第19話「悪行」

 今回の任務は幸先が良かった。

 大変な目に遭いながら降下して、肝心の憑代が見つからないまま、任務失敗ということもある。

 それが着地する前から発見して、すぐに契約成立。

 順調な滑り出しだった。


 喜手門市にやってきて二日目。

 今日から本格的に調べていく。


 時計は〇七:三〇。

 朝食を終えて自室に戻ってきた炎怒はすでに疲れていた。


 食後、激怒した俊道が襲いかかってきたのでまた躱し続けた。

 躱すのは造作もないことなのだが、怪我をさせないように、というのが面倒だった。


 久路乃の説明から「ん」がどういうことなのかは理解できた。

 だが、悪気はなかったと謝っているにも拘わらず、俊道はしつこかった。


 なんとしても一発当てようと、疲労で倒れるまで腕を振り回し続けた。

 いまはソファーに横たわり、初恵に介抱されている。


 初恵が「部屋に戻りなさい」と言ってくれたので、その言葉に甘えて戻ってきたところだった。


「炎怒……」

「おまえもいい加減しつこいな。指一本触れてないだろ」


 晴翔の咎めにうんざりしながら炎怒は言葉を返し、出かける準備をする。

 要は朝出かけて、夜は帰宅するという高校生の振りができればよいのだ。

 この家に付き合う必要はない。


 リュックに使う物をしまっていた炎怒は学校の鞄に手を伸ばす。

 中に晴翔のネタノートがしまってある。


 以前、晴翔自らの手で破棄させられたので、これは二代目のノートだった。

 もちろん家族には内緒で作り、常に持ち歩いていた。

 家には隠しておけない。

 日中、初恵が部屋を掃除するからだ。


 炎怒にとってどうでもよい物なのだが、晴翔の霊状態を健全に保つための措置だった。

 晴翔も背後で嬉しそうだ。


 鞄に手が触れたときだった。

 部屋の扉が乱暴に開いて弟が入ってきた。

 ノックはもちろん、「入るよ」等もなし。


(こいつは……そうだ。晴翔の弟、渡だ)


 両親によれば優等生らしいが……

 左手はポケットに突っ込み、とてもそうは見えない。

 右手には書類や薄い冊子のようなものを持っている。


 背後の晴翔が緊張している。

 それと……嫌悪感?


(規律に厳しい家のはずだが、随分と雑な入り方をしてくる)


 まともな用事ではないだろうが、一体何の用なのか。

 鞄に伸ばしかけた手を下ろし、迎える。


「よう兄貴、昨夜から随分と調子に乗ってるみたいじゃねーか」


 渡は中学二年生の一三歳。

 背丈が晴翔より若干低いので、接近しすぎると兄の顔を見上げるようになってしまう。

 加えてこの話し方だから、不良が人の顔を覗き込みながら絡んでるようにしか見えない。


 炎怒は読心を発動。

 右手に力を溜めているのが見える。


 彼の心によれば、

【右手の書類で左下から右上に兄貴の右頬を引っ叩く】

 という予定らしい。


(あの父にしてこの息子ありか)


 読まれているとも知らない渡は、説教なのか、侮辱なのかよくわからない暴言を並べ続けている。


 早く出かけたいのに一体何の用なのか?

 退屈してきた炎怒は晴翔の記憶から推測を試みた。


 すると、それはあった。

 割と深いところにしまい込んでいたその記憶は「渡、宿題」とタイトルがついていた。

 ついでにその記憶に関連している記憶達も。


(ほう……これは面白い)


 渡について、大体のことがわかった炎怒。

 記憶の閲覧を終了し、やがて来る渡の攻撃に備える。


「で、どっか行くの?」

「ああ、出かけてくる」

「お仕事サボっちゃだめだよ〜 お出かけはそれからでしょ〜? お・に・い・ちゃ・ん」


 ヘラヘラと嗤いながら兄をおちょくる。

 後ろで晴翔は憤っているが、炎怒はつまらなそうに溜め息をつきながら、

「おまえがな」

 と、一言答えた。


 渡は想定していない答えが返ってきたことで面食らった。

 一瞬固まった後、すぐに返答の意味を理解すると激昂した。


「あぁっ!?」


 ここで書類が斜め下から飛んできた。

 予定通りの軌道で。


 炎怒は読心により回避。

 書類は空を切った。


 完全に不意をつき、直撃を確信していた渡。

 至近距離で擦りもしなかったことに驚愕した。


 だが悟られまいと驚きを隠し、跳ね上がっていた右手をそのまま下に振り下ろした。


 バァーンッ!


 読心を発動したままの炎怒だったが、今度は避けない。

 書類は炎怒ではなく、晴翔の机に叩きつけられたからだ。

 ちらっと横目で見ると、その書類は晴翔の記憶通り五教科の宿題だった。


「落ちこぼれの分際で口答えしてんじゃねーよ! ちゃんとやっとけよ!」


 そう、下僕に申し渡すように吐き捨てると、開けっ放しの扉からそのまま出て行こうとした。


 炎怒はその背に向かって拒絶の言葉をかけた。


「断る!」


 間髪入れず振り返る渡。

 その形相はまるで見落としていた悪鬼に気がついた明王のよう。

 怒りに震えながら兄のところへ戻ってくる。


「てめぇ、親父の次は俺か? どんだけ調子に乗れば気が済むんだ! あぁっ!?」

「そんな宿題など、落ちこぼれの力を借りなくても、あっという間に片付くだろ? 優等生君」


 怒りすぎて言葉が出てこない渡。

 なんとか冷静になろうとするが、それはこの場を平和に収めるためではない。

 下僕の兄に身の程を思い知らせるにはどうすればよいか。

 その有効的な方法を導き出すためだ。


 例え兄であろうと成績で下回る者は下僕。

 上位者の命令に従うのが数年前からの弘原海家の掟——

 その掟に逆らう不届き者には躾をしなければならない。


 悪いことはすぐに思いつく。

 渡は兄が最も悲しむ仕置きを思いつき、ニンマリと口角が上がった。


「どこまで意気がっていられるかな〜? いい声で哭けよ〜 お・に・い・ちゃ・ん」


 そう捨て台詞を吐き捨て、一階へ降りていった。

 どうやらもう一幕あるようだ。

 早く出発したかったのだが……


 炎怒は晴翔を振り返る。

 その表情は暗い。

 渡が悪態をついている間、ずっと下を向いていた。


 いなくなったことでようやく顔を上げた。


「炎怒、実はあいつ……」

「ああ、わかってる」


 渡が来たことで中断していたが、鞄を開けてネタノートを取り出し、晴翔の前に座る。


「いいか、こういうものは親公認で堂々とやるべきだ。それをコソコソやるから、下らない奴が付け込んでくるんだ」


 だからこの二代目も諦めろ、と宣告する。


 晴翔もそれは理解している。

 下に降りていった渡が今頃、両親にこのノートの存在を暴露しているだろう。

 そうしたら下から大声で呼ばれて降りていき……

 また昨夜のようになるのだと、覚悟を決めた。


 しかしそうはならない、と炎怒は言う。


 勉強の妨げと破棄させたノートが作り直されていた。

 あの父が黙っているわけがない。

 なぜ荒れ事にならないのか?


 炎怒はそのことについては語らず、代わりに語ったのは渡に対する晴翔の姿勢についてだった。


「晴翔。おまえが弟に対してやっていたことは悪行だ」


 言われた晴翔はまた下を向く。

 記憶を共有しているのだから炎怒にはすべてお見通しだった。

 だからなぜ悪行と言われるのか、心当たりがあった。


「言っとくが、宿題を代わっていたことじゃないからな?」


 晴翔は頷く。

 わかっている。

 炎怒が何を指しているのかを……


「あのガキはこれからの任務中も絡んでくるだろう。阻止するためにこのノートは破棄する。すまないが諦めてくれ」


 晴翔はもう一度、深く頷いた。

 傍から見ればまるで亡霊に引導を渡しているかのようだ。


 そのとき、階段から初恵の声が響く。

「晴翔! いますぐ降りてきなさい!」


 炎怒はノートと渡の宿題を持って立ち上がり、リビングに向かう。


 ——悪行を正しに。

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