第18話「作法」

「晴翔——」


 聞きなれない声で目が覚めた。

 うっすらと目を開くと黒衣の男が立っている。


「あ……? えっと」


 誰だっけ?

 なんで部屋にいるんだ、この人?


「もう起きたほうがいい。七時に朝食なんだろ?」


 ……思い出した。炎怒だ。

 寝ぼけていた意識がはっきりしてくるにつれ、昨日のことがよみがえってきた。

 ベッドに腰掛けて机の上に置いてある時計を見る。


「〇六:五〇」


 よく考えたら目覚ましをかけていなかった。

 起こしてもらわなかったら大変なことになるところだった。


 どう大変なのか?

 俊道によって厳格に統制されている弘原海家。

 たとえ日曜日といえど、朝寝坊は許されないのだ。


 以前は俊道自身も平日より遅い起床だったのだが、厳格になった頃から全員七時に朝食と定められていた。


 それを知る炎怒が普段通りに起こしてくれたのだった。


 晴翔は急いで私服に着替え始めた。

 パジャマ姿で降りて行くこともご法度だ。

 それだけで躾の口実にされる。

 平日は制服、休日は私服に着替えていなければならないのだ。


 バタバタと着替え終わると炎怒が、

「それじゃ、頼む」

 と昨日のように右手を差し出してきた。


 そうだ。忘れてた。

 この人に身体を貸していたんだった。


 でも……


「僕、山に登る前に食べたのが最後で空腹なんだけど」

「心配するな。空腹を感じているのはその身体だ。交代すれば感じなくなる」

「いや、そういう問題では……僕だって、朝食を……」

「いまはあの親父と会わないほうがいいと思うが?」

「——!」


 うっかり忘れていた。

 夜中に炎怒が返り討ちにして病院に行かせたのだった。

 今頃、下ではどんな顔で……


 朝食どころではない、と血の気が引いた目の先に炎怒の手が。


「…………」


 晴翔は握手した。

 また山と同じように視界が真っ白に……



 ***



 リビングの壁時計が「〇六:五八」を差した頃、弘原海家の長男は悪びれる様子もなく席に着いた。

 これで全員揃った。

 七時前だ。


 集まったのだから食べ始めるのかというと、そうではないらしい。

 俊道が壁時計を睨みつけている。


 炎怒はそれで理解できた。

 集まるのは七時前までだが、食べ始めるのは七時丁度に開始ということらしい。

 一応、何事も規律を重んじているという建前なのだろう。


 従わなければ制裁が待っている、と脅しながら守らせる規律。

 そんなものは正しくも何ともない。

 規律を出しに使った単なる暴力なのだが……


 目だけ動かして母親と弟を見ると、手は膝の上、目を伏せて行儀よく「待て」に従っている。

 二人の行儀の良さがこの家の異常さを物語っていた。


 妻と息子同様、手を膝に置いていた俊道。

 壁時計が七時丁度になるのと同時に両手をテーブルの上へ出した。


 昨夜、病院で手当てしてもらった右腕は包帯が巻かれていて不自由そうだった。

 それを前に投げ出し、炎怒に向かってこれ見よがしに見せつける。


 そしておまえのせいでこうせざるを得なくなった、と言わんばかりに左手でスプーンを持って食べ始めた。


 一口目が口に運ばれるのを合図に他の二人も続く。

 しかし、こちらは食べ始まるときも行儀が良い。


「いただきます」


 と挨拶をし、軽く会釈をしてから食べ始めるのだ。


(……ああ。そういうことか)


 炎怒は弘原海家の作法を理解した。

 他の家族達はちゃんと「いただきます」をしてからなのに、規律に厳格なはずの俊道が黙って食べ始める。


 一見、他人の行儀に厳しく、自分に甘いように見えるがそうではないのだ。


 世間の「いただきます」は生きる糧になってくれた食べ物に対する感謝。

 この家の「いただきます」は食べさせてくれる俊道に対する感謝。


 だから別に矛盾していないし、自分で稼いで自分で食べているのだから、感謝を述べる必要もないという考え方なのだ。


 そんな様子を眺めていると、俊道の視線を感じた。

 おまえはどうする気だ、とこっちを睨みつけている。


「いただきます」


 炎怒も目の前に置かれている朝食に対して感謝の言葉を述べた。


 当分の間、この家に滞在することになる。

 出来れば友好的にやっていきたいと思っている。

 この家の間違った作法など知ったことではないが、わざわざ波風を立てることはない。


 それに食べ物になってくれた命に対して感謝することは間違いではない。

 そう判断した対応だった。


 当然、俊道にそう理解されるはずもなく、作法に従ったとほくそ笑み、黙々と食べることに集中した。


 静かな日曜の朝食風景——

 しかしお世辞にも和やかとは言い難い。

 ピリピリと今にもひび割れそうな緊張感が走る。

 例えるなら敵同士の会食のよう。


 険悪な空気の中、弟がいち早く食べ終え、「ごちそうさまでした」と俊道に感謝を述べて二階へ戻っていった。

 使っていた食器はそのままに……


 ——なるほど、食器をテーブルから片付けるところから主婦の「務め」という考え方か。


 晴翔もこの家の主婦の「務め」について特に疑問を抱くことはなかったようだ。

 記憶にも「お母さんの仕事」とだけある。


(この家の悪い空気は俊道一人のせいという訳でもないようだ)


 男達三人の中で最後に食べ終えた炎怒はそんな考察をしていた。

 だがそれだけだ。別に正そうとは思わない。


 偶然、山で見つけた憑代の家庭。

 こちらの邪魔さえしてこなければ、問題が見つかっても干渉しない。

 どうせ任務が終わったらお別れする連中だ。


 静観を決めた炎怒。

 だが、そんな気持ちを嘲笑うかのように、トラブルは降りかかる。


 食べ終えた炎怒は自室に戻ろうとしたが、身体が何かを欲しているのに気が付いた。

 何かと探ると、初恵が淹れてくれる食後のお茶を一杯飲むのが習慣だったらしい。

 それがないまま席を立とうとしてしまったのだ。


 身体に違和感を感じさせないよう、炎怒もその習慣に従うことにした。

 ところが、初恵は不自由な夫を気遣っていて、いつものようにお茶を出してくれない。


 記憶によれば、こちらが食べ終えるタイミングで出してくれていたもの。

 晴翔から頼んだことはなかったようだ。


 それ位で違和感は発生しないと思うので、頼むのは構わないのだが、問題はその頼み方だ。


 かなり特殊な家庭だ。

 お茶の頼み方も世間とは違う頼み方があるのではないか?

 この親父の前で間違えたら、また親父が怪我をする。


 昨夜のようにくどくど説教されるのはいやだ……

 そう思って、ちょうど食後のお茶を飲み干して、おかわりをしそうな雰囲気だった俊道の様子を伺っていた。


 すると、左手の湯飲みをテーブルにゴンッと音を立てながら、初恵に向かって「んっ!」と催促した。


(なるほど、あれがこの一家の頼み方か)


 学習した炎怒がそれに倣う。

 晴翔用の湯飲みをテーブルにゴンッと鳴らしてから、「んっ!」と頼んだ。


 夫婦が一斉にこちらを見て固まった。


(なんだ? 何か間違えたか?)


 一瞬の静寂の後、真っ赤な憤怒の形相になった俊道が、左手に掴んでいた湯飲みを炎怒の顔に投げつける。


 しかし読心により回避。


「なにが『ん』だ! ふざけてんのか!」


 突然の剣幕に驚く。


「なぜだ? この家ではお茶のことを『ん』と呼ぶのではないのか?」

「そんなわけあるかーっ!」


 その様子を大穴の縁で久路乃と境守が見ていた。


 境守は笑っていたが、久路乃は笑えない。

 ぐったりと肩を落とし、呟いた。

「お茶はお茶だよ、炎怒……いくらなんでも『ん』はないよ……」


 脱力する久路乃の先、大穴の水面に映る弘原海家では炎怒と俊道の揉め事が続いていた。

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