第9話「さよなら」

 まだ任務は始まったばかり。

 それでも当初の難関を突破できたことを安堵する。


 ひとまず落ち着いた炎怒は尋ねた。


「それで、この矢はどこに向かっているんだ?」

「商店街は無理なので降下地点を変更しようと思う」


 それは異論ない。敵陣の真ん中に降下など無謀すぎる。

 ただ、あまり人里離れた降下地点では困る。

 すぐにこの世で活動するための憑代を見つけなければならないから。


 一体どこに変更する気なのか。


「前方の兜置山に降下しよう」


 ——山?

 なぜ、そんな人里離れたところに?

 わかっているはずだと思うが、それでも理由を尋ねずにはいられない。


「久路乃……」

「いや、わかってるよ」


 彼女の口から、いま山に行けば憑代になりそうな若者がいることを告げられ、納得がいった。

 市全体を俯瞰できたとはいえ、あの逼迫した戦いの中でよくぞ発見した、と感心する。


「自殺か?」

「……そうみたい。若いのに一体何があったのか……」

「まあ、いいじゃないか。死にたいっていうなら好都合だ」

「炎怒!」


 天界には半鬼や天使が人間に憑代になってもらうときの心得があった。

 生きようとしている人間の人生を奪ってはならない。

 憑代になるということの意味を十分に理解させ、合意の上で借りること。


 悪魔は憑代となった人間がその後どうなろうと構わないから、どんな奴も利用する。

 だがこちらは天の使い。悪魔と同じ真似をするわけにはいかないのだ。


 そのための心得なのだが……

 理解した上で貸しても良いと言ってくれる人間は、命が尽きかけて人生の先が見えた老人か瀕死の病人。

 せめて最後に神様のお役に立ちたいという気持ちは尊いが、悪魔と戦うのは無理だ。


 時にはこの先の人生を生きていこうと思わない成人に巡り合うこともあるのだが……

 こちらの話が理解できない、それ以前に会話が成立しない者ではダメだ。


 そうなると自殺志願の若者が理想的なのだが、そう都合よく見つからない。


 だがほぼ毎回、悪魔に先手を取られているところから始まる任務。

 しかも手段を選ばず戦っても、必ず勝てるとは断言できない難敵ばかり。

 速やかに憑代を確保しなければ勝ち目はない。

 それにも関わらず、憑代の確保の仕方まで制限を加えてくる天界。


 任務と心得、一体どっちが大切なのか?

 そういう疑問を常々抱いているので、彼女の咎めるような言い方に腹が立った。


「ややこしいことに拘りやがって。だから毎回、死にたがりを探す羽目になるんだ」

「そんな言い方……!」

「その死にたがり達のおかげで俺たちの任務が成立している。違うか?」


 ひどい言い草だが、天界が置かれている現実を如実に言い表しており、久路乃は言葉を返せなかった。


 彼女の沈黙にさすがの炎怒も言いすぎたか、と冷静になってフォローする。


「とにかく、憑代候補が見つかったのは良いことだ。もう生きなくて良いというなら、そいつの身体をありがたく貸してもらおう」

「うん……」

「……俺も言いすぎた。悪かったよ」

「私達も、いつもすまないと思っているよ」


 それは相槌ではなく本心だった。

 炎怒を含めた半鬼達には本当にすまないと思っている。

 待ち構えている敵の不利に晒されるだけでなく、味方からの不利も押し付けられ……


 任務のためならば、誰でも憑代にしてしまえという意見には賛同しかねるが、小神殿の近くを居住区にできたら、少しは時間的不利が軽減できるのに。

 それさえ下位天使の自分には提案する権限がないことをいつもすまないと思っていた。


 二人の会話が重くなってしまった……

 空気を変えようと、炎怒はこれから会うその若者の話をする。


「それで、どんな奴なんだ? 特徴は?」

「たぶん中学生か高校生位の少年だと思う。特徴は、波動を感知しただけだから何とも……」

「そうか。それじゃ、山に着いたらそれ位の年頃の奴を探そう」


 大穴を抜けてから大変だったが、この後の憑代探しで難儀することの方が多い。

 その手間が減るだけでもありがたかった。

 穏やかな気持ちで矢に捕まっていた彼だったが、降りかかる苦難はまだまだ終わってはいなかった。


「炎怒、まずいかもしれない……」

「……今度は何だ?」


 彼女は語る。

 さっきまで安定していた少年の命の波動が、いま急激に増大した。

 この増大の仕方は生物がいよいよ命を落とす寸前に酷似している。

 例えば首吊りなら、縄を首にかけた段階かもしれない。

 もしかしたら間に合わないかも……と。


「間に合わないかも、じゃない! 急げ!」

「やってる!」


 炎怒の掴まる矢が速度を上げる。

 前方の山では憑代にと見定めていた少年が絶命寸前。

 後方の商店街からは悪魔達が追いかけてきている。


 こうなっては何としても間に合って、少年を止めるしかない。

 契約、もしくは一時的な承諾でも良いから憑代になってもらい、奴らの目を晦ますしかない。


 憑依したら少年の霊体が外に出てしまうが、奴らが探しているのはあくまでも空から降ってきた天の使い。

 その辺にいくらでも漂っている少年霊の一人など眼中にないし、霊体がはみ出た状態で生きている虚ろな人間も珍しくないはず。


 間に合いさえすれば!

 その一心で二人は山を目指す。

 いまの炎怒は霊体なので物体のロープを切断することはできない。

 だから足場から飛び降りられたら打つ手がないのだ。

 急がなければならない。


 久路乃の矢はミサイルのように白煙を引きながら高速で飛行を続ける。

 この白煙は推進力を得るために燃焼した煙ではない。

 この矢も霊体なのだ。当然炎怒と同じ風化の影響を受けるので蒸発している煙だった。

 なんとか山まで保つと良いが……


 不安だったが、かなり山の近くまで飛んでくることに成功した。

 真っ黒い夜の山肌が視界いっぱいに広がってきた頃、矢に掴まりながら炎怒は後ろを振り返る。

 ——追っ手はまだ来ていない。

 後はその少年を止めて交渉するだけだ。


「久路乃、そろそろ高度を下げて山頂に降りよう」

「うん。わかっ——」


 彼女はわかった、と最後まで言えなかった。

 とうとう霊力が尽きた矢が煙の塊になり、四散したのだ。

 炎怒は再び空中に放り出され、人間界に突入した時のように落下し始める。


「炎怒!」

「——っ! ここまで来たら、後は大丈夫だ!」


 なんとか体勢を立て直して応答した。

 幸いにも山頂へ降下するのに丁度良い高度だったし、吹雪の岩山に比べればこの兜置山に吹く風は穏やかだった。

 体の傾きを微調整しながら降下を続けた。


 一方、大穴の縁に立っていた久路乃は他の後見達同様、そこに腰を下ろし、弓を置いた。

 この状況で援護できることはない。

 代わりに少年の様子をよく観察できるようになったので、山のどの辺にいるのか、より正確に特定して炎怒に場所を指示する。


「場所がわかったよ。山頂からハイキングコースを下りて中腹の休憩所を目指して」

「その休憩所にいるんだな?」

「いや、その休憩所から木立に入っていった大きな木のところにいる」

「わかった」


 大地と正対するような姿勢で降下していた炎怒は体勢を変え、両足を大地に向けた。

 霊体なので墜落することはなく、パラシュートは必要ない。


 ふわっと山頂に着地した。


 ついに炎怒は任務地、喜手門市に降り立った。

 しかしほっとしている暇はない。

 地に足が着くと、間髪入れずにハイキングコースを駆け下りていく。


「久路乃!」

「大丈夫。まだ生きてる!」


 空中からはわからなかったが、ここまで来れば感知できる。

 まるで心臓の鼓動のように脈打つ命の波動。

 それが誰か止めて、と言わんばかりに山全体に木霊していた。


 休憩所を経由する猶予はない。

 ハイキングコースを外れ、木立を縫うように突っ走る。

 こういう時、霊は便利だ。

 木の根に足を取られることもなく最短距離を行ける。


 そして炎怒は木々の間に少年の姿を捉える。

 さっき久路乃が例えで首吊りと言っていたが、本当に首吊りだった。

 もう首に縄をかけ、目を瞑っている。


「その自殺、待てえええっ!!」


 しかし、何の絆も縁もない霊の声はもっと近付かなければ届かない。

 炎怒は全速力で駆ける。

 間に合うか!?


 声の届く距離まであと僅かというところで、少年はこう言った。


(……さよなら)と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る