第10話「その命」
弘原海晴翔は特に誰に向かってというわけでもなく、漠然とこの世というものに対して別れを告げた。
この世のあらゆる場所から「邪魔だ。ここにいるんじゃない」と追い出されたのだから。
彼は散々考え、躊躇い、そして待った。
何を?
自身でもわからない何かを待っていた。
早まるなと止めてくれる親切な人?
あともう少し待っていれば、やめる口実を自分で考えつくかもしれない?
たぶんどちらも違う。
結局その何かはわからないままだが、間に合わなかったようだ。
考えることも待つことも疲れた……
身体の力を抜くと山の緩やかな傾斜も手伝って、前方に身体が流れていこうとする。
一歩踏み出すことにも疲れていた彼はその流れに身を任せた。
爪先が足場から離れ、後は踵が前にずり落ちれば全て終われる……
その時だった。
「その命、もういらないのか?」
近くで聞こえる男の声に驚いた晴翔は咄嗟に目を開く。
数秒前まで周囲に誰もいないことを確認している。
それがたった数秒のうちに、黒衣の白鬼が至近距離に立っている。
炎怒だった。
際どかったがなんとか間に合った。
あと一秒遅かったら間に合わなかっただろう。
休憩所を経由せず、コースを外れて直進した判断は正しかった。
その甲斐あって、無意識の内に晴翔の踵は踏ん張り、自殺を中断していた。
不意に想定外の出来事が起こるとそちらに気を取られ、それまでの行動が停止するのだ。
彼は自死の寸前だったので極限の精神状態に置かれていた。
それが強引に現実に引き戻されてもすぐには物事を正しく受け止めることができない。
まるで他人事のようにこの不測の事態を冷静に分析していた。
(人間? いや、角が生えているから鬼か? 鬼って本当にいたんだな)
ぼんやりとだが、目の前に立っている者が鬼という奴なのだということは理解できた。
(視界には誰もいなかったのに、足音も立てずに一瞬でどうやって?)
錯乱した少年の脳は鬼だからそんなこと簡単なのだろうと補完したが、徐々に正気を取り戻すにつれ、自分で出したその鬼という言葉に引っかかりだした。
(ん? 鬼? え? ええっ!?)
改めて見直すと白と黒の出で立ちに死神にも見える。
死に瀕した極限状態からせっかく正気に戻れたのに、至近に立つ死神だか鬼だかわからない妖怪に恐怖し、再び極限状態に向かっていく。
炎怒はそんな晴翔の気持ちなど御構い無しに本題を切り出した。
「だったら貸してくれ」
現実にいるはずがない妖怪にお願い事をされる。
この事実を、極限状態に陥っている彼の脳が処理するのは無理だった。
「うわあああぁぁぁっ!!!」
麓の民家にも聞こえたのではと思うほどの叫び声。
動物の本能は危険から距離を取ろうとするが、彼の場合は、眼前の鬼から離れようと後方に飛び退った。
しかしそこは地面ではなく不安定な足場。
加えて怖気付いていたので、顎下から頭頂部にロープが緩く掛かっている状態。
その状態で焦って後方に弾け飛ぼうとしたので、足を滑らせてしまった。
幸い、頭頂部のロープが上手く前方に外れて首は締まらなかったが、顎下のロープにかち上げられるような体勢で落下する。
ドサッ——!
という重いものを落とすような音と共に晴翔は後頭部から落ちて低く呻いた。
「う、うぅ……」
倒れて動けない彼から見える夜空。
夕方は曇りだったのにいつの間にか雲が切れて綺麗な星空だった。
その星空の中に、さっきの鬼が足元の方向から頭、胸と視界に入ってくる。
傍を通り、その足で少年の頭を挟むように立ち止まると、逆様に覗き込む。
「おい、大丈夫か?」
そこで少年の意識は途切れた。
頭を強打したためか、自殺未遂と妖怪を見たショックに脳が耐えられなくなったためかはわからない。
あるいは両方か。
炎怒はその体勢のまま呼びかけ続けた——寝るな! 起きろ! と。
引っ叩いて起こしたいが今は物体の掌がないから叶わない。
こうしている間にも追っ手が迫ってくるかもしれない。
「久路乃!」
「大丈夫。あいつらまだ商店街から出られていない」
随分とのんびりした落ち武者達だ。
霊なら晴翔の下へ駆けつけた炎怒のように全速力で追撃すればいいのに、と思うかもしれないがそうではない。
山を目指して住宅街に入っていなくてはならないのに、まだ商店街でモタモタしている——
それはあの落ち武者達が悪魔の配下ではなく、商店街一帯を縄張りにしている地縛霊の集団であることを示していた。
降下を妨害してくれたが、天の使いが縄張りに入ってくるのを嫌い、悪魔と目的が一致しただけだったのだろう。
しかしその後は違う。
追撃したいのは悪魔の都合。
落ち武者達に縄張りを離れてまで、飛び去った者を追いかける理由はない。
いまは説得や交渉の最中だろう。
その間にこちらも説明と契約を済ませたい。
炎怒は気絶したまま起きる気配がない少年に呼びかけるのをやめ、もどかしそうに見下ろす。
一時的に憑依して山から動かしたいと考え、実際にそうしようとしたが、久路乃から止められてしまった。
商店街での交渉が成立して、悪魔達が動き出したらそうするしかないが、いまはまだその時じゃない。
少年の霊体に活を入れて強制的に起こすこともできるが、それは霊障のようなもの。
下位といえ、久路乃も天使の端くれとして悪霊のような真似はなるべく避けたかった。
「すぐに気がつくはずだから、大人しく待とう」
炎怒は不服だったが、一時的憑依はまだダメ、活を入れるのもダメ、と言われたら大人しくその指示に従うしかない。
こういう時、他の半鬼達のように強硬手段に出ないでくれるので助かる、と久路乃は胸を撫で下ろす。
ただ、少年の顔の上から微動だにせず見下ろすという待ち方はちょっと……
「炎怒。彼が起きたときに怯えるといけないから、少し離れて待とう」
「…………ちっ」
まるで学校の先生に注意される不良のように一つ舌打ちするが、また絶叫されても面倒なので渋々従う。
頭を挟むように見下ろすのはやめ、少年の右側に移動すると更に一メートル下がって目覚めを待つことにした。
いつ起きるか……
待つ身にとっては長く感じる。
だが、移動してから三〇秒程経過した頃、久路乃の読み通り、少年はすぐに気がついた。
「うっ……いてて……」
と後頭部をさすり、晴翔は呻きながらゆっくりと上半身を起こしていく。
後頭部の痛みで頭がぼーっとする。
一体、何が起きたのか?
ズキズキと痛む頭で気絶する直前の記憶を掘り起こした。
確か首を吊ろうとしていたのだ。
見上げるとロープが枝から伸びて、そよ風に揺られている。
そこまでは間違いない。
問題はその後だ。なぜ失敗した?
ロープの輪は解けていないから結び方が悪かったのではない。
何か変なものを見た気がする。
それがいきなり至近距離に現れたので驚いて、その後の記憶がない。
あれは何だったのか?
段々と意識がはっきりしてきて、ある事に気がつくと後頭部をさする手が止まった。
(まだその辺にいるんじゃないか?)
自分で気がついたことに怯え、恐る恐る左を見渡す。
……何もいない。
良かったと安堵する。
続いて右を向いた晴翔はそのまま固まった。
……いた。
そうだ。
こいつだった。
気絶する直前に見たのはこの鬼だ。
鬼と目が合ってしまい、逸らすことができない。
「危害を加えるつもりはないから、怖がらずにこちらの話を聞いてもらいたい」
続けてその鬼は自らを炎怒と名乗り、警戒心を和らげるよう、静かに「おまえは?」と尋ねた。
晴翔はまだ混乱してはいるものの、取り乱してはいなかったので考えた。
どう見てもまともな人間には見えないが、彼自身が言っている通り、いますぐ何かしてくる気配は感じられない。
とりあえずその話を聞いてみてもよいと判断し、まずは名乗り返すことにした。
「僕は弘原海晴翔」
「では晴翔、さっそくだが——」
ようやく憑代候補と交渉を始めることができた。
しかしあくまでも候補にすぎず、断られたら探し直しになる。
もし悪魔の交渉が先に成立したら、あの落ち武者達が一気に山へ押し寄せるだろう。
そのプレッシャーを背中に感じながらも、炎怒は穏やかに話を進めていくのだった。
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