第32話「知らなかった」

 昼休みが終わろうとする頃、教室に中岡の姿はなかった。

 五時間目が始まっても彼は戻らない……


 なぜ職員室に呼び出されたまま戻ってこないのか?

 判明したのは次の休み時間のことだった。


 彼は他のクラスの男子生徒もいじめていたらしい。

 その生徒は現在、登校拒否。

 被害を訴えに来た両親はいま、校長室に通されている。


 さっき倉庫裏で聞いたのは、中岡本人に事実確認のための呼び出しだった。

 昼休みからいままで帰ってこないということは、否認しているのだろう。


 五時間目が始まると、学年主任が授業中の先生に一礼しながら生徒を連れ出していく。

 連れ出しは名前順というわけではないようで、初めに太田、細川と続き、次は学級委員長、その後は一般のクラスメイトをランダムに……


 いじめの件はそのクラスメイトたちから齎されたものだった。


 本人が否認している以上、証言を集めるしかないのだろう。

 休み時間になっても連れ出しが続いていた。


 事情聴取自体は数分程度なのですぐに帰ってくる。

 当然、どんなことを聞かれたか、自分のときはこんなことを聞かれた、と話題になるので、教室内がなんとなく騒然となる。


 学年主任も段々不穏になっていくクラスの空気を感じ取ったのか、

「みんなは授業に集中しなさい」

 と言い残していくが、無理な相談だった。


 次は誰だろう、と現実感のない少年少女たちが面白がる中、六時間目が始まった。

 先生が入ってきて授業が始まると、一応の静けさは取り戻された。


 五分程経った頃、また学年主任が一礼して入ってきた。

 つまらない授業中に訪れたほんの一時の息抜き——

 次は誰か、とワクワクする空気の中、学年主任は一人の生徒の横にしゃがんだ。


「弘原海、聞きたいことがあるからちょっといいか?」

「はい」


 指名されたのは炎怒だった。

 授業中の先生に二人で一礼すると教室を抜けた。


 移動中は無言のまま。

 その間に今回の件について記憶を調べる。


 ……ない。


 今回のいじめ、晴翔は何も知らなかったらしい。

 そもそも被害者の生徒のことは見たことがあるというだけで、名前もよく知らない。

 クラスメイト以上に何の接点もない同級生だった。


 通されたのは生活指導室だった。

 職員室に隣接しているので、こういう部屋があるのは知っていたが、入るのは初めてだ。


「さあ、座ってくれ」


 部屋の中には余計なものが何もない。テーブルと椅子が一対あるだけ。

 あとは、追加用にパイプ椅子がいくつか立てかけてある。

 室内に漂う物々しい雰囲気は、どことなく会談の間を彷彿とさせる。


 学年主任も腰掛け、二人は向き合った。


「もう、大体わかっていると思うが——」


 前置きした上で、中岡にいじめの疑いがかかっていることを告げられた。

 本人が否認している以上、まだいじめをやっていると断定することはできないのだ。

 昼から同じ質問をしているのだという。


 さっそく順に尋ねられた。

 その生徒を知っているか、今回のいじめを知っていたか、と。


 炎怒は正直に答えていった。

 そいつが同学年にいることは知っているが、接点がないから話したことはない。

 今回のいじめについては知らなかった、と。


「そうか……」

「お役に立てず、すみません」


 一礼し、席を立とうとしたが、彼の何かを含んでいる表情に気がつく。

 何の情報も持っていなかった生徒に用はないはず。

「授業中にすまなかったな」と声をかけて退室させるところではないのか。


 まだ何かあるのか?

 席を立つのをやめ、彼が含んでいる言葉が出てくるのを待った。


 炎怒もこの聴取に疑問があった。

 なぜ弘原海晴翔が指名されたのか。


 被害の相談というなら、そいつのクラスメイトたちに尋ねたほうが早い。

 太田と細川に、最近の中岡の様子を事情聴取するというのは理解できる。

 何かを知っているとは思えないが、クラス全体はどうだったかと学級委員長に聴取することもあるかもしれない。


 しかし今回のいじめ、一組とは関係ない場所で行われていたらしい。

 だから、一組の連中にいくら尋ねても、知らないと答えるしかない。


 この先生は一体……


 学年主任は炎怒の不思議そうな顔に気がつく。

 いつまでもこうしているわけにはいかない……

 意を決し、話を切り出した。


「弘原海」

「はい」

「今回、一組の生徒たちにも事情を聞いていたんだが……」


 語られる学年主任の話——

 炎怒の後方で聞いていた晴翔は、目を見開いて驚いた。


 中岡といつも連んでいる太田と細川だったが、この件に関しては本当に無関係だったようで、聴取はすぐに終わったという。

 確かに彼らはすぐに教室に帰ってきた。


 驚いたのは次の学級委員長の話からだった。


 彼も他のクラスでのことだったし、知っていることはなかった。

 一組に対する聴取はそれで終わるはずだった。


 委員長に聴取協力への感謝を述べ、両者が解散しようとしていたときだった。


「何か気になることがあったらすぐに教えてほしい」


 と、退室しかけていた委員長の背に声をかけた。

 学年主任にしてみれば、締めの挨拶のようなつもりだった。


 ところが、出入り口の引き戸に手をかけたまま彼が動かなくなった。

 どうしたのか問うと、

「気になることなら、あります」

 と戻ってきた。


 一組をいつも見ていた彼が語る、気になること——

 それは中岡たちが弘原海をいじめている疑いだった。


〈疑い〉という弱い表現になってしまうのは、傍目にそう見えるというだけだから。


 一見すると、四人のふざけ合いに見えるが、本気で殴られているのではないか、と思う場面があった。


 注意するべきか迷ったが、弘原海は笑っていたので、嫌がっていると確信が持てなかった。


 そのときは少し乱暴だが四人が了解の上でやっているのかもしれない、と気にしないことにした。


 ところが今朝のホームルーム前に三人が、弘原海に何か因縁をつけているのを見かけた。

 昼休みには三人掛かりでどこかに連行していったようだ。


 ふざけ合いが成立するほど親しい友人関係には見えない。

 もしかしたらいじめられているのではないか?


 これが委員長の気になることだった。


 思いがけず明らかになった中岡たちの余罪。

 今回のいじめについての聴取と、弘原海のいじめについての聴取を並行することになった。


 それで六時間目まで連れ出しが続いたのだ。

 聴取されたクラスメイトたちの証言は、学級委員長と同様のものだったという。

 勘違いかもしれないし、中岡たちに目を付けられたらやばいので何もできないが、心配に思っている、と……


 教室に戻ってきた彼らは今回のいじめについての話しかしなかったので、まさかそんな話になっているとは知らなかった。


「言いにくいことかもしれないが、先生は確認しなければならない」


 そう前置きした上で学年主任は炎怒の目を見る。


「弘原海——おまえ、いじめられているんじゃないのか?」


 炎怒は相手の目を見たまま、久路乃と交信する。


(これ、どうするんだ? 久路乃)

(いや、どうするって……晴翔君?)


 晴翔は後ろで泣いていた。


 知らなかった……


 誰も知らないと思っていた。

 誰も気に留めていないと思っていた。


 僕が痛い目に遭っていることを知っている人がいた。

 僕がいじめられていることを心配してくれている人がいた。


 そんな人たちが周りにいたことを——

 僕は知らなかった……


(晴翔、いじめられてるって答えていいか? あと担任のことも)


 晴翔は頷いた。

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