第25話「範囲」

 太田は縦にも横にも大きい少年。

 身体が重いので、走るのは苦手だった。

 なめられたまま終われない、という自負心のためでなければ走れるものではなかった。


 弘原海晴翔は特別足が速いわけではなかったが、さすがに肥満の太田よりは速い。

 だからさっさと走り去って、太田の視界から消えることなど簡単だった。


 太田も脚力差は自覚している。

 だからさっさと走り去ってくれればその背中に、

「あれあれ〜逃げちゃうの〜? 負け犬君」

 とでも罵声を浴びせて休める。


 そうすれば捕まえ損ねたのではなく、弘原海が尻尾を巻いて逃げて行ったのだと自分に言い訳が立つ。


 ところが、弘原海の走り方は付かず離れず。

 太田に言い訳を与えない。


 決して縮まらない。しかし拡がりもしないその微妙な距離が挑発してくる。

 あと少しなのに、おまえにはその僅かな距離を詰める根性がないのか、と。


 さらに時々立ち止まり、追いついてくるのを待つ余裕——

 明らかに調節しながら逃げている。


 疲労とイライラで太田は冷静な判断を失っていた。

 街中なら諦めるが、非常階段は必ず行き止まりがある。

 そこまで追いかければ!


 人はゴールがわかれば頑張れる、というのは本当である。

 だからこそ太田も頑張って追いかけた。

 たとえそのゴールが罠だとしても……


「……止、まれぇ……ハァ、ハァ……もう……諦め……ろよ」


 手すりに掴まりながら、息も絶え絶えに非常階段を上ってくる。

 一階から踊り場を回り、二階へ。


 炎怒はそこで止まって振り返った。

 階段はまだ続いているがそこで諦めて太田を迎え撃つ気らしい。


 太田は気力を振り絞って一気に駆け上がり、雄叫びをあげながら殴りかかった。


「オラアアアァッ!」


【左鎖骨に右拳打ち下ろし】


 読心によりその場に蹲った。

 もう足が言うことを聞かない太田の身体は勢いがついていて止まれない。

 足元で急に丸まった炎怒に蹴躓き、巨体が宙を舞う。


 そのまま前方に飛び、鉄の欄干に顔面から衝突する。


「ゴンッ!」


 ガンッ! などという派手な音ではない。

 やったことはないが、野球のバットに布を巻いて強打したらこんな音になるのでは?

 そんな鈍い音だった。


「んんんっ! うぐぅぅっぁぁああっ!」


 立ち上がった炎怒に代わって、太田は転がりながら悶え苦しんでいる。


 顔の真ん中を押さえている両手の指の間から血が滲み出している。

 どうやら欄干に鼻を強打したようだ。

 彼の服と踊り場を赤く汚していく。


 彼はいま激痛とプライドの間に挟まれていた。

 痛みに心が挫けそうになる。

 しかしこちらから絡んでおきながら、このまま弘原海を無事に帰すわけにはいかない。


 それに一発も殴られていないのだから、これは負けですらない。

 一人で騒いで、勝手に怪我をして、何もしてない相手から逃げる。

 あまりにもダサすぎる。


 プライドが激痛を凌駕した。

 右手で欄干に掴まりながらよろよろと立ち上がる。

 押さえている左手を離すと、彼の鼻は曲がっていた。


 一発も反撃していないのに、凄まじい有様だった。

 後方の晴翔は絶句しているが、手足に重さは感じられない。


 徐々に動揺しないコツを掴めてきているようだった。


 前方の太田は鼻で息ができないので、さっきより口の呼吸が荒くなっている。

 顔の下半分は血で染まり、上半分は怒りに染まる。

 昨日までいじめてきた絶対勝てる相手——

 それがいま、何もできない悔しさ……


 いま、太田は欄干を背に立ち、炎怒は下り階段を背にしている。

 その状況を上から見ていた久路乃は警告した。


「炎怒、彼が——」

「ああ、知ってる」


 一般的な成人男性にも劣らない見事な体格。

 絶対の自信があった。

 その体格的有利が一切通用しないとき、精神が未熟な少年は何を考えるか。


【体当たりで下り階段に突き飛ばし、殺してやる】


 遊び半分だった敵意が殺意に変わっていた。


 晴翔にも読心が伝わり、ショックを受けたようだった。

 それでも炎怒に影響はない。

 昨夜から炎怒を見てきたことで信頼が生まれたのか。


(予定してなかったが、今日は晴翔の訓練になってよかったな)


 太田の殺意が極限に達するまで暫し時がかかる。

 ひまな炎怒にそんな感想が浮かんでいた。


 まだか?

 そろそろか?


 ただ避けられて自爆しただけなのに、八つ当たりで殺害を決めてから一〇秒が経過——

 その時がついに来た。


「てめぇ、ぶっ殺してやるっ!!!」


 両手を広げ、左右を塞ぎながら力士のように突っ込んできた。

 身体のどこでも良いから当たりに行って、突き飛ばそうという考えなのだろう。

 たぶん足元に蹲ることも予測しているだろう。


 左右に逃げ道なし。

 足元も読まれている。

 万事休すか……


 いや、人間界の言葉にあるではないか。

 ——押してダメなら、引いてみろ——と。


 炎怒は後方に引いた。

 正確には身体を捻って斜め後方に飛び退がった。


 飛んだ先には下り階段の手摺り。

 両手で掴まり、階段の外側にぶら下がった。


「——っ!?」


 太田は体当たりの勢いをすべてぶつけて、階段の手前で止まるはずだった。

 しかしそこに弘原海はいない。

 ぶつける相手がいないなら自力で止まるしかない。


 だが、殺意が籠っていた分、勢いがついている。

 助走の勢いを止められず、彼は空中に踏み出した。

 後の足が地を離れたとき、手摺りにぶら下がったままの炎怒は空中の太田と目が合った。

 直後——


「うわあああーーーっ!!!」


 踊り場から踊り場まで結構な段数があった。

 その高低差、およそ建物一階分。

 そこを水泳の飛び込みのような体勢で手足をばたつかせながら落ちていく。


 一秒後、下の踊り場で米袋をまとめて地面に落としたような重たい音がした。


 悲鳴が止んだ。

 表の通りから流れてくる音しか聞こえない。

 空き地に静寂が訪れた。


 炎怒は片足を手摺りに引っ掛けて乗り越え、階段に戻った。


 あまり掃除されていない手摺りは埃っぽく、そこに身体を擦り付けたから服が汚れてしまった。

 その汚れを手で払いながらカン、カンと下りていく。


 下りていく先、車に轢かれた蛙のように太田がのびている。


 そこへ何の興奮もなく、仕事を片付けるサラリーマンのような顔で下りていく炎怒。

 晴翔の脳裏に昨夜のリビングの攻防がよぎった。


 ——トドメを刺しにいくのか?


 あり得ないことではない。

 この半鬼は任務の妨げを排除すると公言している。


 父と弟は身内だからあの程度で勘弁してくれたのかもしれない。


 では、他人の妨げを排除するときは?


 晴翔に緊張が走る。


(まさか、僕の身体を使って人殺しを?)


 天界といえば神様や天使がいて、善人しか行けない世界だと思っていた。

 そこから来たという天の使い。

 悪いこと、いや、ひどいことはしないだろうという先入観があった。


 それが、昨夜からひどいことの連続だ。

 鬼と半鬼は違うというが、僕から見れば似たようなものだ。


 天界の任務だというから信じて承諾したのに……!


 その任務には殺人まで含まれているのか?

 天界って、そんなところなのか?

 だからこれからやるのか?

 僕の手を使ってやるのか?


 いくら嫌いな奴だからってそんなのはいやだ!


 炎怒は下りる足を止めずに晴翔の思念を黙って聞いていたが、ただ一言——


「うるさい」


 晴翔はショックでその場に立ち止まる。

 一方、下りていくその背中は止まらず、距離が開いていった。


(やっぱりやるんだ……!)


 そう確信すると炎怒を追い抜いて、気絶している太田に駆け寄る。


「太田! ……く、ん……起きろ! 早く逃げ……ぅぐっ!!」


 炎怒の金縛りだった。

 直立不動のまま動けない。


 遅れて踊り場に到着した炎怒。

 気をつけの姿勢で立つ晴翔を一瞥して通り過ぎる。


 すれ違いざま、また一言——


「邪魔するな」

「だめだ……やめてよ……」


 と、絞り出すが、気にもしない。

 任務を行うのに、人間に伺いを立てて承諾を得る必要などない。

 晴翔の言い分など不要。


 炎怒は晴翔の目の前で太田の頭の横にしゃがみ込み、首に手を伸ばした。

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