第6話「境の大穴」

 久路乃は炎怒を雲より高い高度で運んでいた。

 さっきからこの不機嫌な貨物は話しかけても何も答えず、雲の切れ間から時々見える村や都市を見張り続けている。


 だからなるべく雲から雲へと何も見せないようにしながら神殿を目指していた。

 また何か気に入らないものを見つける度に、炎の能力で絨毯爆撃などされては堪ったものではない。


 これは神殿に戻るための飛行であって、進路上の村や街を空爆する道行きではない。

 幸い、前方の空に広がる雲はずっと切れずに続いているようだ。

 その上を飛び続け、無事に神殿上空に辿り着くことができた。


 久路乃はスーッと高度を下げていき、真下の雲の中に突っ込んでいく。

 少し湿り気を含んだ白一色の空間。

 その中をしばらく降り続けると、白が突然途切れた。

 代わりに視界に様々な色が飛び込んでくる。


 雲を抜けていた。


 見下ろす眼下には美しい大都市が広がる。

 地獄に例えられる辺境区の反対、極楽浄土や桃源郷に例えられる天国。

 天界の中心区だ。


 その都市の更に真ん中、小高い丘に巨人の家かと見紛うほど大きな建造物が白く輝いている。

 二人が目指していた神殿だ。


 久路乃は神殿の入り口前に静かに降りていく。

 炎怒はずっと見張り続けているが、もう心配はしていなかった。

 ここの住人は生前、いわゆるよく出来た人間だった者達だ。

 いくら面白いからといって、指差して笑うようなことはたぶんしない。


 やがて正門前に黒い足二本、後から白い足二本が降り立った。

 発火も爆発もなく、二人は無事に神殿に到着できた。


 炎怒はようやく解放され、掴まれていたコートの皺を直そうとするが、今度は腕を掴まれて神殿に引っ張られる。


「お、おい!」

「いいから急いで!」


 二人の任務は門番にも通達されているので正門で止められることなく、通ることができた。

 入ると正面の大神殿には向かわず、その横の建物を目指して走る。

 炎怒をすぐに人間界に送らなければならないので〈さかい大穴おおあな〉に直行しようとしていた。


 境の大穴は任務などで使い達がこの世に降下し、終了後帰還するときに通る唯一の出入り口。

 悪魔や生身の人間が天界に侵入できないように厳重に管理されている。


 辺境から入れそうに思えるが、風の壁の外側には更に不可視の結界が張られていて、彼らが外側から知覚するのは無理である。


 神が例外として結界を越えることを認めているのは、人生を終えて生身の肉体から離れた霊達のみ。

 ただし、善人なら結界の際まで天使を迎えに出すが、悪人なら辺境の試練を乗り越えて自分の足で天国を目指さなければならない。


 大穴を管理している〈さかい小神殿しょうしんでん〉も入り口で止められることはなく、まるで少女がぬいぐるみを引っ張るように内部へ駆けていく。

 為す術がない炎怒はひたすら耐えるしかなかった。


 二人は入り口から真っ直ぐ廊下を駆け抜け、大扉の前で止まる。

 一呼吸置き、扉をノックする。


「久路乃と炎怒です」


 中から「入れ」と中年男性の声がする。

境守さかいもり〉と呼ばれる上位天使で、この小神殿の主である。


 失礼します——と言いながら中に入るとそこは大広間だった。

 しかしそこで式典や集会を行うことはできない。

 大広間の中央に大きな穴が空いているからだ。その面積は床の大半を占める。

 この小神殿の名の由来にもなっている境の大穴だ。


 その部屋にいるのは久路乃達だけではなく、他の後見達がすでに大穴の縁に座り込んでいた。

 覗き込みながら何かを呟いたり、叫んでいるような者もいた。


 叫んでいるような、という曖昧な表現になるのは無音だからだ。

 任務を受けると、まずこの大穴から半鬼をこの世に降下させ、後見はその降りた縁に座り込んで指揮を執る。

 その際、大穴に向かって発した声はこの世で任務遂行中の半鬼に伝わり、この部屋には聞こえない。


 さっきの後見は、おそらく半鬼が現地で勝手なことをしたので怒鳴っていたのだろう。


 いよいよ出発の時——

 炎怒は大穴の縁に立った。

 すると真っ暗だった大穴が炎怒の前だけ喜手門市上空の夜景に変わった。

 きっと他の後見達の前にもそれぞれの任務地の光景が広がっているのだろう。


 これから降下していく夜景を眺めていると、

「炎怒」

 と後ろから声を掛けられたので振り返る。

 境守だった。


「こちらにも報せが入っている。悪魔は一人だが反応は複数。奴らも色々と考え出すものだな」

「その後、何かわかったことは?」


 境守は首を横に振る。


「なるほど。俺はこれからそんなとんでもないところに放り込まれるわけだ」

「そう言うな。観測達も頑張っているのだ。皆もすまないと思っている」

「冗談だよ。何も情報がないのはいつものことだ」


 そう悪戯っぽく笑う炎怒を、境守は口には出さないが高く評価していた。

 この任務は失敗に終わることも少なくない。

 半鬼の能力、後見と半鬼の相性、しかし一番大きい要因は先手を取られているということだ。


 そんな不利な条件の中、炎怒は毎回任務を達成してきた。相手がどんな悪魔であろうと、どんな企みがあろうと……

 今回もその確実さに期待していた。


「吉報を期待している」

「……どうも」


 炎怒を励まし終えた境守は一歩下がって場所を譲った。

 入れ替わるように久路乃が前に進み出た。

 二人が話している間、彼女は降下支援の用意をしていたのだった。


「おまたせ」


 彼女は右手に石礫を三個握り、左手には弓を持ち、矢が五本入った矢筒を背負ってやってきた。

 それを見た炎怒が再び怒り出す。


「おい、おまえはふざけてんのか? なんでそれだけなんだよ?」

「いま任務が増えてて不足しているの! これでも融通してもらったんだよ?」

「本当のことを言え。俺がやられればいいと思ってるんだろ!?」

「そんなわけないでしょ!」


 境守は深い溜息をつく。

 こいつら、これさえなければな……と。


 静かな空間で唐突に置きた揉め事。

 騒ぐ声に気付いて二人の方に気を取られる後見が出始める。

 任務の最中に気が散るようなことがあってはいけない、と境守は慌てて仲裁に入った。


「気が散るから早く行け!」


 一喝されて渋々配置に戻る久路乃と炎怒。

 ようやく正常な降下準備に戻り、境守も自らの役目を続けた。

 それは降下直前の者に対しての注意点二つを伝えること。

 降下者が新米であろうと、ベテランであろうと例外はない。


 一つ目は天界を抜け、人間界に入ったら降下時の急激な風化に気をつけること。

 二つ目は今回も悪魔が先にいるので降下時を狙ってくるが、久路乃の援護を信じてギリギリまで動かずに辛抱すること。


 再び大穴の縁に立ち、喜手門市の夜景を眺める炎怒はボソッと呟いた。


「……二つ目の後半部分が厳しいかな……」


 幸いなことにその呟きは誰にも聞こえなかった。

 注意も終わり、出発準備は整った。


「よし、行ってこい炎怒!」


 境守の掛け声を合図に、炎怒は境の大穴に頭から倒れこむように飛び込んだ。

 直後、水飛沫が上がる。

 揺らぎもなく静かだったのでわからなかったが、大穴は空洞ではなく透明な液体で満たされていたのだ。


 水面が大きく揺れ、波紋が広がる。

 人間界を注視している他の後見達に多大な迷惑がかかるのでは、と心配になるが、当人達はまったく気にしていなかった。


 不思議なことに水飛沫も波紋も久路乃の前に映し出される喜手門市の部分だけだからだ。


 途中何度か揉めたが、こうして今回の任務は始まった。

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