凝らして読心を発動させるが、特に邪悪な気配はしなかった。
見つからないものを気にしても仕方がない。
晩御飯の用意ができている、という初恵の言に従って着席した。
テーブルにはすでに俊道がいたが、すでに夕食を終えているようだった。
家族のアルバムを眺めている。
「はい、どうぞ」
初恵から茶碗を受け取り、炎怒も夕食にする。
どうやら一番最後だったらしい。
一人黙々と食べる。
正面には初恵が、その隣では俊道がアルバムのページをめくっている。
他人の家の歴史を覗き見るつもりはないのだが、おかずの向こうで広げられているのでどうしても視界に入ってくる。
そこには新婚の二人からやがて三人、四人と増え、楽しそうな写真が続いていた。
不穏な気配はないし、なぜか二人とも和やかだ。
嵐の前の静けさかもしれないと警戒していると、俊道がページをめくる手を止めた。
「食べながらでいい。話を聞いてくれるか?」
確かこの家では食事中、私語禁止ではなかったのか?
それを定め、違反者を責めてきた俊道本人が破る。
珍しいことがあるものだ。
炎怒はそう思いながらも「どうぞ」と返した。
「晴翔は正直に頑張っていたのに、今まで辛い目に遭わせてすまなかったと思っている」
その瞬間、炎怒の目頭が熱くなった。
廊下で聞いている晴翔の感情だった。
しかしそのことを念話で咎めはしない。
辛苦を味わってきた者が理解されたり、そのことを謝罪されているのに、無心でいられるはずがないからだ。
涙をぐっとこらえて、無言で食事を続ける。
その無言を見た俊道は拒絶と誤解したが、反論はしない。
どんなことをしてきたかは自覚している。
一言、ごめんと詫びて簡単に和解できるなどと、虫の良いことは考えていない。
晴翔と健全な親子に戻れるまで月日がかかるだろう。
今日はその初日だ。
挫けず、話を続けた。
「実は——」
俊道は出向による隣県への引っ越しを告げた。
高校まで少し遠くなるので、早起きしてもらうことになる。
しかし、渡にやり直せる環境を与えることにもなるので、どうか協力してほしい、と。
静かに耳を傾けていた炎怒はご飯を飲み込んだ。
「それでいいんじゃないか」
嫌がられると思っていた夫婦は顔を見合わせて安堵した。
「そうか、良かった。それじゃ、すまないが頑張って早起きしてくれ」
これで渡が立ち直る環境が整う。
炎怒がこの家にやってきて初めて見る夫婦の笑顔だった。
晴翔も嬉しそうにしているようだった。
一緒に喜んでいないのは炎怒と久路乃だけだった。
おそらく弘原海晴翔が隣県で早起きすることはないからだ。
中岡と光原。
怪しい容疑者が二人見つかった。
まだ絞り込めていないが、悪魔と何らかの関係はあるはず。
解決の時は近いと予感していた。
そうなれば、炎怒は約束を守る。
三人が隣県で新しい暮らしを始めている頃には、晴翔も〈新しい暮らし〉を始めているはずだ。
だから賛成も反対もない。
この世に残る三人がこれからの弘原海家をこのようにしていくというなら、炎怒は「それでいいんじゃないか」と相槌を打つだけだった。
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