第21話「希望の光」

 世の中には様々な考え方がある。

 大半の人達にとって狂った考えでも、ある人にとっては正しい考えであったりする。


 弘原海家にとって、宿題に対する考え方がそうだった。

 渡の宿題を晴翔が済ませておくことは当然のことなのだ。

 両親が認めている。


 これは下位者が上位者の面倒事を代われというのではない。

 あくまでも成績のことを考えての話なのだ。


 例えば、五教科の宿題を済ませるのに、一時間かかるとする。

 平凡とはいえ、中学の勉強を終えている晴翔が代わりに済ませておけば、それほど間違わずに宿題を仕上げることができる。


 その一時間を宿題より難しい参考書に取り組むことに使うのだ。

 その結果は——

 渡は毎回のテストで九〇点以上を量産する優等生になっていた。


 平等に与えられている時間を何に使うか。


 狂ってはいるが、能率という一点に執着した一つの家庭が出した答えだった。

 そして結果が出ている以上、有効な方法といえた。


 だからこれから炎怒が何をしようと、この一家にとってはなんともない。

 ……はずだった。


「初恵さん」


 名を呼ばれた初恵は緊張しながらも「何?」と返す。


 息子と入れ替わった化け物——

 自分のようなただの主婦に何の用があるのか?


 どんな恐ろしいことを言われるのかと構えていると、その口から出てきた言葉は意外なものだった。


「可燃ゴミの回収日は何曜日だ?」


 三人は顔を見合わせる。

 ……なぜ?

 なぜ化け物がそんなことを気にするのか?


 質問の意図がわからないが、別に銀行口座の暗証番号を教えろと言われたわけではない。

 差し支えないだろうと判断し、尋ねられた初恵が三人を代表して答える。


「月曜日と木曜日だけど?」

「そうか」


 頷きながら炎怒はテーブル中央にうずたかく積んであるノートの残骸を一枚取ると、席を立って台所に向かう。


 途中、冷蔵庫の前で一度立ち止まる。

 扉に小さなホワイトボードがくっつけてあるのだが、そこの黒ペンを取る。


 一体何なのか?


 三人が席から注視する中、炎怒は台所横にまとめてある大きなゴミ袋を漁り出す。

 しばらくガサゴソうるさかったが、お目当てを見つけて音が止む。

 次にそのゴミとノートの切れ端を床に置くと、黒ペンでキュッ、キュッとやり始めた。


 こっちでやればいいのにと思うが、何も言えず、その後ろ姿を見ていることしかできない三人。


 やがて作業が終わった。

 炎怒はそのゴミを持ってテーブルに帰ってきた。


 ゴミは一枚の紙屑だった。

 床で何かを書き込むために広げてあったが、それでも皺々でよくわからない。


 炎怒はノートの残骸を横に退け、紙屑の皺をよく伸ばしてから中央に置いた。


「——!!」


 その紙屑が何なのか、渡は両親より先に気がついた。


「……渡のテスト?」


 夫婦も遅れて気がついた。

 金曜日に帰ってきた答案だ。

 氏名欄に「弘原海渡」、その隣の点数欄には「九七」と記されていた。

 間違えた箇所は一つだけ。

 立派な成績だ。


 みんなが出かけた後の土曜日午前、いつも通りに家中を掃除する初恵が渡の部屋のゴミ箱から回収したものだった。


「これがどうしたの?」


 初恵は少し不機嫌に尋ねた。

 わざわざ片付けたのに漁ってこられては気分が悪い。

 おかしな点に気づいたのは俊道だった。


「おい、なんで答えが黒く塗りつぶされているんだ?」


 見れば、間違えた一箇所以外、解答欄がすべて黒ペンで塗りつぶされている。

 台所の床でこれをやっていたのだ。


 炎怒は台所に持っていったノート片をポケットから取り出すと、横の初恵に渡した。

 受け取って何かと見てみると、塗りつぶした正解を書き写したものだった。


 状況が飲み込めずにキョトンとしている両親。

 状況が飲み込めて、血の気が引いていく渡。


 そんな渡へ、炎怒から死神の鎌のように無慈悲な一言が——


「解いてみろ」


 渡は青白い顔で見上げたまま動かない。


(…………!)


 炎怒が何を言っているのか、ようやく理解できた。

 初恵は思わず、

「渡、あんた……」

 と力なく声が震えた。


 母の声に気を取り戻した渡は猛烈に兄を口撃する。


「解いてみろだぁっ!? なんで落ちこぼれが命令してんだ!」


 俊道も遅れて理解した。

 口汚く喚き散らしている渡を見て驚愕を隠せない。


「…………」


 夫婦は考えてもみなかった事態に言葉が出てこない。

 だが、炎怒の言葉を全面的に信じたわけでもなかった。


 解けないから反発しているのではなく、下位の兄に指図されるのを嫌がっているだけかもしれない。

 とにかく疑いは晴らすべきだ。

 今週解いたばかりの問題なのだ。化け物の目の前で解いて見せればよいのだ。


「渡、俺からも頼む。こいつに見せてやってくれないか」


 しかし兄だけでなく父に対してまで、凄まじい拒絶を返してきた。

 冗談じゃない、馬鹿にしてる、やる気がなくなる、と悪態が続く。


 俊道は聞いているうちに怒りというよりも悲鳴に聞こえてきた。

 渡を信じたい。

 しかしその悲鳴を聞けば聞くほど、炎怒に傾いていくのを止められない。


 そんな自分の心情の変化と、疑いを晴らそうとしない渡の態度に苛立ってきた。決して沸点が高くない俊道。

 よく耐えたが、ついに限界を超えた。


 バァンッ!!!


 左掌でテーブルを力一杯叩いて、渡の騒音を黙らせた。


「渡……いいから解け! 今すぐに!」


 俊道は叩きつけた左手を伸ばして黒塗りの答案を取り、渡の前に滑らせた。

 炎怒はその上に記入できるよう、持っていた黒ペンを置く。


 三人注視の中、時間が一分、二分と過ぎていく……


 渡は皺々の答案を見つめたまま、解こうとしない。

 その姿が化け物の言っていることは事実だと示唆していた。


 ついさっきまで弘原海家の希望の光と信じていた。

 いま目の前にいるのは、化け物によって化けの皮を剥がされた等身大の渡。

 私達が希望と信じていたものは、こんなにもちっぽけな闇だったのかと涙が込み上げてきた。


 しかしグッと堪える。

 いま泣いたら、自分の中で何かが折れてしまうから。


 涙を零さずに堪え抜いた後、初恵はすべて理解した。

 が、それでも衝動を抑えきれず、最後に震える声で尋ねる。


「渡……本当に、そうなの?」


 優等生は母親を一瞥した後、静かに頷いた……

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