第二話 おじさんのこと

「ただいまー」

「おかえり。今日は早いんだね」


 いつものように事務所のドアを開けると、いつもと違う声が返ってきた。


「あれ、ユキさん。こんにちは。おじさんは?」

「今日は珍しく仕事で出掛けてるんだよ。二時過ぎには帰ってくるって言ってたから、もう戻るんじゃないかな」


 ここのお隣にある喫茶店『輪舞曲ロンド』の元マスター、ユキさんは老紳士という言葉がぴったりなお洒落でスマートなおじいさん。ここの常連さんの一人で、今日みたいに留守番をしていることもある。


「朋華ちゃんが来るなら夕方だと思ってたよ」


 事務所の奥、入り口からは顔も見えない机がユキさんの定位置で、パソコンに向かっているということはフリーセルゲームをやっているはず。

 ちなみに、この事務所にはパソコンが三台あって、一番古いのがユキさん専用。最新のがおじさん専用で、もう一台、おじさんが以前使っていたパソコンをわたしやユウキちゃんが使っている。


「今は試験中だから、学校も午前中で終わるんです」


 パソコンを立ち上げてパスワードを入力する。


「お昼ご飯は食べたのかい?」

「友達とサイゼに行ってドリアを食べてきました」


 言っちゃってから、サイゼで通じたのか少し不安になったけど、反応がないからスルーしたのかもしれない。

 会話が途絶えて、お互いに目の前の画面を見てる。

 気まずいわけじゃなく干渉しない感じ。

 なんだかんだ言っても、ここの主はおじさんだから。いるといないじゃ空気感が全然違う。

 でもこのまま無言でパソコンに向かってるのもねぇ、と思ってボカロを連続再生してからユキさんに聞いてみた。


「おじさんは何の仕事で行ったんですか」

「たしか結婚相談所の依頼だと言ってたよ。素行調査ってやつじゃないかな」

「ソーコ調査?」

「そ、こ、う、調査」


 ユキさんに笑われちゃった。てへ。


「結婚しようとする人がどんな生活をしているのか、言っていることと合っているかを調べたりするんだよ」

「ふーん。自分は結婚してないのに……」


 独り言のつもりだったのにユキさんが静かに言った。


「祐一君も結婚してたんだよ」


 え……あ……。

 誰のことを言ったのか一瞬分からなかったけれど、おじさんの名前が祐一だというのを思い出した。普段は名前を意識していないからなぁ。

 それよりも、結婚してたんだ……。おじさんもやっぱり……。

 忘れたいけれど忘れられないことを思い出して胸がキュッと締め付けられる。


「……おじさん、離婚したんですか」


 おそるおそる聞いてみた。

 ユキさんは聞こえなかったのか、何も言わない。

 でも気になって気になって、パソコンから聞こえてくるボカロも耳に入らない。

 もう一度聞いてみよう、そう思ったとき。


「いいや」


 大通りを走る車なのか、歩いている人なのか、ユキさんは遠くを見ていた。


「亡くなったんだ」


 そのまま窓の外に目をやりながら静かに話してくれた。

 奥さんの裕美さんもおじさんと同じように設計の仕事をしていたそうだ。それも結婚してから専門学校に通って資格を取ったらしい。


「自分に影響されたみたいで、と照れながら話してくれたよ」


 よき理解者、っていうのかな。そんな関係、ちょっとあこがれる。

 違う会社で仕事をしながら、独立して一緒に設計事務所を立ち上げるのが二人の夢だったみたい。


「忙しい仕事だとは聞くけれど、二人とも働き盛りで大変だったのかな」


 わたしがおじさんと出会う前の年の八月、裕美さんは仕事場で倒れてそのまま亡くなった。急性くも膜下出血だったそうだ。

 おじさんが病院に駆けつけたときにはもう息を引き取った後だったらしい。


「彼はとても落ち込んでね……自分を責めていた。もっと早く気づいてあげられたんじゃないかと。ご両親を相次いで亡くしてから一年も経っていなかったので、余計に応えたんじゃないかな」


 そんなことがあったなんて、全然知らなかった。

 お互いに話したくないことは話さないままでいたから。


「仕事も辞めてしまって半年以上もここに引きこもってたので、何とかしなきゃと思ってね。すぐ裏に住む、元町会長の爺さんと一緒になって、半ば強引に小学校の見守りをやらせたんだよ」


 あのおじさんが落ち込んで引きこもっていたなんて想像もつかない。

 いつも前向きでわたしたちのことも励ましてくれるのに。


「少しは気晴らしになれば、くらいに思ってたのに。こんなに祐一君がこども好きだったなんて知らなかったよ」

「それじゃ、おじさんには子どもがいなかったんですか」


 今までの話には出てこなかったし……。

 ユキさんは黙ってうなずいた。


「朋華ちゃんたちには本当に感謝しているんだよ。すっかり彼も元気になったし」

「いえ、わたしは何も……」


 そう、何もしていない。

 わたしの方こそ、遊びに連れて行ってもらったり相談に乗ってもらったり、毎日のように元気をもらっている。


「こんな話、祐一君はしないんだろ? いまの話は聞かなかったことにして、朋華ちゃんの胸の中だけにとどめていて欲しい。きっといつか彼から話すときがあるはずだから」

「わかりました」

「今まで通り、たくさん甘えてやって。彼はこの事務所ビルの収入だけで充分食っていけるんだから遠慮しなくていいよ」


 そう言って笑うユキさんにつられて、わたしも笑った。


「ただいま」


 そこへおじさんが帰ってきた。


「お帰りー」

「何の話で盛り上がってるの?」

「今日のおやつは何かな、って話」

「ほんとかぁ? ま、いいや。はい、これ」


 そういうと手に持っていたビニール袋を差し出してきた。

 芳ばしくてほんのり甘い、いいにおいがする。


「ユキさんに留守番を頼んだから、お土産に天然のたい焼きを買ってきた」


 袋から紙包みを出すとほんのりあったかい。


「なに、天然のたい焼きって?」

「えー朋華、知らないのかよ。一匹ずつ金型で焼く方法で、俺の小さいころから両国に浪花屋っていう――ぅぎっ!」


 話が長くなりそうなので、とりあえず腹パンしておいた。


「うんちくは後でいいから。冷めないうちに食べよっ」

「まったく……買ってきてもらっといて……」


 ぶつぶつ言いながら手を洗いに行ったおじさんを見ながら、ユキさんと顔を見合わせてまた笑った。

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