第2話 膨れ面の甥


「伯父さん、ママに何を言われたか知らないけれど、自分のことは自分で決めるからね」


甥の孝之は私の家に来るなり、いきなりこう言ってきました。


「おいおい、挨拶ぐらいはしろよ」

「あ、え、今晩は」

「ああ、今晩は」


出足を挫かれたものの、「伯父さんの言う通りにはならないよ」と言わんばかりに、孝之は膨れ面のまま、ぷいっと横を向いてソファに腰掛けていました。

私の両親は既に亡くなっており、五十に手が届く私は未だに独身、妹もバツ一。そういうこともあり、私はこの孝之を小さいときから可愛がっていました。


「おい、コーヒーか、ジュースか?」

「あ、うん、コーヒー」


彼の様子から、いきなり本題に入っても反発するだけで、何も進まないと思い、“まあ、じっくりといくか”とコーヒーにケーキでの懐柔策から入ることにしました。


「これ美味いだろう?」

「うん」

「研究室の女の子に教えてもらったスィーツ店で買ってきたんだぞ」

「ふーん」

さほど関心がないような素振りなのだが、食欲は旺盛です。

「もう一つ食べていい?」

「ああ、いいとも。伯父さんひとりじゃ食べきれないから、一つと言わず、全部食べちゃえ」

「へへ、それは無理かも知れないけど、美味いよ。このケーキ」


膨れ面も治まってきたようだが、まだ本題に入るのは早すぎます。


「孝之、彼女、いるのか?」

「いきなり、何だよ、伯父さん?」

「いや、お前も十七だからな。聞いてみたくてな」


顔を赤くして、「い、いる訳ないじゃん」という反応を期待して、ちょっとからかってみたのですが、平然と「まあ、いるにはいるけど、美人じゃないよ」と答えが返ってきましたが、それどころか、

「伯父さんはどうなんだよ?ママはいつも言ってるよ。『あの年で独身なんて、どうなってんの?』って。誰もいないの?このケーキを紹介してくれた助手のお姉さん、告ってみたら?」

と反撃してきやがった。周囲が「留年」を心配しているのに、元気と言うより、口の減らない甥っ子です。


「伯父さんはシャラポア一筋だからな。他の女は目に入らないんだ」

「全く、いつまでシャラポアなんだよ。とっくに結婚しちゃったじゃないか。ロシア文学の教授だからって、そんな言ってんから、独身なんだよ」


孝之の顔は、呆れとそれに「伯父さんに勝った!」とでも言いたげで、先程までの膨れ面はすっかり消えていました。


よしよし、これなら、いいぞ。「彼女ネタ」も説得材料になるし、「彼女がいるのに留年はできないよな、孝之」と脅かすと、「え、あ、いや、伯父さん…」と慌てています


さあ、攻守ところを変えて、今度は私の番です。


食べ終わったケーキを片付け、淹れなおしたコーヒーを孝之のカップに注ぐと、「さっきのは、ハワイコナ。これはキリマンジャロだ。ちょっと、ほろ苦いかな。甘いものを食べた後だから、ちょうどいいかな」と小休止。説教されると身構えていた甥っ子は、少し拍子抜けのような顔になっています。


「成績が悪いことを責める訳じゃないから、俺の淹れたコーヒーを味わえよ」

「だけどさ、大学教授の伯父さんには、僕のような出来の悪い奴の気持ちは分からないでしょう」


コーヒーカップを手にした彼は、ちょっぴり拗ね顔で、幾分か背を丸めているようにも感じます。


「そんなことは無いよ。伯父さんにもあるんだよ。赤点取ってさ、職員室に呼び出されたことが」

「え、本当?ママはそんなことは言ってなかったけど。『伯父さんは昔から頭がよくて、職員室で褒められてばっかり』、そう言ってたけどな」

「ははは、ママは知らないだけだよ。そう、伯父さんが高校二年だから、ママは中学三年で、受験だったから、気がつかなかったんだよ」


そう、あれは高校二年生の二学期、期末テストでした。物理が苦手で、それまでは何とか赤点を取らずに済んでいましたが、とうとう運が尽きてしまいました。


試験休み中なので学校内はとても静か。職員室に呼ばれて、「どうしたんだい?」なんて優しい言葉から始まる、あの場面。

「片山(かたやま)君、こっちだ」

物理の先生が手招きすると、周りの先生たちの「へえ、そうなの、出来ないんだ?」とでも言いたげな視線、思い出したくもありません。


「伯父さんもあの空気を味わったんだ」

「そうだよ。でもな、面白かったぞ。意外に真面目な奴も呼び出されていんだよ。『俺、数学がダメなんだよ』とか『俺は英語』なんてね。みんな隠しているだけで、苦手はあるってことさ」


私がコーヒーを啜ると、孝之が「へへ」っとバツが悪そうに頭を掻きました。


「でも、みんな一ケ科目でしょう?」

「お前は何科目だ?」

「三科目。数学、物理、それに化学。伯父さんに似て、理系が全くダメなんだよ」

「おいおい、俺は化学は出来たぞ。なにしろ暗記すればいいからな。お前もせめて暗記で切り抜けられるものはクリアしておけよ」

「うん…」


彼は下を向いていたので、表情はよく分かりませんが、素直な返事でした。そろそろ本題に入ってもいい頃です。


「赤点をとっても呼び出しで終わっているうちはいいけど、留年はダメだな」

「……」

「伯父さんも、これは経験していないから、どんなに大変なことになるかは、正直、よく分からん」


孝之は顔を上げると、私を真っ直ぐに見ていました。


「伯父さんの高校時代に留年した人が2人いた。理由は勉強のことじゃなかったが、一人は退学し、一人は残って、一年遅れで卒業した」

「辞めた…」

「うん、辞めた。じゃあ、その話からしようか」


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