第7話「降下」
炎怒が境の大穴に飲み込まれていったのを追いかけるように、久路乃が縁に立った。
後を追って飛び込むわけではない。
飛び込ませるのは彼女の右手にある三個の石礫。
彼が起こした水飛沫が水面に戻るより早く駆け寄ると、波紋の中心目掛けて投げ込んだ。
三本の小さな水柱を上げて炎怒を追っていくこの石は〈
天界では神だけが作れる特殊な石だ。
〈気〉を集めて霊体の元を作るらしいが、意思が発生すれば霊になり、何も発生しなかったものを石のように固めれば霊石になる。
霊と同質で人間界の気に晒されると風化して白い煙が出るので、この性質を利用して降下時のダミーとして用いている。
霊石だけを選択して作ることは出来ないらしく、一人の人霊になるかもしれないものを無計画に生産することはできない。
結果、慢性的な供給不足に陥っていた。
一方、炎怒は大穴の水中を順調に沈降していた。
この水は不思議な液体で普通に呼吸ができるので溺れることはない。
以前聞いた境守の話によれば、元々は空洞だったが、ある日、空気が天界に流れ込み、小神殿周辺でこの世のような風化が起きてしまった。
物体が風化していく。
人間界では別に珍しくもない現象だ。
しかし不滅の天界で滅びが起きるという矛盾は災害を意味する。
以後、風化を防ぐためにこの不思議な液体で満たし、大穴を塞ぐことになったのだという。
その液体の中で炎怒は喜手門市を目指す。
映し出されていた夜景に向かって飛び込んだのだが、いざ水中に入るとそこに夜景はなく、底が見えない深い穴が続いている。
人間界に向かって続いているその縦穴は深く長かったが、暗くはなかった。
どういう仕組みかわからないが、壁面が薄らと発光しているからだ。
だから後ろから何かが飛んできて並行していることに気づくことができた。
久路乃が投げ込んだ三個の霊石だった。
追いついたのだからそのまま追い抜いていくのかと思ったら、そうはならず、速度を落として炎怒の横に定位している。
持ち主だった久路乃の意思通りに動いているのだ。
それぞれの位置が決まったのか、霊石達は膨張し始め、炎怒と瓜二つに化けた。
(炎怒)
(…………)
頭の中に直接声が聞こえてくる。久路乃の念話だった。
今頃、他の後見達同様に無音で口だけがパクパクと動いていることだろう。
(降下地点はさっき伝えた通り、
(…………)
(喜手門市で最も人が集まる場所だからすぐ見つかるはず)
(…………)
(そこを抜けたら光が一番集まっているところに向かって)
(…………)
さっきから炎怒は沈黙を守り続けているが、別に機嫌が悪いわけではない。
それは久路乃も承知しているから返答を求めず、一方的に話しているのだ。
すでに会談の間で宣戦布告が済んでいるので、先に喜手門市に入っている悪魔は迎撃の準備を整えて聞き耳を立てている。
降りてくるのはダミーを含めて四人。その中で本物は一人。
どんなにそっくりでもダミーは動かないし、話さない。
だからどれが本物か聞き耳を立てているのだ。
悪魔達の中には大穴内で降下中に話している声を聞き取り、特定してきた者もいたという。
炎怒と悪魔の戦いは大穴を抜ける前からすでに始まっているのだ。
一団は戦場に向かって降り続ける。
徐々に発光していた壁面が暗くなってきた。
炎怒は光を失っていく壁面の様子から、人間界まで後少しであることを知る。
ここからは指一本、自分の都合で動かすことはできない。
大穴を抜けた直後に軌道修正のために一回だけ動くチャンスがあるが、ダミーと同じような動き方をしなければならない。
久路乃は三個のダミーを炎怒のように遠隔操作し、炎怒はダミーのように動くという難しい作業が求められる。
大穴はとうとう暗闇になった。
闇の中で他にすることがない炎怒は、出発前に見せられた商店街周辺の地図を思い出し、駐車場の位置を再確認する。
軌道修正のチャンスは一度きり。それを終えたら後は地上に降り立つまでじっとしているしかない。
今回の悪魔が迎撃に何を撃ってくるかわからないが、いきなり自分の方に飛んでこないことを祈るだけだ。
(…………!)
無言のまま目だけ動かしていた炎怒は進行方向に白い点を見つけた。
点はじわじわと大きくなっていき、それは大穴を出た先に広がる駅前商店街の明かりだとわかった。
再び久路乃から、
(炎怒、そろそろ結界を抜ける。急激な風化に備えて)
(…………)
この世——
炎怒達、霊にとって毒ガスともいえる「空気」が満ちた異世界。
最も勢力のある種族の名を取って人間界といったり、物質界といったりする、「物」以外は存在してはならない世界。
万物に霊が宿っているという。
言い換えれば、物体に宿ることができない霊が留まれない世界ということだ。
この世という場所は物体にも霊体にもこの掟が平等に降りかかる。
留まれない霊は霊界に追い返す。
それが風化である。
常に経年劣化していく世界だから、生物ならば新陳代謝を繰り返して風化に耐える。
では不滅不変ゆえに新陳代謝する必要のない霊が、剥き出しのままこの世に晒されたら?
風化により霊体のあちこちが分解されていき、ドライアイスのように蒸発して霊界に追い返されるだろう。
消滅するわけではなく、霊界で元の姿に再構成されるが、この世に留まれなければ任務にならない。
だから悪魔も炎怒もこの世で活動するには物体の憑代が必要なのだ。
それも出来れば活動に制限のある道具や動物ではなく、生きている人間が望ましい。
伝え聞いた会談内容によれば、今回の任務は魔界側が一人送り込んだのが発端だという。
おそらく剥き出しのままではいない。悪魔崇拝者か何かの身体を憑代にして今頃空を睨んでいることだろう。
そこへわざわざ撃たれにいくのだ。たった三個のダミーと五本しかない援護射撃の矢を頼りに……
(うまく騙せるといいが……)
誰に聞こえることもない心の呟きは、呟いた本人と共に大穴の人間界側出入り口に飲み込まれていった。
ついに炎怒は任務の地、喜手門市上空に入った。
その瞬間、この世にも張られている風の壁により、久路乃が辺境で味わったのと同じ衝撃が全身を襲った。
危うく呻き声を上げそうになるが堪える。
同時にこの世の空気が一気に襲いかかり、炎怒の視界が白濁した。
風化によって体のあちこちから立ち上った白煙の一部が顔を覆ったからだ。
白煙はたったいま抜けてきたばかりの大穴に向かって流れていく。
事前に注意しろと言われていても降下中にできることなどない。
他のダミー達も同様で、その光景はまるで分裂した四個の隕石群が大気圏に突入して白い雲を引いているかのようだった。
必死に耐えながら横目でダミー達を見ると、本物に倣って僅かに苦悶の表情を浮かべていた。
久路乃はうまくやっているようだ。
と少し感心していたとき、見ていたそのダミーに地上から飛来した矢が命中した。
炎怒を迎撃するために放たれた悪魔の矢だ。
矢は炎怒に偽装している表面部分を貫き、霊石が破壊された。
こうして一個目のダミーは大量の白煙を吹き出しながら潰されてしまった。
それと入れ替わるように大穴からも矢が飛び出し、悪魔の矢の発射地点目掛けて飛んで行った。
久路乃の霊弓から放たれた天使の矢だ。
こんな応酬が地上に降り立つまで続くのだ。
炎怒は無事に辿り着くことができるだろうか……
残り二個と四本。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます