第28話「非」
炎怒たちが乗り合わせている車両で女性の悲鳴が上がる。
「この人、痴漢です!!!」
途端に騒つく車内。
人混みが邪魔でここから見えないが、近くにいる乗客たちが取り押さえようとし、それに対して痴漢は逃れようと暴れているようだ。
「大人しくしろ!」
「みんなの迷惑になるだろ! 次で降りろ!」
どうやら複数人で取り押さえているらしい。
男性の怒鳴り声がここまで届く。
「俺は何もやってねーよ! ふざけんな!」
その間に電車は次の駅のホームに入り、減速していく。
「すみません! ドア近くの人たち、こいつを下ろすから空けてください!」
興奮が加速していく車内に反比例して減速していく電車。
運転手は車内で騒ぎが起きていることをまだ知らない。
普段通りに腕前を発揮し、電車のドアとホームの乗車口をピタリと合わせるように停車させる。
ホームで待っていた次の乗客たちは、ドアのすぐ手前で数人の男たちが暴れているのを見て、何事かと驚く。
しかし詳細はわからずともトラブルであることを理解すると、ぶつかって巻き込まれないように、普段より広めに空けて開扉を待つ。
緊張の中、扉が開く——
「降りろ! すみません、空けてください! 痴漢です!」
「やってねーって言ってんだろ! 冤罪だぞ!」
車内の喧騒が朝のホームになだれ込み、修羅場へと変えていく。
暴れる痴漢は地面に押さえつけられた。
ホームにいた誰かが知らせに走ったのか、まもなく駅員が一人、人混みをかき分けながら現場に到着した。
駅員は到着すると、一緒に降りた被害女性から事情を聞いている。
トラブル発生により、電車が動かない。
「余計なことしやがって!」
「急いでんのに……ふざけんなよ」
車内から痴漢に対して不満が吹き出ている。
怒りで熱くなっている乗客たちに囲まれながら、炎怒は涼しい顔でゲームを続けていた。
学校生活そのものに用はない。
様々な人間の念が集まる場として学校を霊査しにいくのだ。
学生生活は任務のついで。
弘原海晴翔は普段通り、と疑われないように周囲に示せれば良い。
どうせ任務完了までの命——
成績が下がってしまう、と大慌てで一時間目に間に合わせる必要はないのだ。
公然とゲームに没頭している炎怒。
そのすぐ後ろで晴翔は自分の背中に密着して苦しんでいた。
一体、どうしたというのか?
いま車内は乗客たちの不満や憎しみといった負の念で溢れ返っている。
身体に守られていない剥き出しの霊体は風化の危険だけでなく、そういった良くない念にも晒されているのだ。
慣れていない霊体には皮膚から浸透してくる毒ガスのようなもの。
それに対して晴翔は——
誰に教わったわけでもなく、自然と自分の背に密着していた。
接近した分だけ命の供給量が増えて、楽になれることを霊の本能として知っているのだ。
もっと接近すれば、もっと楽になれる。
接近の最たるもの、それは身体の中に入ること。
それが憑依だ。
だから成仏していない霊は人に憑依して、命を供給してもらおうとするのだ。
いまの晴翔も同じだ。
妙な話だが、霊体の晴翔が苦しいから、晴翔の身体からより多く、命の供給を受けようとしている状態だった。
しかし背中に密着するだけでそれ以上、「接近」しようとはしない。
それをやったら悪霊と同じだ。
ギリギリ、踏みとどまっていた。
(辛そうだな。着くまで代わるか?)
見兼ねた炎怒が晴翔に声をかけた。
視線はスマホに釘付けなのだが……
(大丈夫……もうすぐ動き出すだろうから。そうすればこの人たちも……)
(そうか。無理そうだったら、いつでも言え)
(うん)
だが正直に言えば、かなり苦しい。
何か気が紛れることはないか……
晴翔は窓の外、ホームの様子を見た。
痴漢が腹這いの状態で押さえつけられているのが見える。
もう観念したのか、暴れていない。
(あれ?)
晴翔は気がついた。
痴漢の身体からあの黒靄が滲み出しているのを。
靄は身体から三〇センチメートル程の空中に停滞した後、どこかへ流れていった。
(あの悪霊、どっか行っちゃった……)
(他人の身体を使って悪いことをしたかっただけだからな)
(それじゃ、あの人、本当は……)
(なんでそんな気になったのかは、自分でもわからないだろうな)
悪霊が抜けていった後の痴漢は憑き物が落ちたようで、自分が置かれている現状に困惑しているようだった。
(……この後、あの人はどうなるの?)
(んー?)
また激しく画面をタップし出した。
いまゲームのボスキャラが倒れたので大ダメージを与えられるチャンスなのだ。
炎怒にとって大事な勝負所だった。
でも晴翔にとってはこっちの話のほうが大事だ。
(ちょっと、炎怒!)
(んー? あと少し……よし! 仕留めたぞ)
家でゲームをやっていたとき、怒ってくる母の気持ちがちょっとだけ理解できた。
これでやっとまともに話ができる。
負けられない戦いを終えて、真面目に話せるようになった炎怒
彼によって語られた話は、理不尽なものだった。
(痴漢やった人が処罰されるんじゃないか?)
(でも、あの悪霊が——あの人は『使われた』だけじゃないのか?)
(普段から変なこと考えているから付け込まれて、使われるんだよ)
(だからって、あの人だけが逮捕されるなんて……)
(お巡りさんが悪霊を逮捕するのは無理じゃないか?)
(でも……)
晴翔の言いたいことはわからないでもない。
だが——
炎怒は続けた。
悪霊は霊体だから何をやっても実感がない。
だから他人の身体を使って悪事を実感したい。
味わいたいのは悪事の実感だけ。処罰は味わいたくない。
だから終わったらその憑代に用はないから離脱する。
あの痴漢の男、今日まで思い止まってはいたが、「願望」自体は常に持っていたのだろう。
同じ願望を持つ者同士で共感し、侵入を許した。
最初は気味悪がられるかもしれないが、痴漢するくらいなら一か八か好意を伝えてみれば良かったのだ。
それをせずに身勝手な願望を膨らませていった。
憑依された者が全員、悪事を働くわけじゃない。
悪霊はきっかけにすぎない。
きっかけが手に入ったあいつは自分の意思で実行すると決意した。
だから悪霊だけの仕業じゃない。
あいつ自身の「非」はある。
聞き終えた晴翔。
自分も霊だから、炎怒の言っていることが理解できた。
(でも……)の後をもう語ろうとはしない。
語る必要がなくなった。
ただ一言、思い浮かんだ感想——
(……厳しいね)
(霊に身体を貸して良いことなど、何もないんだ)
勝手に使われた挙句、処罰だけ負わされる。
あいつのようになりたくなければ、常日頃から良からぬ考えは捨てておくことだ——
炎怒はそう締めくくると再びスマホの戦場に旅立っていった。
同時に「まもなく出発する」という車内アナウンスが。
(炎怒、ボスの前で駅に着いちゃうよ)
(そうか……)
炎怒は残念そうにアプリを終了させた。
霊に身体を貸して良いことなどない——
なぜ炎怒たちが、自分のような死を選んだ人間から身体を借りるのか。
名残惜しそうにスマホをしまう彼を見ながら、晴翔はなんとなくわかったような気がするのだった。
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