第4話「極寒地獄」
任務を受けた久路乃は謁見の間を後にした。
今回も時間がない……
急いで炎怒を迎えに行かなければならない。
炎怒は〈吹雪の岩山〉という天界の辺境で暮らしている。
名の通り、一年中吹雪いており、そそり立つ岩山が複雑な気流を生み出している難所だった。
可能な限り飛んでいき、そこからは徒歩で行かなければならない。
神殿を出た久路乃は翼を広げて炎怒のところへと羽ばたいた。
あっという間に高度を上げ、北を目指す。
雲を引きながら飛行する彼女はもう小さくなった神殿を振り返りながらぼやいた。
「もう少し近くに半鬼達を住まわせればいいのに」
今回のような場合、基本的に天使ではなく半鬼を派遣する。
だから半鬼達の居住区を神殿の近くに置けばすぐに出発できるのに、そうではないのだ。
鬼になりかけた者の穢れを懸念し、そもそも半鬼を用いることにも懐疑的な天使達が少なくない。
そこで半鬼達の居住区は東西南北の辺境に置かれていた。
神殿がある天界の中心は天国に例えられるような一帯だが、辺境は地獄と呼ぶに相応しい一帯だ。
そこで生前悪人だった者を辺境に留め置くことで反省を促す場とされていた。
なるべく早く辺境を出て、中心部へ進むことが望ましいのだが、いつまで経っても出られない者は開き直って荒れだす。
そこで半鬼達を地獄に住まわせ、獄卒として取り締まらせるのだ。
炎怒も平時はその獄卒の任に就いていた。
いまもそこにいるはずだ。
神殿を出てからひたすら北へ北へと飛び続ける久路乃。
天界の都市や村をいくつも飛び越えて行くと、緑豊かな山々が続く。
風に乗って彼女のところにまで届く山の空気が心地いい。
更に山や川を跨いでいくと景色が荒涼としたものに変わっていき、空気もひんやりと肌寒い。
その中を飛び続けると不意に何か薄く軽いものがひらっと彼女の頬に張り付いた。
(冷たい……)
手に取ってみるとすぐに溶けてなくなる。
雪だ。
吹雪の岩山が近い。
飛び進めると顔に当たる雪が増えていき、眼下には銀世界が広がっていた。
この辺りから極寒地獄と呼ばれる地域に入り、複雑な気流が上空で唸り声を上げる。
久路乃は高度を下げ始めた。
ここからがこの地獄の難所だった……
上空で四方八方に吹き荒れる強風。
その風に煽られながら飛んでいると目標に直進していくことができない。
地上にある特徴的なものを目印に進路を修正したいがそれもできない。
猛吹雪に視界がほぼ奪われているので、上からでは真っ白で何も見えないのだ。
北に進んでいたはずがいつの間にか南に引き返していたなどよくあることだった。
このように飛びにくい空域ではあるのだが、低空ならば風速が若干弱まるし、なにより風向が安定する。
北から南への強い風だけなら飛べないことはない。
にも関わらず天使が飛行をやめて徒歩で向かわなければならない理由——
この一帯を難所たらしめている所以がもうすぐそこにあった。
高度を下げていると久路乃は前方に吹雪に煙る大きな岩山を見つける。
天界北方の最高峰、吹雪の岩山だ。
方向が合っていたことに安堵すると急いで着陸することにした。
そろそろくるはずなのだ。アレが……
用心していたその時、彼女の髪を後ろへ靡かせていた風が一瞬で逆向きになった。
「! しまっ……」
しまったと最後まで言う間もなく、まるで後ろから追突されたように前方に吹っ飛び、縦方向に回転しながら墜落していく。
ぐんぐんと高度を下げながら言葉にならない悲鳴のような叫び声を上げるが、雪と風の轟音が真っ白に塗りつぶす。
誰も踏み入ることのない氷雪の辺境——
見渡す限りの新雪の大地に天使が一人、隕石のように衝突した。
二回、三回、四回……と何度もバウンドしてようやく止まった。
気絶したのか、俯せのまま動かない……
彼女を墜落させたもの——それは〈風の壁〉と呼ばれている。
風の壁は神が天界の外周に張り巡らした結界のようなもの。
壁を境に天界の内側と外側に向かって爆風のように強烈な風が吹いている。
まるで内側の者達へこの先は天界の外と注意喚起するように、外側の者達へ立ち入り禁止と警告するように。
その二つの風が紙一枚程の境目で向かい風から突然追い風に切り替わる空の難所。
それが風の壁だ。
「うぅ……」
久路乃はすぐに意識を取り戻した。せいぜい三〇秒位だっただろうか。
新雪の上とはいえ、墜落の衝撃ですぐには起き上がれず、呻き声を上げながら芋虫のようにもぞもぞと体を起こした。
「……っ痛たたた……」
へたり込んだまま、自分の身に起きたことを整理する。
風の壁は自然現象なので毎回必ず同じ場所に発生すると決まっているわけではない。
だから地面に標識を立てておくことはできない。
だが普段はどんなに手前に発生していても岩山が見えてきた辺りで着陸すれば無事だった。
こんなに手前に発生していることなど初めてだった。自らの経験を過信していた。
打った体をさすりながら上を見上げると雪が北と南に向かって激流のように流されている。間違いなく真上に風の壁が発生していた。
下から見たことでわかったが、空中では無理だった。
その余波が地表にも届いて吹き荒れるが、空中よりは弱まっているので徒歩で越えるのだ。
なぜ墜落したのか、空中の状況はわかった。
次に周囲を見渡すとあちこちに白い人間大の塊が点在しているのを見つける。
それを見た久路乃は慌てて立ち上がった。
ここは悪人を留め置く天界の辺境——
悪人が反省するまで出ていくことを禁じた極寒地獄。
神が風の壁で飛ぶことを禁じたのは徒歩ならば抜けて良いという意味ではない。
そこかしこに点在する塊達がその意志を示していた。
「ここから離れないと……」
体の痛みは引いていた。もう走れる。
新雪を蹴散らしながら再び岩山を目指して久路乃は駆け出した。
早く壁の下から離れないと〈
氷精は文字通り氷の精霊だ。すべてを凍て付かせようとするが悪意からではなく、そういう本能だからだ。
北の辺境に多く住み着いているために極寒の地となった。
彼らにはあらゆるものを寒冷に保とうする習性があるので、動きや熱を感知すると集まってきて凍結させようとする。
白い塊はその習性の犠牲となった悪人達。
身動き一つできない氷像になって反省するまで永遠に放置されるのだ。
知性はなく、習性に忠実な彼らは縄張りの中で動くものすべてが凍結の対象。
天使であろうと例外ではない。
おそらくこの付近に沢山集まっているはず。
頭ではなく、体感としてどこで待っていれば獲物に出会えるかを知っているのだ。
悪人は壁の外側にいるし、「翼付き」も壁の外側に落ちてくることを。
だから久路乃は駆け出したのだ。どうせ動かなくても熱で見つかる。
天使なので、捕まって凍結させられても自力で解除できるが、数が多い。
囲まれて解除と凍結を繰り返している時間はない。
今も喜手門市の魔界化は進んでいることだろう。じっとしている場合ではない。
一気に壁の下から離脱することを選んだ。
すぐに周囲で雪を巻き上げる小さな旋風がいくつも沸き起こった。
その中心に透明で無表情な幼子の姿が見える。
氷精だ。
全方位、見渡す限りに現れて久路乃の方にノロノロと近付く。
動きは緩慢なので久路乃は間を縫って疾走し続ける。
一対一の追いかけっこなら絶対捕まらない相手だが、数が多すぎる。
抜いても、抜いても、包囲を突破できない……
(まずいな……)
爆風に巻き込まれないギリギリの高度を飛んで離脱しようか。
だが地上から伸びる旋風の冷気——
擦っただけで瞬時に翼が凍って再び墜落するだろう。
(焼き払って突破しようか?)
天使も神ほどではないが火や雷などの力を操ることができる。
久路乃も天使なので当然可能だった。
熱に集まる氷精だが、冷却しきれない程の高熱に晒されれば、溶けて霧散する。
数匹程度が相手なら悪い方法ではないように思える。
問題はその数が、何百、何千、更に増加中だということだった。
さすがにその数を焼き払うのは時間がかかるし、前方に対処している間に後方からの包囲が狭まるということにもなりかねない。
走りながらどうしようかと思案していると、急に氷精達の動きが止まった。
皆久路乃に対する関心を失い、岩山の方を見ている。
彼女よりもっと興味が湧くものを見つけたのか、一斉にその方向に流れていった。
まるで大好きな遊具に群がる子供のように中心に集まり、山のように折り重なっていく。
何を見つけたのか知らないが、もし悪人なら天界の地獄に到着早々氷像に変えられてしまったことになる。
申し訳ないが、注意を引きつけてくれているうちにここを離脱しよう——
心の中で詫びと感謝を述べながら氷精達の山を迂回しているときだった。
その山から噴火前の火山のように水蒸気が立ち上り、そして白く爆発した。
白い爆発は早い段階で「遊具」に縋り付いた者達の成れの果て。
遊具が発する高熱に溶かされ水蒸気になったのだ。
それを後から辿り着いた者達で蓋をしていくから圧力が溜まり、限界に達したときに爆発した。
予想外の出来事にびっくりしたのか、氷精達は蜘蛛の子を散らすように退散していった。
後に残されたのは久路乃と遊具だけ。
呆けて立ち尽くす久路乃。
そんな彼女のところへ新雪をジューっと白煙に変えながら遊具が近づいていく。
「新しい罪人かと思ったら、あんたかよ」
その遊具は久路乃の半鬼、炎怒だった。
炎怒は炎の使い手。氷精が束になっても冷却するのは無理な相手だった。
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